金八先生出演依頼「名字は坂本にして」

話の肖像画 歌手・俳優 武田鉄矢<16> 

「3年B組金八先生」の主題歌「贈る言葉」を熱唱=昭和55年
「3年B組金八先生」の主題歌「贈る言葉」を熱唱=昭和55年

《映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」で成功すると、テレビドラマの出演依頼が相次いだ》


芝居ができるということが少し業界に知られ、NHKとTBSからレギュラーの仕事が舞い込みました。TBSは向田邦子さんの「水曜劇場」で、「せい子宙太郎」という森光子さん主演のホームドラマに出たんです(昭和52~53年放送)。

そんなときにTBSの新春パーティーがありました。TBSは女流作家をすごく大事にしていたんです。向田邦子、橋田壽賀子、小山内美江子。テレビ界にとって大変な才能の3人です。そのパーティーに飯を食いに行くと、向田さんが「武田君」と言って、ほかの2人に私を紹介してくれたんですよ。

向田さんは「武田君はすごく頑張る子で映画もすごく良かったんだけど、ちょっと手足が動きすぎるんだよね」って。そしたら興味深げに私の方をじーっと見ていたのが橋田さん。小山内さんは「へえ、あなた動きすぎるの」と声をかけてくれて。

そのとき、ちょっと言い訳しまして。実は私、ふるさとの福岡にいるときに聾啞(ろうあ)学校の先生になろうと思っていたので、子供たちに教えるときは手も足も全部使わないとダメで、それで、やたら動くようになっちゃったんですよって。小山内さんが何げなく「へえ、そうなの。だったら学校の先生(役)やればいいじゃん」とおっしゃいました。よく覚えてるんです。私は青春のスターと呼ばれるぐらいの人になりたいなっていうのがあったので。


《この出会いが、名物ドラマへの出演につながった》


「せい子宙太郎」には、ディレクターで柳井満という人がいたんです。この人が本当にやる気がなくて。普通は3、4回リハーサルをやるんですが、台本の読み合わせ後に軽く打ち合わせをして「はい、本番行きましょう」って。その柳井さんが横目でじーっと私のことを見ているのは気づいてました。

1年ちょっとたったら、突然その人から連絡がありまして。「ドラマ、一緒にやらないか」って。どんな脇役かなと思ったら「いや、あなた主役ですよ」と。中学校の先生役で、小山内さんと話したら、あなたの顔が浮かんでねって言うんです。

それで小山内さんを交え3人で食事をしました。小山内さんは中学校教育の詰め込み主義みたいなのを批判したいと言って「あんた、前に言ってたけど、手足が動くんでしょ。今度は十分に動かしていいよ。教壇に立っているの、あんた一人しかいないから」って。

ドラマは金曜夜8時の放送が決まっていましたが、絶望的なんですよ。時間帯が。日本テレビ系は「太陽にほえろ!」、テレビ朝日系はアントニオ猪木の「ワールドプロレスリング」。どうあがいても青少年が見るのは、ぼかすか犯人をやっつける刑事ドラマか、一世を風靡(ふうび)していたアントニオ猪木のプロレスなんですよね。これはダメだという雰囲気は漂っていました。私もたいした評判にはなるまいと思いましたが、平凡なもんですよね。母ちゃん、喜ぶなと思ったんです。父ちゃんも喜ぶなって。その程度のことでした。


《放送時間にちなみ先生役の名前は「金八」と決まっていたが、名字は未定だった》


小山内さんが食事のとき「ドラマは『金八先生』っていうのよ」と言ったんです。そこで私が「上の名前は?」と聞くと「何にしようか」と。そこで「坂本にしてください」と言ったんです。なぜかと聞かれ「坂本龍馬が好きなんです」と答えました。すると柳井さんが聞き漏らしていなかったんですね。金八先生が下宿している部屋のセットに入ったら龍馬の写真が飾ってありました。キャラクターの一環として、この先生は龍馬が好きで、子供にお説教するときも龍馬を語るということになりました。(聞き手 酒井充)

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