浅草物語

万人魅了したエノケン、今も影響 笑いと音楽、ダンスを融合

戦前に浅草松竹座で活躍していた当時の榎本健一(台東区立下町風俗資料館提供)
戦前に浅草松竹座で活躍していた当時の榎本健一(台東区立下町風俗資料館提供)

浅草の街に近い宗円寺(東京都台東区寿)に、「喜劇王エノケンと仲間たちの慰霊の碑」と彫られた石碑がある。建立は昭和60年10月。

「毎年1回、エノケンさんの誕生日付近にみんなで集まり、お経をあげて線香を供えているんですよ」。そう話す元お笑い芸人の南出昭夫(79)は、エノケンこと榎本健一が晩年に開いた映画演劇研究所で学んだ人だ。榎本は45年に65歳で亡くなった。南出が声をかけて集まる「仲間たち」の人数も、近年は減って10人あまりになったという。

「喜劇王エノケンと仲間たちの慰霊碑」と刻まれた石碑=台東区寿の宗円寺(鵜野光博撮影)
「喜劇王エノケンと仲間たちの慰霊碑」と刻まれた石碑=台東区寿の宗円寺(鵜野光博撮影)

石碑の裏には施主として佐藤文夫の名前が刻まれている。佐藤は榎本が浅草で名を上げた当初から文芸部で支えた同士で、この名前を筆名にして活躍した座付き作家、菊谷栄(きくや・さかえ)のことも想起させる。冷たい石碑の中に、エノケンで沸いた戦前の浅草がある。

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「未曽有の大震災のあと、お客の心理は近代的に、スピーディになったことは確かである。(中略)僕は見物をアッといわせるような芝居をやってみたくなった。スピードがあって、シャレていて、音楽がついていて、踊りもあって、お客は笑わずにいられない、といった喜劇。それは、今まで、わが国ではだれもやったことのない新境地である」(榎本の自伝「喜劇放談エノケンの青春」)

浅草水族館の余興場に、軽演劇集団「カジノ・フォーリー」が生まれたのは昭和4年。川端康成が新聞小説「浅草紅団(くれないだん」でこれを紹介して客足が増え、中心にいたエノケンの魅力が広く知られた。「現はれて僅か三年、浅草に於て観音様(編注、浅草寺)の次ぎはエノケンだといふ人気者」になったと、前出の菊谷は「西北新報」の連載で書いている(山口昌男「エノケンと菊谷栄」)。

昭和4年、浅草水族館で旗揚げした「カジノ・フォーリー」
昭和4年、浅草水族館で旗揚げした「カジノ・フォーリー」

小説が客を呼んだ理由には、川端が同じ章で引用した演歌師、添田啞蟬坊(あぜんぼう)の言葉もあった。「浅草は万人の浅草である。浅草には、あらゆるものが生のままはふりだされてゐる。人間のいろんな欲望が、裸のまま踊つてゐる(後略)」

付け加えると、この時期に流れた「カジノ・フォーリーでは金曜日に踊り子がズロース(下着)を落とす」というデマも人々を引き寄せたという。「いろんな欲望」の助けもあって、一人のスターが誕生する。

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13年に有楽町へ進出すると、観客が日劇を5重に取り巻くほどの大入りとなった。出演映画は「エノケンのちゃっきり金太」など180本以上にのぼる。「昭和の喜劇王」は伝説に事欠かないが、その全盛期を令和の私たちは手軽に映像で見る機会に恵まれていない。エノケンの、何が面白かったのか。

小説家で「日本の喜劇人」の著作がある小林信彦(89)は、最大の特徴を「体技」だという。「世の中には、すべったり、転んだり、舞台から転げ落ちてみせること、それ自体を喜びとする人がいる」(同書)。榎本はそれを芸にまで磨き、完成させた天才だった。

小林は本紙の取材に、右足を脱疽のため切断していた62歳当時の榎本について「テレビの打ち合わせに自宅へ行ったら、とにかく『自分を大事にしないでくれ』って言うんですよ。カゴに乗って急停止したら自分がカゴから転げ出て、そこからやると。ぎょっとしますよね」。晩年まで体技をあきらめなかった大御所を、そう振り返った。

榎本原案で菊谷が書いた喜劇に「最後の伝令」がある。アメリカ南北戦争が舞台だが、稽古不足で役者がせりふを忘れて監督が教えたり、ト書きを読んでしまったり、出る順番を間違ったり、小道具の水が酒(電気ブラン)に替わっていて役者が酔っ払ったりと、混迷を極める。悲劇のはずがドタバタになり、「アチャラカ喜劇」と呼ばれたジャンルの傑作とされている。

ただ、小林が小学生だった15年に日劇で見た「エノケンの南進日本」は面白くなかったという。菊谷は12年、34歳の若さで中国で戦死し、榎本は菊谷を失ったことを終生惜しんだ。

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榎本は関東大震災前に隆盛を誇った浅草オペラの舞台を踏んでいた。小林は「番組では坂本九と『上を向いて歩こう』を歌ったが、声は(ダミ声で)変なんだけど、キーはすごく正確だった。映画でも音楽が分かる監督でなければ一緒に仕事をしたがらなかった」と、音楽的素養の高さを指摘する。

大衆演劇研究家の原健太郎(66)は「エノケンほど音楽性に富んで、アクロバティックな動きを当たり前にこなし、かつ喜劇を演じている人は、現在では思い浮かばない」と話す。ただ、影響はさまざまな形で残っているという。

「今の劇団四季や、東宝が帝国劇場でやっているミュージカルの源泉が、エノケンたちの音楽劇だったことは間違いない。テレビでも、エノケンに限らず軽演劇で活躍したスタッフが草創期にいっぱい入り込んでいたので、たとえば『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ、昭和36年放送開始)は笑いあり、コントあり、音楽あり、ダンスありで、エノケンたちの舞台の楽しさを受け継いでいた」

榎本だけではない。戦前の浅草には、ライバルとされた古川緑波(ロッパ)も喜劇界に君臨し、戦後に「君の名は」などを手がけた菊田一夫も2人の下で作家として働いた。詩人のサトウハチローもエノケンの一座の仲間だ。戦後の渥美清、萩本欽一と、浅草の才能の系譜は続いていく。

「ただ、浅草を出てから伸びた人の方が多い。浅草っていうのは、通り道なんですよ」。多くの才能が浅草から巣立ったことを、小林はそう語った。=敬称略(鵜野光博)

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