オリンピズム

64年東京のいまを歩く(7)王者は絶対ではない アベベはパラリンピアン

【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(7)王者は絶対ではない アベベはパラリンピアン
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きっかけは手書きのマラソンコース図だった。宝箱のような秩父宮博物館の倉庫で元館長、三上孝道が見せてくれた。彼は私より少し年嵩(としかさ)だが同年代だ。

1964年東京では、アベベ・ビキラが印象に残ったという三上と語らった。「どっちが名字でどっちが名前か」。エチオピアに名字はなく、アベベが自身の、ビキラは父の名である。

そういえば昨年、東京大会50周年記念で来日した次男も、イエトナイエト・アベベと紹介された。

三上が言った。「折り返してひとり旅になってからすごかったな」。「ゴールした後、何事もなかったように屈伸し始めたのには驚いた」と私。「確か虫垂炎の手術を受けてすぐ(選手団が東京出発の12日前でレースの35日前)だったよ」「下馬評ではアベベは駄目だといわれていたはずだ」

石原慎太郎は64年当時、共同通信の依頼で寄稿し、「それは行為者が到達しうる極限の美」「その美しさはまさしく神秘的ですらあった」と称賛した。

しかし、王者は絶対ではない。68年メキシコ市大会の前年、アベベは誇るべき脚や膝を故障、治療を強いられた。東京の奇跡の再来をねらい、無理して出場したメキシコのレースも途中棄権に終わった。

悲劇は翌69年3月23日に起きた。運転中に対向車を避けようとして横転、下半身に重傷を負った。以後、車いす生活を余儀なくされ「極限の美」も消えた。

ティム・ジュータ著『アベベ・ビキラ』(草思社)によれば、アベベは皇帝の命で英国ストーク・マンデビル病院で治療を受け、リハビリに励んでいる。退院後の70年、ストーク・マンデビル競技会の車いすアーチェリー、車いす卓球に出場。いうまでもなくパラリンピック発祥の大会だ。71年、ノルウェーの障害者スポーツ大会に招かれてアーチェリーと卓球に出場。犬ぞりレースで優勝した。

72年、祖国に自らの名を冠した競技場が建設されると障害者も使える施設にすべきだと提言。翌年、事故の後遺症で亡くなるまでエチオピアの障害者スポーツ組織創設などに尽力した。

アベベのこうした側面はあまり語られていない。猪谷千春や鈴木大地など、日本でも障害者スポーツに理解を深めるオリンピアンが増えてきた。遅まきながら世界を追い始めた。5年後、いや2020年以降に向けて深化させてほしい。アベベを思い、五月晴れの甲州街道を歩いた。(特別記者 佐野慎輔)

=敬称略

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