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実は意外に「戦上手」だった豊臣秀吉⁉ 調略戦に激戦に消耗戦にすべて勝利‼

戦国レジェンド


豊臣秀吉を表現するとき、だれもがまず「人たらし」という言葉をイメージするだろう。しかしながら、群雄割拠の戦国時代にそれだけでなりあがることは至難の業。天下人になったのだから豊臣秀吉は数々の戦いに勝利をおさめている。そこにはかれの手腕も当然あっただろう。


 

■天性の「人たらし」!人心掌握術こそが最大の武器に

 

豊臣秀吉(東京都立中央図書館蔵)

 

 織田信長の家臣として頭角をあらわした豊臣秀吉は天性の「人たらし」であった。信長の美濃攻略では、斎藤方であった鵜沼(うぬま)城主の大沢次郎左衛門(おおさわじろうざえもん)や松倉(まつくら)城主の坪内利定(つぼうちとしさだ)に誘降工作を仕掛け、寝返らせた。そのように、若くして信長のもとで外交力や政治手腕を発揮したとみられる。

 

 また竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と黒田官兵衛(くろだかんべえ)、いわゆる「二兵衛(にへえ)」を味方につけたのも秀吉の調略工作の成果であった。とくに信長から中国地方攻略を命じられたさい、播磨の有力者・官兵衛に対しては「そなたのことは弟の小一郎(のちの豊臣秀長)同然に心安く思っている」(『黒田家文書』)という書状で心をつかむなど、その人心掌握術こそが最大の武器といえよう。

 

 秀吉の合戦といえば、やはり城攻め。浅井長政(あざいながまさ)の小谷城攻め、鳥取城攻め、三木城攻め、毛利家方の備中高松城攻めなどである。とくに「鳥取城の干し殺し」「三木城の餓え殺し」は、周到な準備による厳重な包囲を敷いて確実な勝利を手にしている。

 

 それらの集大成が天正18年(1590)の小田原城攻めであり、全国の大名を総動員しての徹底包囲で天下統一を決定づけた。野戦でも、信長の死後に明智光秀(あけちみつひで)との山崎の戦いや柴田勝家(しばたかついえ)との賤ヶ岳の戦いといった実力者に圧勝している。

 

 政治面では、やはり太閤検地が特筆されよう。領地ごとにバラバラであった生産高の単位を統一。田畑もそれまでの自己申告制ではなく実測によって管理した。東西で異なっていた知行(ちぎょう)や生産高を石高で換算するよう統一をはかり、全国規模での収穫高、兵力動員数を把握したのである。一方、これは文禄元年(1582)より始まる朝鮮出兵への布石でもあったが、動員した20万の兵力をもってしても朝鮮出兵は成功したと言い難い。晩年は残酷な行いや失政も目立ち、自身の死後に豊臣政権の分裂を招くことにもなった。

 

 とはいえ秀吉による天下統一が、その後の徳川家による全国統治の下地となったことは疑いようがない。

 

監修・文 小和田哲男/上永哲矢

歴史人2023年3月号「戦国レジェンド」より

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