年貢米の太枡事件

かって、士農工商の身分制度が敷かれていた封建社会の時代に、農民は武士の支配下に置かれ、上意下達(上の位の人の言うがままに従うこと)の思想がはびこる中、日々、苦しみあえいでいた。特に、農民の生活を支える米や麦は、それらの収穫時には「年貢」といって、今でいう高い税金を負わされていたのである。今からおよそ二百数十年前、戦国時代から江戸時代にかけて農民は、高く重い「年貢」を武士階級の役人達の厳しい監視の中で、強引に支払わされていた。中でも、「地頭(じとう)」という役人が居て、農民の収穫物に鋭い眼を光らせ、重い「年貢」を取り立てて、上役である代官所の役人に送り届けていた。今でも「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざが残っているが、このことわざから想像しただけでも当時の農民達が、いかに重税に苦しめられていたかがわかる。その頃、今の一町田中にあった代官所の役人に、山下治助という人がいた。山下は、年貢を取り立てる時に、一斗一升の枡を作り、これが正しい一斗枡だと言い張って、米や麦の年貝を強引に取り立てた。しかし、自分達が収穫する米や麦の大よその量を知っている農民は、一斗一升の太枡の量が多すぎるのではな いかという疑間を次第に抱くようになり、あちこちの農民の間に不満の声が高まってきた。そこで今の勝沼町綿塚地区の重右衛門(じゆうえもん)と、山梨市小原の伊右衛門が、或る日相談し、所々方々の村々の名主(今の村長)や、農民の頭達と密議を重ねた結果、小原東地区の名主の早川石牙に頼んで、事細かに訴状(訴えの支書)を作り、江戸の寺社奉行に上訴することを決めた。その年の十二月に、めいめい悲壮の決意を誓い合って、姿を変え、三々五々江戸に赴むき暮府に強訴嘆願した。その結果、一町田中の代官山下治助の悪行が明らかになり、暮府は山下を甲州から追放の強制措置をとったのである。しかし、多勢の徒党を組んでの幕府への強訴嘆願は、天下の御法度とあって、これらの計画を企てた首謀者達は、ことごとく獄門などの死罪、または島送りと、重罪に処せられたと伝えられている。