朝ドラ「らんまん」の牧野富太郎 名門灘中・高に甦る「幻のロックガーデン」

姫路・大塩でノジギク採集をする川崎正悦(左)と牧野富太郎(川崎家提供)
姫路・大塩でノジギク採集をする川崎正悦(左)と牧野富太郎(川崎家提供)

「神戸に牧野ゆかりのロックガーデンがあるらしい」。そんな話を聞きつけた。牧野とは、現在放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」主人公のモデルとなった植物分類学者、牧野富太郎(1862~1957年)。生まれ育った高知、そして東京で研究に没頭した牧野は、神戸とどんな縁があったのか。調べていくと、神戸をはじめ関西に多くの足跡を残していた。牧野と関西をめぐる物語をひもといてみよう。

関係者も知らない

それは名門、灘中学・灘高校(神戸市東灘区)にあった。石積みの痕跡は残っていたものの、80年以上も忘れ去られ、最近まで認識されていなかった〝幻〟のロックガーデンだ。

発見のきっかけは「咲くやこの花館」(大阪市鶴見区)の久山敦名誉館長の調査。世界各地のロックガーデンの歴史などを調べていた際に存在に気付いた。

そこに偶然が訪れる。2年ほど前、久山さんの講演会をきっかけに同校の海保雅一校長に話が伝わった。「お聞きするまでは学校関係者も知らなかった」。海保校長は打ち明ける。調べると、校内で存在を裏付ける関係資料が見つかった。

ガーデンは昭和9年、当時の理科教諭、川崎正悦(まさよし)と庭師の田中秀三郎が手がけた。川崎は関西の山野草研究会「大阪山草倶楽部」の発起人で、六甲高山植物園(神戸市灘区)の立ち上げに関わった人物。牧野の愛弟子で交流を深めていたという。

ロックガーデンとは大きな岩などを配置し、植物などを植え付けた庭園様式。海保校長によると、昭和10年の校友会誌に栽培されていた127種の山野草のリストもあった。同年には牧野は同校で講演している。

ロックガーデン再生に向けて草花の植え付けをする久山敦さん(右)と海保雅一校長=神戸市東灘区の灘中学・灘高校
ロックガーデン再生に向けて草花の植え付けをする久山敦さん(右)と海保雅一校長=神戸市東灘区の灘中学・灘高校

その後、火災によりロックガーデンは開設から4年足らずで放置されていた。そして80年以上たった昨秋から、久山さんらが協力し再生を目指した植栽実験が始まっている。約15平方メートルのガーデンに、原種チューリップや学名に牧野の名前がある「ミヤマヨメナ」など約70種の草花が植えられた。「川崎教諭とのつながりからこのガーデンも当然、牧野博士と関わりがあったはず。ゆかりの地であることがうれしい」(海保校長)

久山さんは「川崎教諭の遺志を継ぎ、若い人に自然を身近に感じてほしい」と成長を見守る。現在、咲くやこの花館では、かつてロックガーデンにあった山野草と同一の品種約30種を展示している。

救世主は京大生

ロックガーデン造成から約20年さかのぼる大正5年、54歳の牧野は大きなピンチを迎えていた。私財を投じて研究に没頭するうちに借金が山積。長年のコレクションである植物標本の売却を模索する。

牧野の窮状を伝えた新聞記事を見て、援助を申し出た人物が神戸にいた。父から莫大(ばくだい)な資産を受け継いだ池長孟(いけながはじめ)。当時、20代半ばの京都大生だった。

「貴重な標本が海外流出や散逸してはならない」と約10万点を3万円で買い取る。国家公務員の初任給は70円だったころで、莫大な金額だった。

さらに7年には会下山(えげやま)(同市兵庫区)に「池長植物研究所」を設立、牧野の研究を援助した。

六甲高山植物園の三津山咲子学芸員によると、牧野は毎月1回、神戸に通って標本整理や研究を行う約束だったという。しかし自由奔放な牧野は気の向いたときに植物採集に出かけ、また、入念過ぎる作業で標本整理は進まず、一般公開もされないまま研究所は昭和16年に閉所になった。

三津山学芸員はいう。 「池長がすごいのは標本や蔵書を買い取って助けただけでなく、無償で牧野に返したこと。植物学に大きな役割を果たした」。現在、跡地には記念碑が立ち、牧野ゆかりの植物が育つ。

池長孟(左)から返還された標本の引き取り作業をする牧野富太郎=昭和16年、池長植物研究所(川崎家提供)
池長孟(左)から返還された標本の引き取り作業をする牧野富太郎=昭和16年、池長植物研究所(川崎家提供)

同志と交流重ね

他にも関西には研究の同志や支援者がいた。灘中の川崎や薬種業者の日下久悦(くさかきゅうえつ)ら植物研究家だ。牧野の日記などによると、池長植物研究所の地元、兵庫では六甲山をはじめ姫路の大塩や淡路島、また滋賀の伊吹山などでも採集会を開き、近隣の学校へ出かけて講演や指導を頻繁に行っている。

六甲高山植物園で行われた牧野富太郎の講話(日下家提供)
六甲高山植物園で行われた牧野富太郎の講話(日下家提供)

そこに同行していたのが教え子でもあり支援者でもある川崎や日下だった。自宅にも招き、もてなした。「歓待してもらい、先生、先生と慕われたので気分が良かったでしょう。だから関西の人たちにはすごくお世話になっている」(三津山学芸員)

同園では個人蔵の初公開を含む写真や手紙、書作品などを通じて牧野の関西での活動や交流のようすを伝える展示会「牧野の足あと」を8月15日まで開催。全国から来園者が訪れ、三津山学芸員は「牧野富太郎の吸引力はすごい」とうなる。

牧野が関西にも拠点を置いたのは20年余り。標本の整理はできなかったが、新種も発見、「植物学の父」の真価を発揮している。その間、関西一円で植物採集や教育普及活動に力を注ぎ、川崎ら多くの研究家や一般市民らに影響を与えた。(北村博子)

牧野富太郎=昭和2年(川崎家提供)
牧野富太郎=昭和2年(川崎家提供)

牧野富太郎 高知県佐川町の造り酒屋に生まれ、東京で植物分類学を研究。数々の新種を発表し、植物分類学の基礎を築いたことから「日本の植物学の父」と呼ばれた。自ら手掛けた「牧野日本植物図鑑」は現在も研究者らに活用される。人生の後半は教育普及活動に力を入れた。

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