話の肖像画

歌手・さだまさし<17>「グレープ」デビューはしたけれど…

「グレープ」の2人。㊤が吉田政美さん、㊦が本人=昭和49年12月
「グレープ」の2人。㊤が吉田政美さん、㊦が本人=昭和49年12月

<16>に戻る

《宮崎康平(こうへい)さん(1917~80年)は島原鉄道の経営者にして、『島原の子守唄』をつくったり、『まぼろしの邪馬台国』のベストセラーを書いた郷土史家。さださんの父、雅人(まさと)さんは宮崎さんと親しく、その縁がフォークデュオ「グレープ」の誕生にひと役買うことに》


「グレープ」のプロデューサー役は吉田(政美(まさみ)氏、リードギター担当)でした。長崎の僕の実家でセッションをしているうちに、クラシックバイオリン(さだ)とジャズギター(吉田)のフュージョンという形は面白いんじゃないか、と盛り上がっていたのです。

ある日、おやじと一緒に宮崎先生のお宅へうかがい、僕らの歌を聴いてもらう機会がありました。宮崎先生は興味を持ってくださり、「気に入ったら宣伝してくれるかもしれん。あいさつに行ってみなさい」と地元の長崎放送と長崎新聞の担当者を紹介してくれたのです。

昭和47(1972)年11月、長崎放送の小さなホールで僕らはコンサートを開くこととなり、そのことを長崎新聞が記事にしてくれました。写真入りの大きな記事です。


《記事(47年11月18日付朝刊)の見出しは「あすを目指して張り切る 長崎の若者二人 25日 初めてのコンサート」。記事には長崎の街を歌ったオリジナル曲『紫陽花(あじさい)の詩(うた)』の歌詞が3番まで掲載されている。やがて、長崎放送のテレビとラジオでレギュラー番組を持ち、東京のレコード会社にスカウトされ、『雪の朝』でデビューするのは翌48年10月だ》


「グレープ」の名前はデビュー前、友達の依頼で長崎大学の学園祭で歌ったとき、その場で決めました。吉田が五線譜の真ん中に、ぶどうの絵をひと房、書いていたのをみて、「ひとつひとつぶどうの房を増やしていこう」という思いで、横文字の「GRAPE」と名付けました。吉田もいいねって。

当時は、フォークブーム全盛のころ。ステージでは〝客寄せ〟にフォークっぽい曲を2、3曲やって、僕らがやりたかったジャズ・ロックの曲を弾くと、お客さんは退屈そう。再び、フォーク調、たまにクラシックやると、今度は寝ていた(苦笑)。そんな感じです。新聞に書いてもらったデビューコンサートは300席の会場でも埋まりませんでしたが…。

レコードデビュー曲となった『雪の朝』も売れませんでしたねぇ。僕自身「これは売れないだろうな」と感じていたけど、レコード会社のディレクターが「これが僕の好きな音楽なんだ」って。その年のクリスマス、ディレクターに呼び出されて売れた枚数を聞かされました。「3700枚、そのうち2000枚は長崎で売れた」

これはもうクビだな、また長崎に戻って真っ当な就職先を探そうって覚悟していたら、「次は5000枚、その次は1万枚売ろう。5万枚なら大ヒットだ」と励まされました。僕が驚いて「『次』があるんですか?」と返すと、「当たり前じゃないか。今日は第2弾の話をするために来てもらった」って。

第2弾の打ち合わせを行い、ディレクターが「長崎の行事を歌にしてほしい」というので、まず『長崎くんち』を思いついたけど、どうもピンとこない。少し前に、僕と仲の良かった同い年のいとこ(母の姉の息子、兼人(かねと)さん)が海の事故で亡くなり、お盆に彼の「精霊(しょうろう)船」を出したばかりでした。

僕は彼の精霊船を担ぎたかったのですが、ちょうど『雪の朝』のレコーディングのためにかなわなかった。その悔しい思いもあってディレクターに『精霊流し』の説明をした。それが彼の心の針に触れたらしく、すぐ「これでいこう!」と決まったのです。(聞き手 喜多由浩)

会員限定記事会員サービス詳細