九州〝深〟探訪

幻の戦闘機「震電」模型展示 福岡県筑前町立大刀洗平和記念館

筑前町立大刀洗平和記念館で展示されている震電の実物大模型
筑前町立大刀洗平和記念館で展示されている震電の実物大模型

終戦前、プロペラを機体後部に付けるという斬新な航空技術を駆使した旧日本海軍の戦闘機「震電(しんでん)」が、現在の福岡市博多区にあった蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)を飛び立った。米爆撃機B29の迎撃のため開発された最新鋭機だったが、すぐに終戦を迎え「幻の戦闘機」として歴史の片隅に追いやられた。福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館では「航空技術発展のシンボルに」と、この震電の実物大模型を購入して7月から展示、ユニークな機体が人気を集めている。

九州飛行機が開発

米軍は昭和19年6月の北九州空襲を手始めに爆撃機B29による本格的な都市爆撃を開始、戦況は一段と重苦しさを増した。B29は高度1万メートルを最速570キロで飛行、航続距離も9千キロというスーパー爆撃機だ。

機体後部に付けられたプロペラ
機体後部に付けられたプロペラ

「なんとかB29を迎撃できないか」。そうした中、海軍は個性豊かな航空機の製作で知られた九州飛行機(福岡市)に、B29迎撃の切り札となる局地戦闘機の開発を指示。こうして誕生したのが震電だった。当時の戦闘機は高度8千メートル、最高速度は600キロ台がやっと。これに対して震電の目標は高度1万2千メートルまで上昇、最高速度は時速750キロという超高速戦闘機だった。

機体後部にプロペラ

こうした高性能を達成するため震電は、既存の戦闘機とは全く逆のスタイルになった。

空気抵抗を減らすためプロペラは機体後部に取り付けられ、主翼は後方に移動した。「エンテ型」(エンテはドイツ語で鴨の意味)と呼ばれ、機体を小型・軽量化することが可能という。

昭和20年8月3日、試作機の震電は蓆田飛行場から試験飛行に飛び立った。試作機は3機製造され、8月6日、8日と試験飛行が続けられ、飛行能力の高さが確認された。だが、そのまま15日の終戦を迎えてしまった。

震電は米軍に接収され、1機は分解され、ワシントンのスミソニアン博物館に運ばれ、他の2機は破壊されたため、震電は国内では実物を見ることができない「幻の戦闘機」となってしまった。

零戦とともに展示

平成21年に開館した筑前町立大刀洗平和記念館は大正8年に陸軍によって建設された大刀洗飛行場の跡地に立っている。同館は飛行場の歴史や空襲、特攻などを紹介してきたが、展示のもう一つの大きなテーマは「航空技術の発展」。このため、マーシャル諸島のジャングルから回収し、修復した零式艦上戦闘機(零戦)や博多湾で発見され、引き揚げられた九七式戦闘機のほか、機体の長さが約30メートルもあるB29の骨組みオブジェも常設展示してきた。

大刀洗飛行場の周辺には、かつて陸軍機の修理や製作を担当してきた「太刀洗航空機製作所」があり、前身は九州飛行機と同じ「渡辺鉄工所」だった。こうした背景もあって同記念館では震電が離着陸する短い映像や小型模型、震電に使われたのでないかと見られる航空羅針器を展示。スミソニアン博物館に実物の里帰り展示を要請したこともあったが、断られたという。だが、今年になって東京の映像制作会社が震電の実物大模型を製作したことを知り、輸送費などを含め2200万円で購入。7月6日から展示を始めた。

展示された震電の実物大模型は全長9・76メートル、両翼の幅は11・11メートル。頭部がジェット戦闘機のような形をしており、後部に直径3・4メートルもの大きなプロペラが取り付けられているのが目につく。

ジェット化も計画

同記念館では2200万円の模型設置費用の一部をクラウドファンディングによる寄付金を充てようと募金を始めたところ、当初の目標だった500万円を突破。8月26日の最終日までに1000万円の寄付を募ることにした。同記念館には「幻の震電に会える」と訪れる航空機ファンも増えた。

第一次世界大戦では、偵察機の役割しかなかった航空機は、先の大戦になって戦争の行方を左右する重要な存在に発展。開戦後、米国の航空機生産技術の急成長によって日本は窮地に陥った。

震電開発に携わった技術者によると、震電は将来、ジェットエンジンを搭載する計画だったという。予想通り、震電が飛んだ5年後の朝鮮戦争はジェット戦闘機の戦いとなった。

戦後、徹底的に解体された日本の航空産業は近年、ようやく復活しつつある。国土を防衛する上でも、ますます重要性を増す宇宙、航空技術の革新。今後、震電開発で発揮された九州のチャレンジ精神が大きく花開くことに期待したい。(永尾和夫)

【永尾和夫(ながお・かずお)】 福岡県生まれ。昭和46年に九州大学法学部を卒業後、西日本新聞社に入社。鹿児島、熊本、大分県などで取材活動。整理部、特集担当部長などを歴任後、定年退職。産経新聞契約記者などを経て、現在フリーライター。福岡マスコミOBネット講師。

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