話の肖像画

歌舞伎俳優・中村獅童(13)劇中で絶叫「おやじ、ありがとう」

ずっと応援してくれた両親と(撮影・広川泰士氏)
ずっと応援してくれた両親と(撮影・広川泰士氏)

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《平成20年、父親の小川三喜雄(みきお)さんが胃がんのため死去。79歳だった。三代目中村時蔵(ときぞう)の三男で、初代中村獅童を名乗っていたが、10代のときに歌舞伎俳優を廃業した。その後は銀行員から映画プロデューサーに転身。時代劇全盛期が終わると輸入会社を設立し、晩年は中村獅童事務所の会長を務めていた》

父は家では芝居の話を一切しないし、「お前の芝居なんか見に行くか、ばか野郎っ」と、僕の舞台にも来なかった。それが主役とかをやらせていただくようになったら、見に来るようになったんです。

幕が開いて、まだ何もしていないのに、客席でパチパチって拍手をしている人がいるんですよ。「誰だろう。よほど熱心なファンの方かな」って、ちょうど目が合ったら、うちのおやじだった。隣の席の知人に「うちのせがれ、わかる?」なんて感じで話しかけていて、もうわかりやすい昔かたぎの江戸っ子なんです。見せ場では頭の上に両手を挙げて、パチパチって派手な拍手をするからすごく目立っていました。

父の親しい知人から伺ったのですが、病床で「獅童は異端系の役者かもしれないけれど、その個性を生かせばきっとよくなると思う。『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』の知盛(とももり)なんか、あれは人が持っていないものを持っている知盛だった。松永大膳(まつながだいぜん)も大きくてよかった」と話していたらしいです。

《大阪・梅田芸術劇場で舞台「黒部の太陽」に出演していたため、東京の自宅で療養していた父親の最期をみとることができなかった》

父親に最後に会ったのは大阪に舞台稽古(げいこ)に行く前で、顔を見に行ったんです。そうしたら「頑張ってこい」と意外としっかりした声で送り出してくれました。「もしかしたら、もう会えないかも」という予感はありましたね。大阪に行ってからも電話でちょくちょく話をしていて、死ぬ直前まで、父は「千穐楽(せんしゅうらく)までに行けるかな」と僕の芝居を見に来る気でいました。

楽屋で父が息を引き取ったという連絡を受けた後も、東京に戻らずに舞台に立ち続けました。楽日までお役を無事に勤め上げることが自分の仕事だと思っていましたし、おやじもきっと、そうすることを望んでいるだろうと。劇中、死んだ父親を抱きかかえて「おやじ、ありがとう」って語りかけるシーンがあったんですけれど、さすがに自分のおやじの顔とダブって絶叫してしまいましたね。

舞台の休演日に通夜を済ませた後、大阪にとんぼ返りしたので、翌日の告別式は母が喪主の代わりを務めてくれました。あいさつのとき、「獅童はやんちゃでいろいろ迷惑をかけていたけれど、自分があの世に持って行く。最後に子孝行をさせてくれ。獅童が花咲く道をこの世で見守ってあげられないけれど、あの世で見守ってやる」というおやじの最後の言葉を紹介したようです。

それから、おやじは最後に「獅童は、親の死に目に会えるような役者でなくてよかったなあ」と言っていたそうです。親の最期にも立ち会えないぐらい忙しい役者でいてくれてよかったという思いで、そう言ったのではないかと思います。(聞き手 水沼啓子)

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