話の肖像画

「すしざんまい」喜代村社長・木村清(10)パイロットの夢、諦めない

航空自衛隊時代
航空自衛隊時代

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《戦闘機パイロットになる夢を追い、15歳で埼玉県熊谷市にある航空自衛隊第4術科学校生徒隊に入って厳しい訓練に耐えてきた。それが入隊3カ月で、パイロットではなく「通信兵」であることが判明する。直後の夏休み、初めての帰省は絶望に包まれながらとなった》

教官からは「音速を超えた最新鋭戦闘機F104に乗れるぞ」と言われて入隊したはずが、先輩から「お前らはトンツー(通信兵)だ」という現実を突き付けられました。だまされたのか、あの厳しい訓練は何だったのか…。帰省前に同期の仲間たちと「ここにはもう戻ってこない」と話し合って、寮を出ました。

基地の最寄り駅である高崎線・籠原駅から、列車を乗り継いで千葉県関宿町(現野田市)の実家に帰りました。それが地元はなぜか大歓迎です。倍率37倍の入隊試験をパスし、16歳で国のために頑張っている。地元紙が取り上げてくれ、町長も表敬訪問してくれました。厳しい訓練で体格も顔つきも引き締まり、どこへ行っても英雄扱いで、おふくろも自慢の息子の凱(がい)旋(せん)に大喜びです。こうなると、期待の高さに「もう自衛隊に戻らない」とは言い出せませんでした。大歓迎の直後に、「やっぱり辞めます」では、あまりにも収まりが悪すぎます。

とりあえず戻って、またみんなと話し合おう。列車に乗って籠原駅に向かいました。途中、乗り換えの大宮駅で仲間に会ったら、やはりみんな辞めるとは言い出せなかったという。「どうすっかな」「とりあえず熊谷まで行ってみるべ」。籠原駅では案の定、駅前広場にみんながゴロついていました。中には鹿児島から1日半かけて列車を乗り継ぎ、戻ってきたやつもいる。「どうすんだ」「術科学校には帰りたくない」

そんな話をしているうち、門限の午後9時が迫ってきた。駅から基地までは歩いて30分はかかります。そのうち腹も減ってきた。8時を過ぎたころ、「とりあえず戻るか」「まず戻って、またそこから考えよう」となり、みんなでトボトボと基地に向かって歩きました。寮に帰るとたしか2、3人だけが戻ってこなかったと思います。「世の中には勇気のあるやつがいるんだな」と感心したことを覚えています。

《戦闘機パイロットへの道がまったくないわけではなかった》

その後、高校を卒業して航空機の操縦学生になれば、戦闘機パイロットへの道が開けるということを知りました。ただし前例はありません。そのころは高校の通信制で学んでいたのですが、これでは高校を卒業して試験を受けるまでに時間がかかってしまう。とにかく早くパイロットの訓練を受けたかったので、大学入学資格検定(大検)に狙いを定めました。任務と訓練の傍らで猛勉強し、2年半で競争率30倍といわれる大検に合格したのです。私ともう1人が生徒隊の修学旅行を諦めて、大検を取りました。その後の試験にも合格して、操縦学生の資格を得たはずでした。

さあパイロットの訓練だ、と思っていたら、「ちょっと待て、前例がない。1年待ってくれ」。それで配属されたのが、バッジシステムというコンピューターを使って防空指揮管制をする部署です。あと1年、と割り切って任務に就きましたが、その後は全然声がかからない。それでもいつかはチャンスが来る、と信じて、毎日10キロのランニングは欠かしませんでした。

入隊4年目に3等空曹として三重県津市の笠取山分屯基地で任官していたころ、山頂にあるレーダーサイトまで走るのが日課でした。そしてある日、カーブのきつい山道を駆け上がっていたところ、水道管を積んだトラックが向こう側から現れた。すれ違ったそのときです。荷台から鉄の配管がガラガラと崩れ落ちてきた。とっさによけて難を逃れたのですが、そのとき頭を負傷してしまったのです。(聞き手 大野正利)

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