徳川家康 100の決断(11)

忠実に護衛している家臣を見極めるため、家康がとっさに決断した方法とは?

三方ケ原の戦いの家康を描いた『徳川治績年間紀事』(月岡芳年画・一部) 国立国会図書館所蔵
三方ケ原の戦いの家康を描いた『徳川治績年間紀事』(月岡芳年画・一部) 国立国会図書館所蔵

泰平の世を築いた徳川家康。その生涯はピンチの連続で、「どうしよう…?」と究極の選択を何度も迫られました。家康の決断を、100の問答でご紹介します。

決断21~22を読む

<問い23>三方ケ原の戦いで武田信玄に完敗した家康。敗走途中、誰が自分のそばを離れず盾となって忠実に護衛しているかを見極めたい家康が、その目印にするためとっさに決断した方法とは?

信玄の大軍を背後から追撃すべく浜松城を出撃した家康は、その動きを読んで待ちかまえていた信玄軍に大惨敗を喫します。

この三方ケ原の戦いは、多くの有力な家臣たちが盾や身代わりとなって命を散らすほど家康の生涯のなかでも最大級のピンチとされ、「三大危機」のひとつにも数えられています。

夕闇にまぎれて戦場から馬で敗走した家康は、誰が自分のそばを離れず盾となって忠実に護衛してついてきているのか顔がわかりません。

そこで家康は、そばにいる家臣たちの刀に唾を吐きかけ、マーキングをしたそうです。 痰がからんだ家康特有の唾の跡が、のちに恩賞をあたえる根拠になったといわれます。

<決断23> 家臣たちの刀に唾を吐きかける

<問い24>三方ケ原の戦いに敗れ、命からがら浜松城に逃げ帰ってきた家康。 本物かどうかを疑って家康をなかなか城内に入れなかった門番に対し、のちに家康が下した決断とは?

三方ケ原の戦いに敗れた家康は、わずか数人の家臣たちとともに夕闇のなかほうほうの体で浜松城の玄黙口(元目口)にたどり着きました。 ところが、門番が「そんな小人数で殿が帰ってくるはずがない、偽者ではないのか」と言って、なかなか城内に入れてくれません。

信玄軍の追っ手が迫るなか、焦った家康が門番に顔を突きだし、やっとのこと門が開いたといいます。その後、家康は門番を叱らず、「簡単に門を開かなかったのは、門番として職務に忠実で立派である」と讃えて褒美をあたえたそうです。

<決断24> 職務に忠実で立派だとして褒美をあたえた
家康が逃げ帰った城門「玄黙口(元目口)」の跡
家康が逃げ帰った城門「玄黙口(元目口)」の跡

※産経新聞出版「家康100の決断」より

決断25を読む

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