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生誕130年。戦前に書かれた吉川英治『三国志』は、なぜ今も日本人に愛され続けるのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第67回

吉川英治「三国志」初版本。昭和15年(1940)~21年(1946)まで講談社より刊行された。装幀は恩地孝四郎。

 小説・漫画・ゲーム・映画など、メディアミックス作品として定着した感のある「三国志」。そのパイオニアであり、21世紀に入る前の1990年代ごろまでは、日本人にとっての三国志作品といえば、第一に吉川英治版『三国志』であった。NHK「人形劇三国志」の生みの親、川本喜八郎(かわもときはちろう)が吉川版を愛読して人形製作のイメージを膨らませことは有名な話だ。また横山光輝(よこやまみつてる)も吉川版を原作にしていて、その登場人物などを漫画に描いている。

 

 さらには、シミュレーションゲームの『三国志II』(1989年/光栄)も、吉川版を原典としていた。夏侯惇の読みが「かこうじゅん」であったり、戦利品に芙蓉姫(ふようひめ)が登場したりと、その影響は非常に強いものがあった。

 

 このように昭和中期のメディア作品は、ほぼすべてが吉川三国志の影響を受けたといってもいい。特に横山光輝の漫画では吉川が創作した冒頭部を描いたことも有名だ。劉備が川のほとりで船を待つ「悠久と水は行く――」のシーンや、お茶を投げ捨ててしまう気丈な母との親子愛などである。筆者などは先に吉川版に触れ、その後で原典の「演義」を読んだため、それらのエピソードが吉川の創作だったことを知り、軽い衝撃を受けたのを思い出す。

青梅に居住していたころ(52~61歳)の吉川英治。

 

 生涯に約240編を書き上げ、多くの人に愛された「国民文学作家」吉川英治(よしかわえいじ/18921962)は、もともと新聞記者だった。30歳を過ぎ、大正12年(1922)の関東大震災をきっかけに本格的な執筆活動を開始。貧困生活の苦難を背景にした作品などが大衆文学として花開き、人気作家となった。

 

 日中戦争のさなかの昭和1213年にかけ、吉川は「ペン部隊」の一員として、菊池寛や林芙美子などと大陸へ渡り、天津・北京・漢口(武漢市北部)を巡察。この二度の中国視察は吉川に民族や国家というものを改めて意識させ『三国志』執筆の動機につながったと考えられる。4年にわたる『三国志』の連載を中外商業新報(現・日本経済新聞)で開始したのは昭和14年(1939)8月26日。その2日前に連載開始の広告が出された。

 

「支那(中国)は日本の総意の対象であり、また興味の天地である。その膨大な正史の中の傑作が日本で読まれることは文化的に見て大きな意義がある。原書にはよるが、あくまで新しい日本版三国志を完成してみようと念じている」と、吉川は執筆の抱負を紙面に述べている。同年7月に代表作『宮本武蔵』の連載を終了させ、人気沸騰のさなかだった。

新聞連載や初期の版本に掲載された日本画家・矢野橋村(やのきょうそん)の挿絵。呂布が娘を背負い赤兎馬を駆る。

 

 吉川三国志の特色は、著者自身も述べている通り、「自分の解釈や創意をも加えて書いた」小説であり、原典の忠実な訳ではない。また、正確にいえば中国の『三国志演義』でなく、江戸時代に日本で翻訳・刊行された『通俗三国志』を原典としたことも特徴的で、そこに戦前の日本人的な価値観や観点を加えながら書いた。このために、いわゆる一般的な「演義」との展開も異なっている。

 

 創意という点では、たとえば「演義」第1回では劉備が黄巾党討伐の義勇軍の高札の前で通りがかった張飛と出会い、また酒場で関羽と会い、すぐさま「桃園の誓い」が行なわれる。だが吉川は3人にそう簡単には「誓わせ」ない。実に1巻の半分ほどかけて絆をじっくり強めてから、義兄弟の契りを結ばせるのだ。

 

 吉川は幼少のときに久保天随の『演義三国志』を熱読し、父親に「寝ろ寝ろ」と叱られた経験があったという。原典の「演義」は、講談や舞台劇の影響からか、多分に予定調和な筋書きが目立つため、小説としてはいささか物足さがあるのも事実だ。そこで吉川は彼自身も読者として抱いた印象から、そうしたものと思われる。

 

 そして吉川三国志がそれまでの作品と異なるのは、とりわけ曹操の描かれ方ではないか。その心理描写といい、行動といい、台詞といい、実に格好よく決まっているのである。無論、原典でも曹操は図抜けた才を持つ英雄として描かれてはいるが、やはり悪役である。しかし、吉川はこう考えていた。

 

「真の三国史的意義と興味とは、何といっても、曹操の出現からであり、曹操がその、主動的役割をもっている……」(『三国志』篇外余禄より)。この曹操像の影響は大きく、中国では憎まれ役だった曹操が、日本で絶大な人気を誇り、この風潮が今や本場へも逆輸入されているのは、元をたどれば吉川版の影響も大であろう。

 

 諸葛亮(孔明)についても『演義』に見える超人的な描写は省き、彼を「人」の範疇で描写する。「ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終わる二大英傑の成敗争奪の跡を叙したものというもさしつかえない」と述べるように、後半は諸葛亮を意図的に主人公として描き、その死をもって物語を終わらせる。

 

 原典を知る読者や中国文学者からの批判もあったというが、このような配慮や創意工夫の結果、吉川三国志は日本人読者に絶大な人気を獲得した。正史『三国志』はじめ、様々な形の三国志作品が手軽に入手できるようになった昨今、「吉川三国志が定番」という現象は薄まりつつあるが、連載後に単行本が刊行されてから80年を超えた現在も、幅広い読者が安心して読める記念碑的作品であろう。

青梅市吉川英治記念館で開催中の秋季展示「『三国志』の世界」の様子。川本喜八郎から寄贈された三国志人形が展示され、(株)コーエーテクモゲームスとのコラボも。

 

 東京都青梅市には吉川の旧居「草思堂」を、ほぼそのまま保存した「青梅市吉川英治記念館」がある。一時閉館したが、公益財団法人吉川英治国民文化振興会から青梅市に運営が移り、令和29月より再オープンしている。

 

 戦時中の昭和19年から昭和28年までの95ヵ月、引越しの多かった吉川が最も長く住み、終戦で一時筆を折ったのち『新・平家物語』の執筆を開始したのも、この家だった。今も保存されるその書斎や居室は、古き良き日本家屋の薫りに満ちる。また『新・平家物語』『新・水滸伝』などの生原稿や愛用のペンなども保管され、執筆当時の雰囲気を偲ばせる。

 

 現在その記念館で、吉川英治の生誕130年を記念した秋季展示「『三国志』の世界」が開催されている。新聞連載や古い版本に掲載された日本画家・矢野橋村(やのきょうそん)の挿絵、宮田重雄の装丁画や昭和15年発行の初版本などを展示。また、川本喜八郎から寄贈された三国志人形(劉備・諸葛亮・関羽・張飛)4体も館内にお目見えしている。

 

「吉川英治の『三国志』が、のちに続く人形劇やアニメ・ゲームなど、さまざまなジャンルの作品に影響を与え、広がったことを改めて周知する機会になればと考えています」と運営を担当する柿本年宏さん。秋季展示は20221218日まで(月曜休)。この機会に「三国志」の世界にどっぷり浸ってはいかがだろう。

 

https://ome-yoshikawaeiji.net/(詳細は公式サイト)

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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