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メンデル解題:遺伝学の扉を拓いた司祭の物語

‘Meine Zeit wird schon kommen’

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第1章 幼少年期、青年期から修道院へ  PDFファイルを開く

「自然を見よ。そして自然が教える道を辿りなさい。自然は絶えず子供たちを鍛える」
ジャン=ジャック・ルソー


 ドイツ南部のシュヴァルツヴァルト(黒い森)に端を発し黒海に向かって東に流れるドナウ川の支流モラヴァ川流域に広がるチェコのモラヴィアとシレジア地方の自然と風土は美しい。澄み渡った青空の下に波打つ丘陵が連なり、緑なす森のそばには草原と農耕地が広がり、その間に小さな農家が点在する。メンデルが生まれ育ち、生涯を過ごしたモラヴィア・シレジアは、人々の心を和ませそして弾ませる豊かな魅力を持った場所である。

  • 幼少年期から青年期
  •  ヨハン・メンデル(Johann Mendel)は、1822年7月20日に、オーストリア帝国に属していたモラヴィアとシレジアの境界にあるオドラウ郡の小さな農村ハイツェンドルフ(ハイツェンドルフはドイツ語発音。チェコ語ではヒンツィーツェ)で、ドイツ語を話す33歳の父アントンと28歳の母ロジーネの2番目の子として生まれた。メンデルの生地であるハイツェンドルフ村の生家の母屋と農場は今も残っている(伊藤啓の「メンデルの足跡を訪ねて」:ショウジョウバエ通信 No. 17, 1999年7月には、「ハイツェンドルフ村の入り口にある白塗りの家の破風にはドイツ語で、『傑出した自然科学者かつ植物学の権威であるグレゴール・ヨハン・メンデル司教、生地の名誉村民にして消防団の創始者を記念して、生:1822年7月22日、ハインツェンドルフ58番地、没:1884年1月6日、ブリュン、1902年建立』 と刻まれた石盤が残されている」、さらに「メンデルの生家は、坂をのぼりきってすぐ、家並みの一番はずれのあたりに建つ茶色い三角屋根の家で、道路に面した壁の中程には小さなチェコ語のプレートが埋め込んでありMendelという文字が判読できる」と書かれている)。オーストリア帝国は、1804年にハプスブルグ家のフランツ1世が皇帝として統治を開始し、フランツ・ヨーゼフ1世の時代の1867年に共和制のオーストリア=ハンガリー帝国へ改組されるまで続いたハプスブルグ家の帝国であった。ドイツ人を中心とする多民族・多言語国家だった帝国の領内では、チェコ人、ハンガリー人、イタリア人などが激しい民族運動を繰り返していた。ハイツェンドルフのあるモラヴィアは、現在のチェコ共和国の東部地方で、西はボヘミアに、北東部はポーランド南西部のシレジアに挟まれた肥沃な地域を含んでいる(図1)。ヨハンは洗礼名で、メンデルはいつも洗礼を受けた7月22日に自分の誕生祝いをしていたようである(Schwarzbach, E., Smykal, P., Dostal, O., Jarkovska, M. and Valova, A. (2014) Gregor J. Mendel - Genetics founding father. Czech Journal of Genetics and Plant Breeding 50: 43-51)

    Fig_1

     メンデルの父アントンは、オーストリア帝国軍における8年間の兵役を終えて復員した後に、周囲に豊かな農園の広がるハイツェンドルフで130年以上続いていたメンデル家を継いで農民としての生活を始めた。ヨーロッパ中世の荘園制度のもとにあって、自ら土地を所有し農業の自営が可能な独立自営農家であったメンデル家は、所有する小さな農地を耕し、果樹栽培や養蜂を営みながら生計を立てた。皇帝ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス軍との戦いに参加し、内外の情勢に通じ知識も豊富なうえに働き者だったアントンは、譲り受けた農地と果樹園を広げ、さらに立派な石造りの家も新築した(図2)。

    Fig_2

    図2 メンデルの生家

    Fig_3

    図3 メンデル家の居間の壁飾り

     アントンは、村で声望が高かった園芸農家シュビルトリッヒ家の娘ロジーネと結婚し、ヨハンの他に2つ年上のヴェロニカと7つ年下のテレジアという二人の娘に恵まれた。ロジーネは気立てがよく正直で思慮深いうえに信仰心の篤い婦人だった。メンデル家の居間には、「父と子と聖霊」を表象する互いに重なり合った3つの円とそれぞれの中心にマタイによる福音書の言葉「主の御心のままに」が書かれたタイル製の壁飾り(図3)がかけられていた(Father Clemens Richter OSA (2015) Remembering Johann Gregor Mendel: a human, a Catholic priest, an Augustinian monk, and abbot. Molecular Genetics and Genomic Medicine 3: 483-485. クレメンス・リヒター神父はグレゴール・ヨハン・メンデルの4世代後の人物である。上の文章は2015年2月19日に、メンデルの「植物雑種の実験」発表150年を記念して、ドイツのフライブルグで開催された講演会での神父による口頭発表の概要であるが、メンデル家の様子が懐かしく誇り高く描かれている)。メンデル家の3人の子供たちは、こうして敬虔なキリスト教徒としての信仰心と精神を父と母から学んで育った。

     幼少期から少年期の境遇は人の生涯に大きな影響を与える。それはその人の性格を形作り、夢を育み、生涯続く記憶を心の内に残す。ヨハンは、メンデル家のひとり息子として、両親の愛情に包まれた幸せだが忙しい子供時代を過ごした。当時の農家の子供たちが誰でもそうであったように、ヨハンの1週間は忙しかった。庭の掃き掃除に始まり、アヒルを小川で遊ばせ、ウサギやニワトリに餌を与え、斧で薪を割り、井戸から汲んだ水を台所や馬小屋と納屋に運び、そこを綺麗に掃除し、ヤギを牧草地へ連れて行き草を食ませ、牧草を刈り取り、畑の草を刈り、幼い妹テレジアの面倒を見るなど目の回るほどの忙しさのうちに日は暮れた。日曜日には、早朝礼拝を済ませた母ロジーネが昼食の準備をする間、父と姉のヴェロニカとヨハンは正装して教会のミサに通った。それでも時折は、父に連れられて起伏に富む豊かな農地や森を散歩し、自然の中で昆虫や草花と遊ぶこともできた。父アントンからは農作業と養蜂のやり方も学んだ。メンデルが後に自然観察で見せる鋭い知性はそうした間に育まれていったのだろう。ヨハンは、心優しい母ロジーネがとりわけ好きで、母に懐き、母が語る物語や教えによく耳を傾けたし、ロジーネも子供たちの面倒をよくみた。探求心と知識欲が旺盛なヨハンの性質は母ロジーネから受け継いだものであった(Klein, J. (2000) Johann Mendel’s field of dream. Genetics 156: 11-16.)。ロジーネの弟は、村で私立の小学校を経営して、子供たちに教育の場を提供するような有徳の人物だったし、ロジーネ自身はもちろんヨハンを含む3人の子供達の熱心な教育者であった。

     ハイツェンドルフには、教育熱心な領主のワルトブルグ伯爵とその夫人によって設立された、当時のこの地方の村としては珍しい公立の小学校もあった。ヨハンはこの小学校へ入学し、生来の学習能力を発揮して、成績は優秀だった。そんなヨハンが11歳の時、ヨハンの勉学への意欲と非凡な才能を見抜いた公立小学校の校長は、ヨハンをさらに上の学校で学ばせたいと考えて、村から25キロほど離れた町リプニックのエスコラピオス修道会 (青少年教育を目的としたキリスト教・カトリック教会の修道会)に属する上級学校に入学できるように取計らってくれた。ヨハンはリプニックの上級学校で1年間学び、優秀な成績を修めた。ヨハンがさらに上級のギムナジウム(ドイツ語圏を中心とするヨーロッパで大学進学のための教育を目的として設立された6年制の中等教育機関)に憧れている様子を理解していた母ロジーネは、ヨハンの希望を叶えてあげたいと思い、アントンの説得に努めたが、領主から土地を購入するための資金が必要なうえ農場経営がうまくいかず、満足に日々の食事さえも摂れないほどの貧困の中では、子供を学校に通わせることはメンデル家にとって負担が大き過ぎた。それでも、ヨハンの優秀さは群を抜いていたので、校長や村長をはじめ村人達の援助もあって、ヨハンは家から36キロ離れたオパヴァにあったギムナジウムで幸いにも勉学を継続することができた(図4)。

    Fig_4

    図4 オパヴァのギムナジウム

     両親は生活を切り詰めてヨハンの学費の捻出に努めたが、送金もままならなかった。ヨハンもギムナジウムの学友に家庭教師として勉強を教えることでわずかな臨時収入を得て学費の足しにした。しかしヨハンが16歳の時に父アントンが農作業中に大怪我をして、体が不自由となり農場経営が難しい状況に陥ってしまう。さらに、幼い頃から病弱だったヨハンは、病気のために休学を経験する。幸いなことに4ヶ月間の闘病を経て学業に復帰できたヨハンは、18歳になった1840年に優等でオパヴァのギムナジウムを卒業し、さらにモラヴィア最古のオロモウツ大学哲学部に進学する(オロモウツ大学は現在のパラッキー大学オロモウツ校:Palacky University, Olomouc. ドイツ語圏の大学は日本の旧制大学に相当する学部・大学院一貫教育で、大学修了後の学位は日本の修士に相当するディプロマである)。しかし、ヨハンはここでも病を再発して、今度は1年もの間、両親の元での療養生活を余儀なくされただけでなく、その後も時折襲う鬱病に苦しんだ。生涯続いたこうした病弱な体質に加えて、学業を続けるために必要な教育資金の調達はいつもヨハンにとって深刻な悩みであった。経済的な困難を打開し生計を立てるためにメンデルにできることは、家庭教師の資格を得ることだった。そこで、オパヴァの教員養成セミナーに参加し、試験に合格して認定資格を獲得したメンデルは、オロモウツ大学人文学科で個人教師を勤めながら勉学を続けた。

    Fig_5

    図5 メンデルを支援した姉妹
     右:姉ヴェロニカ
     左:妹テレジア
     中央後ろ:テレジアの夫
      レオポルド・シンドラー

     幸いなことに、結婚して父の農場を受け継いだ姉のヴェロニカと夫アロイス・スツルムが、メンデルに学資として年に金貨100フロリンを与える約束をしてくれた。さらに、妹テレジアは、父が残してくれた自分の嫁入り支度金の一部を提供して、ヨハンを支援した(図5)。ヨハンによく似た妹テレジアは小さい頃からヨハンとは大の仲良しだった(メンデルは後に、妹テレジアとその夫レオポルド・シンドラーの3人の息子達の勉学を支援した。彼らのギムナジウムの学費を負担し、さらに長男がブルノの工科大学で、次男と三男がウィーン大学で医学を学ぶ資金も援助している)。こうして父母や姉妹を含む多くの人々に支えられながら、ヨハンは物理学と数学で優秀な成績を修め、他にも動物学と植物学、特に羊の育種家として有名でオロモウツ大学の博物学・農学科長を務めていたヨハン・カール・ネストラー教授から動物育種学を学び、1843年に21才で大学を卒業することができた。

  • 修道院へ
  •  ここでヨハンの人生に大きな転機が訪れる。オロモウツ大学の指導教員だった物理学のフリードリッヒ・フランツ教授と同僚教師達が、ヨハンにモラヴィアの首都ブルノ(当時はブリュンと呼ばれていた)にあったアウグスティヌス派の聖トーマス大修道院(現在、大修道院の敷地内にはメンデルがエンドウの実験を行った畑とともに、チェコ国立マサリク大学の組織として管理されるメンデル記念博物館があり、そこにメンデルの記念碑が建っている)図6)の修道士となる道を選ぶよう強く勧めたのだった。聖トーマス修道院は、大修道院長が院長を勤める大修道院と呼ばれ、小修道院長が院長を務める他のアウグスチノ修道院とは異なる別格の存在だった。

    Fig_6
        1873年当時の大修道院          現在は、メンデル記念館

    図6 聖トーマス大修道院

     聖トーマス大修道院は著名な音楽家たちの基金で設立され、1517年に宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターも会員の一人だった。中世のヨーロッパでは、カトリック教会とその修道院に属した学校(スコラ)は学問を教え研究する場でもあった。修道院は大学と並ぶ学問の府であり、神学、哲学、音楽の他、数学・物理学・生物学など博物学(自然科学)を含む学術研究が盛んだった(日本では、仏教寺院、なかでも弘法大師が建てた高野山金剛峰寺や伝教大師の建てた比叡山延暦寺は僧侶達の修行と学問の場であった)。聖トーマス大修道院も例外ではなく、そこには、「修道士は各自の修養に励むとともに、牧職と布教に加えて教育や自然科学研究にも従事すべし」とされた聖アウグスチノ修道会の理念に賛同する文化人、哲学者、数学者、鉱物者、植物学者など多くの碩学が会員として集っていた。フランツ教授たちは、ヨハンが修道院の修道士の身になれば、生活に困ることなく学業が続けられるだろうと考えたのだった。一方、一人息子のヨハンが修道士になってしまえば、メンデル家が途絶えてしまうと恐れを抱いた父アントンはこれに強く反対した。しかし、娘ヴェロニカとその夫アロイスによる後継の目処がつくと、ついにはヨハンの希望を受け入れた。こうしてヨハンは、1843年に見習い修道士として、聖トーマス大修道院に迎え入れられ、修道名グレゴールを与えられ、以後はグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel)と名乗った。

     修道院は「神に仕える者の家」というよりはむしろ大学の学生寮のような雰囲気を持った場所だった。メンデルには、授業料と生活費に悩むことなく、修道院で多くの修道士仲間と共に好きな学問や自然と親しむ生活を継続することができたことが何よりも嬉しかった。メンデルは、聖職者となるための訓練よりは、むしろ科学的知識を得たいという生来の希望から、ヒツジやネズミなどの動物の他、植物なかでもエンドウ属(Pisum)に興味を持って交配実験を行った。しかし、聖トーマス大修道院の修道士達が動物の交配実験を繰り返していると伝え聞いた司教シャフゴッチは、「聖職者たる者が動物の交尾を観察するなどあるまじきことだ」と言って動物実験を禁止するよう命じた。

    Fig_7

    図7 ナップ修道院長

     しかし、ヨハンたちは幸いにも大きな後ろ盾を得ることができた。当時の大修道院長フランツ・シリル・ナップは哲学と神学の権威で、大修道院に付属する農場や果樹園における農業技術開発の推進者として農作物と家畜の品種改良にも熱心だった(図7)。ナップ院長は、1840年にブルノで開催された全ドイツ農業研究会議で議長を務め、「品種改良のためには、交配育種技術に関する理論と生物の遺伝法則を発見する必要がある」と力説したことが知られている。

     当時も今も、ヨーロッパ世界の人々の生活にワインは欠かせない。良質で安価なワインを求める人々の要望に応えるだけでなく、修道院の大きな収入源とするためにも、ブドウの品種改良とワイン製造は重要な仕事だった。多くの修道院が地下に大きなワインセラー(貯蔵室)を持っていた(聖トーマス第修道院の敷地内には、現在はメンデル博物館となっている建物があって、その地下には広く立派なワインセラーが今も残っている。2000年3月にブルノで開催されたメンデルの遺伝法則再発見100周年を記念した国際会議の夕食会は、この地下ワインセラーで開催された。同会議に参加した私たちは幸いにもそこで、メンデル家の子孫である快活な女性と楽しい話を交わす機会を得ることができた)。司教の反対にあい、知恵を巡らせたメンデルはナップ院長に面会して、動物実験の禁止を受け入れる代わりに植物実験の継続を認めてくれるよう司教への説得を願い出た。メンデルの熱意とその賢明な策をよく理解したナップ院長からの申し出には司教も納得せざるを得ず、これを認めた。さらにナップ院長はメンデルのために新たに温室を建て、植物育種に従事する望みを義務にかえて与えてくれた。こうしてメンデルは、エンドウの他に修道院が保有する果樹園でブドウ、洋ナシ、リンゴやアンズなどの育種に多くの時間を費やすことができた。メンデルが聖トーマス大修道院の庭に植えたブドウの木々は、メンデルがイタリア旅行でフィレンツェから持ち帰った品種や、モラヴィアを含む当時のオーストリア帝国の各地から集めた在来品種だった。因みに、東京大学理学部附属小石川植物園には「ニュートンのリンゴの木」と並んで「メンデルのブドウの木」(図8)が植えられている。これは、1913年(大正2年)に東京帝国大学の三好学教授が枝分けされたメンデルのブドウの一株を譲り受けて植えたもので、1989年にはこれがもう一度枝分けされてブルノに里帰りした。(中沢信午(1989)「小石川植物園のメンデル葡萄」遺伝43巻3号:46-48)

    Fig_8

    図8 小石川植物園のメンデルのブドウ

     メンデルは、1年間の見習い修道士の期間を含めて、ブルノの神学校で神学その他を学びながら、1846年にはブルノ哲学研究所のフランツ・ディーブル教授から植物育種学の手ほどきを受けた。ディーブル教授はナップ院長の友人だった。メンデルは、その年の12月5日には司祭の資格を得て、翌年にはひとつの教区を任されることになり、病院付きの司祭としての仕事に従事することになる。しかし、患者の苦痛や死を見る辛さに絶えられず、ノイローゼになったメンデルはこの任務を解かれることになる。ここにも聖職者としては弱すぎたメンデルの人間的な一面を見ることができるであろう。

     メンデルは、正式な教職の資格と経験がないままに、1849年(27歳)には南モラヴィアの古都ズノイモにあったギムナジウムの代用教員となって、ラテン語、ギリシャ語、数学を担当した。こうして教育に携わることに喜びを見いだしたメンデルは、生物学と物理学の正教員を目指して、1850年に教員資格取得のための国家試験を受検する。当時、教師となるための受験資格をうるためには大学が発行する正式な教員免許が必要であった。一次試験は、気象学と地質学とに関する二つの小論文だった。しかし、代用教員として週に20時間もの授業を受け持ち、その準備や生徒たちの世話に追われていたメンデルには、与えられた8週間という期間内に、十分な小論文を仕上げることは難しかったようである。気象学の小論文は上出来ではないまでも可であったが、地質学は「つまらなく、曖昧で、意味不明瞭」という散々の評価で、宿題論文もしかりだった。そのうえ、6人の試験官を前にした面接試験での受け答えは、まるで5歳児のそれのようであったという。1人の試験官の質問は、「哺乳動物が人間にとって有用な理由は何か?」だった。質問に対するメンデルの返答は、メンデルの臆病で繊細な性質の一端を物語っている。メンデルの答えは、「ネコはネズミを取るので有益ですし、毛皮商人が衣服を作るための柔らかで美しい毛皮を提供できるかもしれません。ゾウは重荷を引くための素晴らしい動物であります。」だった。しかも、ウィーンでの二次試験当日には、日程の連絡が遅れたことから試験に遅刻し、最初の受検は失敗に終わる(Henig, R.M. (2000) The monk in the garden: The lost and found genius of Gregor Mendel, the father of modern genetics. Houghton Mifflon Harcourt, Boston, USA)

     そこで、メンデルの才能を惜しみ是非ともその希望を叶えてあげようと考えたナップ院長は、教員資格試験合格に必要なより高い教育の機会を与えようとの配慮から、メンデルを修道院の経費でウィーン大学へ送る手筈を整えた(ウィーン大学は1365年に名門ハプスブルグ家出身でオーストリアの君主であったルドルフ4世が創立したドイツ語圏最古の大学である)。ナップ院長の推薦と支援のもとでウィーン大学への入学を果たしたメンデルは、1851年から1853年までの2年間、当時の最先端をゆく科学者たちの持つ科学的知識に触れることができた。特に、有名な物理学者のヨハン・クリスチャン・ドップラー教授(波の発生源が近付く場合には周波数が高くなって高音として聞こえ、逆に遠ざかる場合は周波数が低くなり低音として聞こえるというドップラー効果を1842年に明らかにしたことで知られる。ドップラー効果は、これを利用した赤色偏移に基づくハッブルの法則により、宇宙での星間距離の測定にも用いられている)と、ドップラー教授が49歳で亡くなった後を継承した数学者のアンドレア・ヴァン・エッティングスハウゼン教授(数学の組合せ論で二項係数の表示法を提案したことで知られる)から物理学と数学を学び、植物地理学のフランツ・ウンゲル教授からは植物雑種に関する知識、技術と興味を与えられた。その他、化学、動物学、古生物学など自然科学に関する豊かな知識をここで修得することができたのだった。ウィーン大学で学んだ知識のうち、特にドップラーとエッティングスハウゼンから学んだ確率論と順列組み合せ理論、加えてウンゲルから学んだ植物雑種の作成技術は、後のエンドウを用いた植物雑種の実験に大きく役立った。その他、この時に知己を得た教授達の中には、高名な植物学者であったフライブルク大学のカール・ネーゲリもいた。メンデルは、後にミュンヘン大学(正式名は、ルードウィッヒ・マキシミリアン大学)に移ったネーゲリに、エンドウと特にヤナギタンポポの雑種実験について多くの手紙を送り、意見を求めている。

     ウィーン大学を卒業後、1853年7月の終わりに、ブルノの聖トーマス大修道院に戻ったメンデルは、翌年5月から、レアルシューレ中等実業学校(1706年にドイツで始まった、中級技術者や公務員を養成する6年制の中等実技学校で、9年制のギムナジウムに変わってヨーロッパで普及した)で再び代用教員として博物学と物理学を教えることになる。メンデルの授業は分かりやすく、生徒たちからは随分と慕われた教師だった。メンデルもまた生徒たちに教えることが好きで、時折は生徒たちを動物園や植物園などに案内するのを楽しんだりした。こうして代用教員としての勤めを果たしながら、1855年、34歳の時に十分な自信を持って再び教員資格国家試験に臨むが、これにも失敗してしまう。メンデルが試験官の教授と論争してしまったことが原因であったようである(Henig, R.M. (2000) The monk in the garden: The lost and found genius of Gregor Mendel, the father of modern genetics. Houghton Mifflon Harcourt, Boston, USA)。植物の胚発生に関する口頭試問の応答で、「胚は花粉管から形成される」と諭す教授に対して、メンデルは、「いいえ、胚は雌雄の配偶子が合体して作られます」と主張して譲らなかった。教授は、精子(精細胞)が胚発生の主役であるとする「前世説・精子論」の信奉者であった。当時は卵子論者と精子論者あるいは精虫論者が互いの説を主張し争っていたような状況にあった(第2章参照)。もちろん正しかったのはメンデルだったが、残念ながらメンデルの正教員への夢は断たれてしまうことになる。

     それでもメンデルは、ナップ院長の勧めもあって、ギムナジウムや専門学校で代用教員として教育に携わり、1868年にナップ院長の後継者として聖トーマス大修道院の院長に就くまでの13年間、その役割を誠実に務めた。ナップ院長と同僚司祭たちと一緒に映った1864年の写真を見ると、当時の聖トーマス大修道院を運営していた人々の真摯な雰囲気がわかる(図9)。

    Fig_9

    図9 聖トマス大修道院の同僚司祭達(1864年)
    *シリル・ナップ院長、**お気に入りのフクシアを手に持つメンデル

    Fig_10

    図10 修道院の庭のミツバチ小屋

     教育者としてのメンデルは、ひたむきで、親切で、気さくな、誰とでも公平に接する優れた教師として生徒や同僚から慕われた。同時にメンデルは、ブルノ自然科学協会、モラビア・シレジア農業発展協会と養蜂協会の会員としても活躍した。幼少時に父アントンから養蜂の技術を学んでいたメンデルは、修道院内に建てたミツバチの実験室(ミツバチ小屋)で、新しいミツバチの集団作りにも精を出し、後に養蜂協会の副会長を務めている。メンデルのミツバチ実験室は、中央ヨーロッパ初の本格的な蜜蜂研究センターであった(図10)。

     聖トーマス大修道院へ戻った傷心のメンデルにとって農園だけが心を安らげて打ち込める場所であった。メンデルが、自ら「私の子供たち」と呼んだエンドウを実験材料に、遺伝法則の発見に繋がった丹念な交配実験を行ったのは、代用教員として生徒に教えつつ地域社会でもこうした多くの責任を引き受けながらのことだった(メンデルの伝記については以下を参照。Henig, R.M. (2000) The monk in the garden: The lost and found genius of Gregor Mendel, the father of modern genetics. Houghton Mifflon Harcourt, Boston, USA.; Iltis, H.. (1932) Life of Mendel, Eden and Cedar Paul(英訳). George Allen and Unwin Ltd, London.  フーゴ・イルチス(1942)メンデル伝 長島禮訳 創元社; Stern ,C. and Sherwood, E.R. (1966) The Origin of genetics: A Mendel Source Book. W. H. Freeman and Company, San Francisco and London; 中沢信午(1985)遺伝学の誕生 - メンデルを生んだ知的風土 中公新書; 中沢信午(1998)メンデル散策―遺伝子論の数奇な運命 新日本新書; シリーズ「オックスフォード 科学の肖像」オーウェン・ギンガリッチ編集代表 エドワード・イーデルソン著(1999)西田美緒子訳「メンデル 遺伝の秘密を探して」; Schwarzbach, E., Smykal, P., Dostal, O., Jarkovska, M. and Valova, S.(2014) Gregor J. Mendel - Genetics founding father. Czech Journal of Genetics and Plant Breeding 50: 43-51.; De Castro, M. (2016) Johann Gregor Mendel: paragon of experimental science. Molecular Genetics and Genomics Medicine 4: 3-8. なお、日本では1933年に日本メンデル協会が設立され、1933年に国際細胞学会と合併して今日に至っている。日本メンデル協会は、遺伝学の普及に関する講演会の開催、収集したメンデル資料の充実と整理および国際細胞学会の機関誌キトロギア(CYTOLOGIA)の刊行などメンデルと遺伝学に関する様々な事業活動を行っている)