北朝鮮核実験

脈々と続いた核開発の歴史 朝鮮戦争後には食指、交渉カードから「国是」に

 北朝鮮が核開発に関心を持ち始めたのは古く、1950年代にさかのぼる。

 中国軍関係者によると、朝鮮戦争休戦直後の53年7月、当時の金日成(キム・イルソン)首相が会議で「(北)朝鮮は小国だが、他国が持つものは全て持つべきだ。原子爆弾を含め」と発言したとされる。

 56年には、当時のソ連の核研究所創設に参加し、学生や技術者を派遣して核技術を習得させた。彼らが後に開発の中核を担うことになる。64年に平壌北方の寧辺(ニョンビョン)に開発拠点が作られた後、ソ朝首脳間でソ連からの技術移転を密約したともいわれる。

 ソ連の積極支援の背景には、中国との関係悪化があった。74年に国際原子力機関(IAEA)に加盟。80年代後半には、米国も北朝鮮の核開発に危機感を強める。核兵器に必要なプルトニウムの再処理施設らしき建造物を衛星がとらえた。

 93年には、IAEAの査察拒否に端を発し、米国が核施設への攻撃を検討するほどの危機的状況を迎える。結局、米朝枠組み合意で軽水炉の建設といった米国の譲歩を引き出した。

 一方で、核開発「凍結」の合意を守らず、ひそかに開発を続けた。2002年には、高濃縮ウランの開発疑惑が持ち上がり、北朝鮮の核問題を話し合う6カ国協議につながる。

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