台湾出身の元日本兵⑤
※2001年9月13日 産経新聞掲載。敬称略
「中村さーん」に送ったまなざし
繰り返しになるが、中村がインドネシアのモロタイ島で見つかる2年前の1972(昭和47)年9月に、田中角栄首相(当時)の決断で日本は北京の中華人民共和国と国交を結び、台湾の中華民国とは国交を失った。
このため北京政府に気を使う日本のマスコミは、台湾へは記者を派遣しかねた。週刊文春の中井勝記者(現、文芸春秋取締役)、フジテレビのクルー数人、そして産経新聞社会部の山下幸秀記者(現、日本工業新聞社長)ら。日本人の取材スタッフは、ひとにぎりである。だが、それでも一連の報道は、台湾のメディアではなく、日本人記者の独壇場だった。
中村も周囲の関係者も、だれもが日本語か、アミ語など民族の言葉しか話せなかったからだ。台湾の「国語」となった北京語はおろか、台湾語ですら聞き取れなかったのは不思議な光景だった。
1975(昭和50)年1月8日午後5時50分、台北空港に到着してまもなく、中村は報道陣にもみくちゃにされた。