《初めて俳優として参加した昭和52年公開の映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」を監督した山田洋次さん(92)も、美空ひばりさんらのように戦前を背負っていた一人だという》
山田監督は、中国大陸から引き揚げてきた典型的な戦前・戦中派ですよね。エンターテインメントの世界には多いんですよ、敗戦を背負った方が。作詞家・作家のなかにし礼さんも暗い目で私にいろいろと語ってくれました。
美空ひばり、三波春夫、渥美清、高倉健、菅原文太…。もう素晴らしい歌手や俳優とすれ違って、時に一緒に仕事もしました。それは語り残しておかないと、彼らに申し訳ないような気がして。
《最近は「老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート」(文春新書)など、「老い」をテーマにした著書も多い》
やっぱり、どこか老いの自覚から始まったことなんです。私が体験したことは、自分の中にしまっていてはいけないんじゃないか、というのは。昭和、あるいは平成、あるいは令和でもいいんですけど、自分が歩いた道の風景を、これからその道を歩く人たちに語っておかないと、何のために福岡から出てきたんだ、という気がしているんですよね。
60歳をちょっと過ぎて、素晴らしいことに、色気がなくなりましてね。やっとそういう目を持つことができるようになったんですよね。
《61歳だった平成23年、心臓の病気「大動脈弁狭窄(きょうさく)症」と診断された》
心臓の中に欠陥が見つかりまして。大動脈弁が、ちょっと異常だったようでして。心臓に血液を送り込む太い血管の弁が普通は3枚あるんです。それがきちんとドックン、ドックンと開き閉じしているんですけど、私は2枚しかなかった。若い時は2枚の弁で十分賄うぐらい、しなやかだったんですが、加齢とともにそれが硬くなってきて。
それで不整脈が出る。困ったことに全く自覚がないんですよ。ただ、言われてみてハッと気がついたのですが、マラソンが苦手だったんですよね。短距離はいいんですけど、長い距離を走ることが嫌で嫌で。どうもそれが血液の送りが順調じゃなかったみたいなんです。
ちょうどTBSドラマ「3年B組金八先生」の最後の放送となった「ファイナル」(23年3月放送)の撮影をしていて、東日本大震災が発生したころです。そういう異常が見つかり、人工弁を入れました。その年の秋に手術を行い、1カ月ぐらい入院していましたけど、そのあたりから「際どく俺も生きているんだなあ」という思いが強くなっていきました。
私は金八先生の役を終えて教壇から降り、今は生徒の席に座っているつもりなんです。合気道を教わったり、本を読んでラジオ番組「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」(文化放送)でネタにしたりということをやっていますが、でも、どこかでやっぱりまだ残像として教壇に立っているんでしょうね。
目の前にいる子供たちに自分がどんなふうに生きてきたのかを面白おかしく伝えれば、その子供たちの人生の中で、ほんのわずかでも何か役に立つことがあるんじゃないか、っていう。教室で教壇と生徒の席を往復していることが、自分にとっては、すごくバランスがいいような気がします。
ご注意ください、人生を急ぐ方。自分の人生のテーマなんてなかなか見えてきません。数量、数値とか計測できるものに目が行きがちですが、やっぱりテーマはそこじゃないです。年をとってから気づいたことがいっぱいあるんで、その気づきを若い人に伝えられることがあれば。それが今、自分が生きている理由ではないかなと思うんですよね。(聞き手 酒井充)