司馬さんと対面「あんた、いい質問するなぁ」

話の肖像画 歌手・俳優 武田鉄矢<28>

司馬遼太郎さん (昭和63年6月)
司馬遼太郎さん (昭和63年6月)

《18歳で司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」に出会い、人生が変わった武田さん。昭和63年、大阪の司馬邸を訪ね、あこがれの人に会った》


関西のテレビ局が私を使ってシルクロードを探索する番組を作るということで、お話を聞くことになったんです。強烈でしたね。じーっと手ばかり見ていました。「この手が『竜馬がゆく』を書いたのか」と。ただのファンになり果てていました。

番組の趣旨がシルクロードなので、司馬さんがシルクロードに憧れた時期があったという話が中心でした。こっちは坂本龍馬の話がしたくてたまんないわけですが、私がシルクロードについて質問したとき、俄然(がぜん)という感じで司馬さんの目の色が変わったんです。「あんた、いい質問するなぁ」って。

アホみたいな質問ですよ。シルクロードの大砂漠地帯にはオアシスの街が点々とありますが、「なぜそんな不便なところに人間は住むようになったのでしょう」と聞いたんです。答えはすごくシンプルで、ヨーロッパから中近東にかけて何遍も伝染病で苦しみ、伝染病にかからないエリアはどこかといったら砂漠だったと。病原体から逃れるために、そういうところに適応したんだと。

語り方がものすごいんです。活動写真みたい。例えが抜群で、「大きな巨人がおりましてな。バーンと手のひらを平べったい砂漠に押し付ける。その指と指との間に人間は街を作っていった。その一筋がテンシャン山脈。こっち側がね、タクラマカンの大砂漠になる」と。

「巨大な手のひらであったから、上の方は雪が積もる。雪が積もると解けて裾野に向かって水を流し出す。その水を糧として放牧という生き方を選んだ。暑ければ山の上に、寒くなったら下に下りてくる上下の放牧だった」という感じで。

放牧の暮らしを選んだのは、おそらくモンゴルから南下した騎馬民族であったろう。彼らがズボンなどの文明の道具を発明して東へ移動していった。中国に広がり、その一部が日本に流れ込んだのではないだろうかと。人類4千年くらいを30分くらいで話されるんですよね。

司馬さんの解釈は、東洋と西洋がぶつかった人種がウイグル人とのことでした。「見てくると面白いよ」と言われたのは、髪の毛は黒く、顔つきは東洋人なんだけど、目が合うとブルーだと。そういう人種が衝突した種が、あそこには生きている面白さということです。

ワクワクして聞いていたら、そういう人たちを野蛮人扱いする困った中国人がいるという話になりました。中国東北部のモンゴル系の人たちが住むエリアで中国の公安の扱いがむごい、鋲(びょう)のついたムチで人をたたくことが許し難いとおっしゃるんです。人を整理するためにやってるのかもしれんけど、鋲をつけることはないじゃないかと。

司馬さんは、他の人種に対する上から目線をすごく軽蔑なさったみたいで。マジョリティーの大国家の人間っていうのが、どのくらい嫌か。司馬さんにはそういう感性、あるじゃないですか。中華思想は、辺境少数民族のヤマトやウイグルの人たちの目線からすると許し難し、という少数民族の正義みたいなものを感じてゾゾッとしました。


《「龍馬好き」が縁で、平成23年に長崎市の亀山社中記念館名誉館長に就任した》


長崎で龍馬を観光資源にしようという機運が高まり、市長から直接依頼がありまして。龍馬が結成した亀山社中の遺構が記念館になっていますが、展示物があまりない。実は以前、高知で映画のロケをしていたときに龍馬の肖像画をお持ちの方がおられ、「あんたが持っといたほうが絶対値打ちがあるよ」と、いただいたんです。わが家で飾っていたんですけども、たくさんの人に見てもらったほうがいいなと思い、記念館に寄贈しました。(聞き手 酒井充)

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