大阪の長屋 古くても「高級」 大大阪時代の名残り 保存広がる

須栄広長屋は、通りに面して全面ガラス窓の2階縁側があるのが特徴=大阪市生野区
須栄広長屋は、通りに面して全面ガラス窓の2階縁側があるのが特徴=大阪市生野区

一棟の建物を壁で共有する集合住宅「長屋」。京町家や古民家のカフェなどが注目されるなか、大正後期から昭和初期の「大(だい)大阪」時代に建てられた大阪特有の近代の長屋も見直されている。日本の伝統様式が詰まった建物としてまちの景観と文化をつくってきたものの、都市部では老朽化などで取り壊しの対象とされることもある。大阪公立大の教授や学生らが15年ほど前から改修や保存活動の研究に取り組んでいる。

味わいと快適さ

大阪・梅田にほど近い「豊崎長屋」(大阪市北区)は、明治期の建物もある長屋群。都市中心部にありながら、周辺は舗装されていない土の路地が風情を漂わせる。

 皆川ゆりさんが入居している豊崎長屋・東長屋は前庭や縁側、2階には床の間もある=大阪市北区
皆川ゆりさんが入居している豊崎長屋・東長屋は前庭や縁側、2階には床の間もある=大阪市北区

11月、豊崎長屋など大阪市内に残る約30の長屋の住人が自宅を公開するイベントが開かれた。「オープンナガヤ」と称し、大阪公立大を中心に構成する実行委員会が平成23年から開催。同大の長屋保全研究会が改修を手掛けた長屋などが参加している。実際の暮らしぶりを見てもらい、長屋の魅力を伝える試みだ。

建物を囲むように立つ塀が特徴の豊崎長屋・東長屋の住人、皆川ゆりさんは「冬は厳しい寒さ。でも前庭と縁側が見える和室は居心地が良く、会社の友人を招いてよく飲み会を楽しんでます。庭木や風通しで季節の風情も感じられますよ」と教えてくれた。

豊崎長屋・東長屋の2階からの眺め。都心部の立地で周辺にはマンション=大阪市北区
豊崎長屋・東長屋の2階からの眺め。都心部の立地で周辺にはマンション=大阪市北区

2階には床の間もあり、天井が高く、広々としている。長屋の特徴の急な階段は付け替え、カーブをつけて角度をなだらかにしている。「縁側から見える瓦屋根越しの夕焼けがすてきなんです」。元の味わいを残しながら快適さも実現している。

悩める大家たち

人口で東京を抜き、大大阪と呼ばれた大正後期から昭和初期の大阪。大阪公立大生活科学研究科の小池志保子教授によると、住宅不足の解消も兼ねて長屋の建設が進められた。当時の活力を背景に「高級感のある住宅だった」という。

品質のいい材料を用い、格子、欄間の細工にこだわり、前庭や裏庭、縁側、床の間を備えるなど「小さいながらも豊かな暮らしを目指していた」。

門構えや塀、前庭のほか2階に座敷や縁側を持つ邸宅風の長屋、応接室のある和洋折衷の長屋など富裕層向けの物件も登場した。

ただ、戦後は再開発や老朽化で、大半が取り壊され始めた。そのなかで平成15年に「寺西家阿倍野長屋」(阿倍野区)が長屋として長屋として初の登録文化財になった。同じ時代の長屋群が北区豊崎にもあり、価値を見出した同大の研究者や学生らが長屋の保存活動を開始。約15年前から豊崎長屋で改修、再生を手掛けている。

豊崎長屋での取り組みがモデルケースとなり、他の長屋でも同大の長屋保全研究会が支援するようになった。昭和8年建築の「須栄広(すえひろ)長屋」(生野区)もその一つ。大家の須谷雅子さんは改修の効果を「床が抜けそうなくらい傷みが激しく取り壊すつもりでした。でも、梁(はり)や柱は使えるといわれ、半信半疑で手を入れたら見違えるほどによみがえったんです」と話す。

須栄広長屋のうち1棟は、4戸あった長屋の1戸を共用のリビングに改装。憩いの場となっている=大阪市生野区
須栄広長屋のうち1棟は、4戸あった長屋の1戸を共用のリビングに改装。憩いの場となっている=大阪市生野区

須谷さんはオープンナガヤで豊崎長屋を見学したことをきっかけに、保存に関心をもった。須栄広長屋では、小池教授の提案で住人らの共有スペースとなるリビングに作り替えた住戸もあり、住人の憩いの場所になっている。

オープンナガヤで長屋暮らしを見て居住を希望する人も少なくなく、大家にとっても居住者にとっても、長屋の価値を再発見する場になっている。

須栄広長屋の魅力について語る小池志保子教授=大阪市生野区
須栄広長屋の魅力について語る小池志保子教授=大阪市生野区

同大生活科学研究科の綱本琴研究補佐は「老朽化による倒壊や火災、治安などへの不安で長屋は取り除くべきだとの声もあるが、多くは魅力的な建物で再生もできる。大学の協力で保存活用につなげていければ」と話す。

内装 自分好みに

小池教授によると、大阪府は明治19年、天井高や長屋間の間隔などを定めた「長屋建築規則」を全国で初めて導入。無秩序な開発にならないよう、歯止めをかけた。規則的な長屋で街区をつくり、都市を形成する狙いもあったという。

大阪の長屋でもうひとつの特徴が、江戸期以降の大阪独特の文化という「裸貸(はだかがし)」だ。借り手が畳や襖、障子といった建具など内装設備を自分で用意し、引っ越しの際はそっくりもっていくというシステム。畳の寸法をそろえ畳を基準に柱の間や鴨居(かもい)の高さも統一されたため、建具の寸法も共通していたことから可能になった。明治以降の長屋にも引き継がれたという。

内装を自分好みに整えるなんてまるで現代のリノベーションだ。時代を先取りしていたともいえるかもしれない。

修理に適した木造建築

「大大阪」時代の名残を残すとされる昭和25年以前に建設された比較的古い長屋は市内に約7600戸(総務省調べ、平成30年時点)。この25年間で約9割減少し、姿を消しつつある。

桃ケ池長屋の構造を説明する住人の伴現太さん=大阪市阿倍野区
桃ケ池長屋の構造を説明する住人の伴現太さん=大阪市阿倍野区

一方で近年は、長屋の需要も少しずつ増えている。昭和初期に整備された長屋が多く残る同市阿倍野区昭和町で「桃ケ池長屋」に住み、飲食店や設計事務所を営む建築士の伴現太さんは、近所の長屋の大家から改修の相談を受けることが多いという。「長屋で地域とつながって商売をしたい」という要望が少なからずあり、そうした改修をいくつも手がけてきた。

「物資不足の戦後の長屋と違って、戦前の長屋は良質な材料で頑丈に造られており、修理すれば使えるものがほとんど」と話す。

改修には専門の技術も必要だが、長屋が残れば技術が継承されるメリットもあるという。(北村博子)

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