東京大空襲75年

(下)焼け野原からの「復興」今に生かす

 被災の実態を正確に把握することは、災害からの復興を進める上でも、当然欠かせない。その点、東日本大震災はイメージしやすい。東京大空襲の場合、空襲の真っただ中で撮影された写真は1枚も見つかっていない。一方、東北の被災地では、津波が街を襲う様子を多くの人々が画像で記録している。

 多くの画像データを集積して地図に落とし込み、さまざまな視点から見せる工夫。東日本大震災ではすでに取り組みが進んでいるが、これを東京大空襲にも適用できないか。

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 石橋氏は空襲前の古地図なども活用し、復興の初期段階に出現した闇市の再現を試みた。闇市は住民が日々の暮らしを取り戻す第一歩だったにも関わらず、これまで正確な場所や規模が明らかになっていなかった。

 終戦直後の航空写真や、区が所蔵していた露店業者へのアンケート、さらに当時を知る人の証言なども加味し、区内に15カ所の闇市があったことを突き止めた。広い通りや鉄道駅の結節点など、利便性の高い場所に集中していた。

 かつて闇市だった場所は、今も商店や飲食店が連なるなど、その後の街づくりに少なからず影響していた。ただ、「空襲直後と今とのつながりは、実は闇市に限ったことではない」(石橋氏)。

 東京大空襲当時、東京には22年前の関東大震災からの復興事業で建てられた、鉄筋コンクリート造りの校舎を持つ小学校が数多くあった。被災地図上では罹災地域であっても、多くの場合、これらの建物は無事で、空襲直後から軍隊やけが人を収容するなど、支援の拠点になった。

 例えば、茅場小(墨田区)の校舎は病院として使われ、戦後もしばらくそのままだった。復興の歩みに重要な役割を果たしたにもかかわらず、こうした校舎の実態はよく分かっていないといい、今後も調査を進める方針だ。

 「復興という言葉の陰で、住民がどのように暮らしを再建し、街づくりに役割を果たしたのか。被災当事者の声を重ねることで、今後の災害復興の課題も浮かび上がってくるような気がする」。石橋氏は、東京大空襲を考察する現代的意義をそう語る。(大森貴弘)

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