話の肖像画

輪島功一(16)「戦友」大場政夫選手が事故死 深い喪失感

大型トラックと激突した大場政夫選手の愛車、シボレー・コルベット=昭和48年1月25日、首都高速道路(画像は一部を修正)
大型トラックと激突した大場政夫選手の愛車、シボレー・コルベット=昭和48年1月25日、首都高速道路(画像は一部を修正)

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《世界J・ミドル級タイトルの3度目の防衛を果たしてから2週間あまりがたち、練習を再開した昭和48年1月25日午後、信じられないニュースをテレビが速報した。「プロボクシング世界フライ級チャンピオンの大場政夫選手がスポーツカーを運転中に激突死―」》


驚いたなんてものじゃなかった。ニュースに接したときは一瞬、夢の中での話に違いないと思ったほどでした。しかし、ハッとわれに返ると、「何であのとき、『しばらく車の運転は控えた方がいいよ』と言ってあげられなかったのだろう」と悔やまれてなりませんでした。

実は事故の3日前、私は東京・後楽園ホールの通路でばったり大場選手と出くわしたのですが、立ち話をするわけでもなく、「お互いきつかったけれど、防衛できてよかったね。また頑張ろう」みたいに、二言三言交わすだけで別れたのです。

大場選手は1月2日の防衛戦で痛めた右足をまだ引きずって歩いており、私は「かなり状態が悪そうだな」と思う一方、ふと「もしかして、車を運転してきたのかな」と不安がよぎりました。そして「今は車の運転は我慢しよう」と一言いおうと、彼の姿を追ったのですが、見つけられませんでした。

私と同様に大場選手は「狂」が付くほどの車好きで、愛車が、アクセルやブレーキ操作を少しでも誤れば、それこそ弾丸のようにすっ飛ぶシボレー・コルベットであることも知っていました。


《事故は午前11時20分ごろ、首都高速の飯田橋出入口と早稲田出口の間にある大曲カーブで起き、大場選手の愛車は中央分離帯を乗り越えて反対車線で大型トラックと激突。大場選手はほぼ即死、23歳だった》


詳しい事故原因は私には分かりませんが、時間からして居眠りでもないだろうし、ケガが何らかの形で影響したのではないかと考えざるを得ません。当時、日本に世界王者は大場選手と私しかいなかったので、「戦友」を亡くしたような深い喪失感に包まれました。

そもそも引き分けで何とか成功した私の3度目の防衛も、1週間前に大場選手に壮絶な防衛戦を見せられていなければ、失敗していたかもしれない。初回のダウンで右足を捻挫しながらも、足を引きずって戦い続け、12回に逆転KO勝ちした大場選手の根性と闘志はすさまじく、計り知れない力をもらいました。


《両雄は互いに認め合う存在だった》


大場選手は私より6歳下ですが、デビューは2年早く、世界王者になったのも私より1年早かった。常に私の前を行く、仰ぎ見る存在でした。

私が2度目の世界王座防衛を果たした後に、ボクシング専門誌の企画で大場選手と対談したのですが、「輪島さんのボクシングは奇襲戦法といわれるけれど、身体的なハンディを補うためにそうせざるを得なかったわけで、その創意工夫がすごい。さらにまだ一戦一戦、強くなっている感じがするのもすばらしい」と、べた褒めしてくれて、涙が出るほどうれしかった。

事故に遭わなければ、あの後、バンタム、フェザーと階級を上げていき、3階級制覇を達成したでしょう。今みたいにスーパーフライやスーパーバンタムもあれば、それこそ5階級制覇だってやったかもしれない。それほどの選手でした。

私はあの年の4月に結婚すると、勤務先の白岩工業の作業員宿舎を出て、東京都板橋区の高島平団地に入居しました。江東区にあった三迫ジムや勤務先に向かうときはいつも車で首都高速の大場選手が亡くなった現場を通り、そのたびに彼の笑顔が浮かび、心の中で手を合わせました。(聞き手 佐渡勝美)

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