話の肖像画

作家・村松友視(1)プロレス本が思いがけず大ヒット

村松友視(三尾郁恵撮影)
村松友視(三尾郁恵撮影)

〈熱狂的なプロレスファンで知られる。昭和55年、中央公論社の編集者時代に軽い気持ちで一気に書き上げたエッセー「私、プロレスの味方です」(情報センター出版局)がベストセラー。プロの作家となる前に全国的な知名度を得た〉

当時、篠原勝之さん(画家)、糸井重里さん(コピーライター)、南伸坊さん(イラストレーター)、赤瀬川原平さん(作家、前衛美術家)が僕の家に集まって宴会を開く習慣がありました。席上、たまにプロレスをテーマにしたりして、僕が思うところを話すわけです。ある時、情報センター出版局の編集者が糸井重里にプロレスを題材としたエッセーの執筆を依頼しました。

多忙な糸井重里は「村松さんの方が面白い」と僕を薦め、それを真に受けた編集者の人が訪ねてきてくれた。プロレスの話題を書くなんて信じられない時代だったのですが、僕は休日を利用してあっという間に書き上げてしまいました。

ただ、執筆当時、プロレスの位置づけは決して人に褒められたものではなく、特にインテリ層は「ろくなものではない」「大人にプロレスの話なんかできない」と捉えるのが一般的でしたね。だから僕はプロレスを味方してクローズアップした本を書いてみたくなったのです。中学生だった29年、少年時代を過ごした静岡県清水市(現・静岡市清水区)の波止場にある電器店のテレビで、力道山、木村政彦組とシャープ兄弟の試合を観戦して以来、ずっとプロレスの大ファンだったのです。

プロレスの世界はこういうものだと位置づけ、誰もが語れて、向き合いやすいものとするために、僕は凄味、過激、殺気、間合い、気配…といった言葉を文中にいっぱいちりばめました。過激は、浅間山荘事件(47年)の影響で、世間では批判的な意味合いで使うようになっていましたので、異種格闘技戦を仕掛けるなど自分流のプロレスを目指すアントニオ猪木さんのプロレスを、あえて過激なプロレスというふうに評価して使うことにしました。

すると、市川猿之助さん(現・猿翁)の歌舞伎が従来の歌舞伎との違いを見せたように、(日本のプロレスの父である)力道山のそれぞれ後継者となり、2大メジャー団体を興した両巨頭、従来のルールにのっとった戦い方を「王道」とするジャイアント馬場さんと、猪木さんのプロレスが、作品の中でくっきりとしたコントラストをみせてきました。

プロレスファンからは「以前から思っていたことをよく書いてくれた」などの声が届きました。ただ、本のタイトルがプロレスの味方と言いながら、猪木さんの味方をする内容でしたので、馬場さんのファンからは反感も買ったようです。結果的にベストセラーになったのはうれしかったのですが、同時に、中央公論社を辞める筋道をつくってしまった自覚もありました。(聞き手 高橋天地)

村松友視

むらまつ・ともみ 昭和15年、東京都生まれ。慶応大文学部哲学科を卒業後、中央公論社勤務を経て作家活動へ。55年、在職中に執筆した「私、プロレスの味方です」がベストセラーに。57年、「時代屋の女房」で第87回直木賞受賞、平成9年、「鎌倉のおばさん」で泉鏡花文学賞受賞。ほかに「百合子さんは何色 武田百合子への旅」「アブサン物語」「俵屋の不思議」「幸田文のマッチ箱」「老人の極意」など。

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