「売春島」と呼ばれた島の歴史が変わった日

渡鹿野島(向こう側)と対岸を結ぶ渡し船=三重県志摩市
渡鹿野島(向こう側)と対岸を結ぶ渡し船=三重県志摩市

伊勢志摩国立公園内に浮かぶ三重県志摩市の渡鹿野島(わたかのじま)。漁業と観光業が主な産業で、周囲約7キロ、約180人余りが暮らす小さな島はかつて「売春島」と呼ばれた。長年、風評に苦しめられてきた島だが、10月に初めて修学旅行生が島内に宿泊した。住民らは対岸と結ぶ渡り船から下船する修学旅行生を歓迎。「島の歴史が変わる一日」。そんな声が聞こえるなど、島のイメージを変えたいという思いが伝わる。

 伊勢志摩国立公園に浮かぶ渡鹿野島。上空から見るとハートの形に見える(福寿荘提供)
伊勢志摩国立公園に浮かぶ渡鹿野島。上空から見るとハートの形に見える(福寿荘提供)

10月13日夕、同市内での真珠加工、滋賀県内での信楽焼づくり、シーカヤックなどを体験するため4グループに分かれていた大阪府立長吉高校(大阪市平野区)の2年生約120人が分乗した渡し船が渡鹿野島の港桟橋に到着した。生徒たちが下船すると、地元の観光関係者、志摩市のPRキャラクター「しまこさん」の着ぐるみなどが拍手と笑顔で出迎えた。

宿泊したのは桟橋近くの温泉観光旅館「福寿荘」。修学旅行生が島に宿泊したのは初めてのことだ。同校を含め12月までに大阪や三重県内、福岡などの小中学校、高校で計10校の修学旅行の宿泊の予約が入っているという。

コロナ禍の中で

長吉高校と島を結び付けたのは新型コロナウイルス禍。感染拡大の影響で修学旅行の中止・延期が相次ぐ中、同校も昨年は修学旅行を取りやめた。今年は、コロナ関係で不測の事態が生じた場合、保護者が車で迎えにいける範囲内で旅行先を探していた。沖縄など定番スポットへの修学旅行が困難な状況の中、体験学習や伊勢神宮など周辺の観光施設を取り入れ、大阪の営業拠点を中心に修学旅行誘致に力を入れていた福寿荘を宿泊先に選んだという。

同校の上本雅也校長(59)は「生徒たちは地元のおもてなしの気持ちを本当に感じていた。宿泊先に選んで成功だった」と話した。

地元の観光関係者らに出迎えられる生徒たち=三重県志摩市
地元の観光関係者らに出迎えられる生徒たち=三重県志摩市

負のイメージ根強く

渡鹿野島は江戸時代に船が立ち寄る「風待ちの島」として船乗り相手の遊郭が栄えた。昭和の終わりから平成の初めにかけては週刊誌などで「売春島」として取り上げられ、今もSNS(会員制交流サイト)での書き込みが目につく。

実際、女性を紹介したとされる飲食店宿泊施設、女性たちが暮らしていたマンションやアパートなどの建物が廃虚のように島内に残っている。

島で暮らし続けているという男性(72)は「数十年前は桟橋裏側の通りが夜になると男性であふれていた」と振り返る。

閉店後も看板が残る飲食店跡近くに住む女性も「(5年前の)伊勢志摩サミット前までは店を訪れる客を見かけた」という。

「売春島」と呼ばれたころのイメージが根強く残っているが、上本校長は「インターネットなどで島のこうした一面を知ったが、生徒を宿泊させることに校内で異論はなかった」と話す。

 かつては島を訪れた男性であふれたという通り=三重県志摩市
かつては島を訪れた男性であふれたという通り=三重県志摩市

「ハートアイランド」

上空から見ると、渡鹿野島はハートの形に見える。地元は「ハートアイランド」と名付け、対岸から渡し船で約5分と手軽な伊勢志摩観光の島にと力を入れている。

修学旅行生が宿泊した福寿荘によると、今は男性よりも女性の宿泊が多く、近くにテーマパーク「志摩スペイン村」があることから家族連れも増えているという。

ただ、観光の島として認知されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。市や市観光協会によると、島を訪れる観光客は昭和50年代から平成の初めまでは11万~14万人で推移。その後は、改元効果で伊勢神宮周辺が注目された令和元年こそ8万人を超えたが、4万~7万人台にとどまる。コロナ禍の影響を受けた昨年は3万6千人だった。

観光関係の仕事に就く男性は「料理や温泉も含め、島にはこれといった目玉がない。一度島に来てそれで終わりでは長続きしない」という。

とはいえ、負のイメージから脱却するための模索は続いている。地元は島内に放置されている廃虚となった建物の撤去について、他の自治体の事例も踏まえ、公的支援を受けられないか探っている。

修学旅行の誘致もその一環になる。福寿荘の担当者は「コロナ禍で修学旅行先が見直されている。定番の旅行先以外の選択肢も広がってきた」と話す。

木村圭仁朗社長(79)は「初めての修学旅行生が宿泊した日は島の歴史が変わる一日になった」と期待を膨らませる。(加藤浩二)

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