2014年02月06日掲載

トピック解説 - ベースアップの判断基準とは ――労使環境はベースアップ可能状況へ

佐藤 純 さとう じゅん
青山人事コンサルティング株式会社 代表取締役
慶応義塾大学経済学部卒業、同大学院経営管理研究科(MBA)履修。大手総合電機メーカー勤務を経て独立。日本経済新聞のコラムの連載、労務行政研究所、日経ビジネス等の経済誌に多数執筆。経団連、日本生産性本部、東京商工会議所のセミナー講師歴任。著書に「コンピテンシー評価モデル集」(日本生産性本部)、「雇用形態別 人事管理ハンドブック」(共著、新日本法規出版)ほか多数。

 

はじめに

 企業収益の改善や、デフレ脱却を目指す安倍政権の働き掛けなどから、賃上げ、とりわけベースアップへの注目が集まっている。しかし周知のとおり、日本企業ではこの10年間、ベースアップはほとんど行われてこなかった。そのために経営者や人事担当者の中にはその経験がなく、どのような基準でベースアップを判断したらよいかが分からないという声を聞く。また労働組合の幹部も同様である。
 固定的なコスト増を避ける狙いから、業績改善分は変動性のある賞与・一時金で報いるというやり方が、この10年間で広く定着してきたことは明らかだ。一方、労働者の生計を支える基本である、月例賃金への配分政策が見失われるのは問題と考える。
 そこで、ここではあらためて、高度経済成長時代の労使交渉において経営側の判断基準となった生産性基準原理、そして労働側の消費者物価指数基準を紹介する。さらに今の日本の経営環境はベースアップが可能かどうかについて、これらの基準による見解を解説する。筆者としては、直近のデータ分析によれば、ベースアップは可能な状況になりつつあると見ている。

1 ベースアップとは

 周知のとおり、賃上げには定期昇給とベースアップがある。安倍政権が主張している賃上げとは、ベースアップを指していると考えられる。[図表1]はその概念を示したものである。
 定期昇給は賃金カーブに沿ってA点からB点へ上昇をする部分で、各企業の賃金規定に基づいて行われる。ベースアップとは「賃金カーブを底上げすること」であり、カーブ全体は上方向に移動する。したがって実際の昇給にはB点からC点の増額分が加算され、昇給全体としてはA点からC点への上昇となる。これにより全体の平均賃金も同額ほどアップする。

[図表1]定期昇給とベースアップ(クリックして拡大)
 

 定期昇給は、賃金表を構えている企業であれば、いわば「制度上約束された昇給」であり、春闘の労使交渉ではベースアップの金額を決定することが一つの焦点となる。その際において使用者側が判断基準としているのが生産性基準原理であり、労働側は消費者物価指数基準である。高度経済成長期以降、経済変動の波を経てきた今日でも、この基本は大きく変わっていないといってよいだろう。

2 生産性基準原理とは

 生産性基準原理は、経団連の母体の一つである旧日経連が提唱した考えで、「賃上げ率は、労働生産性(1人当たりの付加価値)の伸び率内に納める」というものである。前述したように、ベースアップを行えば全体でみた平均賃金も同額程度アップする。したがってベースアップが可能かどうかは、平均賃金のアップ条件と見なせる。
 平均賃金は[図表2]に示すように、賃金総額を従業員数で除したもの(①式)であるが、その式を展開すると「労働分配率」と「労働生産性」を掛けた式(②式)で表される。「労働分配率」は多少の変動があるが、ほぼ一定であるという性質を持つ。「労働分配率」を上げて平均賃金をアップさせると、利益を削ることになるので経営収支は悪化する(無論、配分政策として分配の厚みを見直すケースもあり得る)。したがって平均賃金のアップ条件は、労働生産性が上昇していることが必要であり、そのアップ率は労働生産性の上昇率内に納めれば、労働分配率を上昇させることなく、過大な経営負荷を生まない範囲内でベースアップができるということになる。

[図表2]「平均賃金」と「労働分配率」と「労働生産性」の関係


 労働生産性とは「1人当たりの付加価値」であり、付加価値とは新たに企業が生み出した価値である。その値の計算式は数種類あるが、大手企業では「加算方式」がよく採用され、人件費、減価償却費、支払利息、経常利益を足し合わせた値を用いる(③式)。中小企業では、粗利益(売上総利益)を付加価値と見なすケースが多い。いずれにしても個々の企業で、過去の決算書から1人当たりの付加価値とその上昇率を計算した上で、ベースアップの可否を判断する必要がある。

3 消費者物価指数基準とは

 消費者物価指数基準とは、消費者物価指数の上昇に合わせて、ベースアップをするという考えである。
 賃金には名目賃金と実質賃金があり、消費者物価指数の変化を考慮しないのが名目賃金である。実質賃金とは消費者物価指数の変動を加味した賃金であり、名目賃金を消費者物価指数の変化率で割ったものである。つまり物価に対して、実質的な価値を示す賃金といえる。
 物価が上昇したにもかかわらず名目賃金が上がらなければ、購買力が低下して同一の物を購入できなくなるので、個人消費は落ち込む。その結果、企業の売上高のダウンにつながり、経済はマイナスの循環となる。また所得のうち消費に回す割合を示す消費性向が下がり、デフレ経済に逆戻りする危険性もある。したがって消費者物価指数が上昇した場合は、それに合わせてベースアップする必要があるという考えが導かれる。

4 消費者物価指数の最近の変化

 総務省統計局による消費者物価指数の推移データを[図表3]に示す。現在の消費者物価指数の基準年である2010年(平成22年)以降でみると、デフレの下で続いてきた物価下落は2013年1月頃に底を打ち、安倍政権によるアベノミックスの経済効果もあり緩やかな上昇に転じてきている。2013年7月には100.0に回復し、それ以降は100.8まで上昇した。ただし2008年の消費者物価指数は102.1であるので、2010年基準を上回ったとはいえ、リーマンショック前の水準までは回復していない。

[図表3]消費者物価指数の変化と消費税率のアップ(クリックして拡大)



 ベースアップの根拠を、下落傾向が底を打って以降の2013年中の物価上昇に置く人もいるが、2008年水準まで復活していないので決定的な根拠にはならない。さらに重要なことは、この5年の物価下落期間において、賃上げ労使交渉の結果、賃金の「ベースダウン」は行われなかったことである。したがって、この期間の消費者物価指数の変化によるベースアップは説得力を持たない。
 ところが2014年4月には消費税率が3ポイントアップする。これに伴って物価は上昇し、消費者物価指数は104前後になると予想される。その水準は2008年の102.1よりも約2ポイント高くなる。したがって、ここでベースアップを行わないと実質賃金は下がり、個人消費は縮小方向に向かい、企業の売り上げは減少になると考えられる。いうまでもなく、ベースアップは企業業績に基づく個別労使の判断で決定されるべきものだが、労働者生活の維持と経済の停滞を防ぐ観点からすれば、ベースアップ対策については、早急な検討が望まれるといえよう。
 ここで注意しなければならないのは、従来のベースアップは、過年度の消費者物価指数の変化で判断していたことである。物価は市場経済のメカニズムで決まるが、今回は政治判断の影響が大きい。つまり4月の消費税率アップによる物価上昇を見据えての労使交渉という前例のないものとなる。国民全体が物価上昇を実感するのは4月以降であるので、ベースアップの必要性を認識するのは、それ以降と予想される。また、ベースアップに踏み切る時間的バラツキが企業間において生じると考えられるから、物価上昇によるベースアップ論は、数年間にわたって議論されると思われる。

5 労働生産性上昇率の推移

 使用者側は、主に生産性基準原理によってベースアップの検討・判断を行ってきたが、具体的には労働生産性の上昇率がポイントとなる。この経営指標は個々の企業によって異なり、自社の状況で判断しなければならない。ここでは[図表4]に示す日本生産性本部の調査データを基に、日本全体の状況を分析する。図は実質労働生産性上昇率の推移であり、1995年から2012年までは各年度単位、2013年は四半期ベースの前期比データとなっている。

[図表4]日本の実質労働生産性上昇率の推移(クリックして拡大)


 バブル経済の崩壊後、日本経済は長期にわたって低迷していたといわれるが、1999年から2007年までの9年間は、実質労働生産性の上昇率はプラスを継続していた。この期間は戦後最長の景気拡大といわれた「いざなみ景気」と重なる。したがって月例賃金にフォーカスして考えるなら、生産性基準原理からすれば、この期間のベースアップは可能であったといえる。しかし1999年以降の消費者物価指数は2005年まで継続してマイナスとなり、この間の賃上げ労使交渉でベースアップはほとんど行われなかった。結果的にこの間の労働生産性の上昇分は、設備投資や内部留保に回ったと考えられる。
 そして、2008年にはリーマンショックで経済危機を迎え、労働生産性上昇率は3.3%のマイナスとなるが、2010年にはその反動で3.4%のプラスに転じている。それ以降はプラスを継続し、2013年の四半期ベースのデータによると第3四半期は2.3%の上昇となっている。その後も緩やかな景気回復基調が続いていることから、労働生産性上昇率もプラスを維持しているものと見られる。

6 春闘をめぐる労使環境とベースアップの可能性

 失われた20年と否定的な見方がある一方で、労働生産性の上昇率はプラスで継続していた。その上昇分と直近のデータからすると生産性基準原理によるベースアップは可能で、直近の四半期のデータが継続すれば労働生産性上昇率は2%程度になると考えられる。
 一方、消費者物価指数基準に関しては物価下落が1999年から継続しているが、その間においてベースダウンしなかったことから、いつの時点からの上昇率をとらえたらよいかという問題がある。デフレによる物価下落とその後の上昇、そして消費税率アップが絡むという、我々が今まで経験したことのない状況での判断となる。
 従来は過年度の消費者物価指数の上昇率が根拠であったが、上述のように明確な基準が見えてこない。また確実性のない上昇率の予想値をベースアップの根拠にするのは正論ではない。しかし4月から消費税率のアップにより物価上昇は確定と見てよいので、それを含んだ物価上昇率の見通しを基準とすることは可能と考える。政府・シンクタンクによると、2014年度の物価上昇率の見通しは2%後半としている。
 以上より労働生産性と消費者物価指数の上昇率は重なった領域を形成しており、その領域を巡って労使が春闘に臨むことになる。この状況は高度経済成長時代に似ており、労使環境はベースアップが可能な状況になったといえる。

結び

 これまで述べたように、筆者は生産性基準原理と消費者物価指数基準の視点から、2014年賃上げでのベースアップの環境は整ったとみている。
 今年の年初、日本生産性本部が催す定例の新年互礼会が都内のホテルで行われた。そこで牛尾会長はドラッカーの言葉を紹介し、経営の四つの優先順位の原則を述べ、その中で最も重要なことは「指導者の勇気と決断」であることを強調した。
 失われた20年において、過度な危機論と否定論が展開されたために、多くの企業は経営判断を慎重さと安全選択の方向に走らせてきた。そのために日本経済は、真の実力をいまだ発揮できないままでいる。この呪縛を解くには経営者がプラス思考に切り替えて、勇気をもって新たなステージに進む必要があるのではないだろうか。