岩波書店創業者・岩波茂雄が広めた「日本型リベラルアーツ」

深い「愛国心」をもちつつも「リベラル」であろうとした男。書物を一般人に広め、文化を一大事業にした男の生きざま。岩波書店の創設者である“稀代の出版人”岩波茂雄の文化事業構想とは。
文・池内治彦 ノンフィクションライター

 

戦後、奇跡的再生をはたした日本は、高度経済成長期をへたのち、“バブル経済”と“バブル崩壊”をあいついで経験する。そしていまや「グローバル化」「ボーダーレス化」の波に呑み込まれようとしている。さらに今日のような「ネット社会」にあって、世界的にみてもこれまでのような人種、民族、宗教、思想、そして経済圏といった「国境線」そのものが不明確になってしまった感がある。

このままいったら、わが国においても、「身はたとい 武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という吉田松陰の“辞世の句”にも詠まれた「愛国心」はどこへ行ってしまうのか、愛国主義者ならずとも少しばかり気になってくる。

そうした時代の到来を見越してでもいたのだろうか。「愛国心」をもちつつも、自由・平等・民主主義といった古典的な「リベラル」な価値観はこれから先も通用しうるだろうかと、100年以上も前から危惧していた男がいた。やがてかれはわが国における「文化事業」に多大な貢献をなし、“近代日本出版業界の創建者”と称せられるようになる。岩波書店の創業者の岩波茂雄(1881-1946)である。

“近代日本出版業界の創建者”と称された岩波茂雄 写真提供:岩波書店

岩波茂雄は、1920年代に沸き起こった大正デモクラシーの自由主義的、浪曼主義的な時流に乗り、「岩波文化」という教養主義的でかつリベラルなイメージづくりを確立した。さらにはそれまで教養人や文化人だけに独占されていた書物を、「文庫」「新書」という形で一般人に広めることにも成功する。世間は書物に飢えていた。そしてなにより岩波は、「文化で飯が食える」ということを証明した。

ここでは、いくたの試練を乗り越えながら、日本の「文化事業」に大きな足跡を残した“稀代の出版人”岩波茂雄という人物像と、ある意味で現代と極めてよく似た時代を生き抜いたひとりの「事業構想家」としての思想に迫ってみたい。

開業当初の岩波書店(1918年)。看板の「岩波書店」の字は、夏目漱石の書であった。 写真提供:岩波書店

リベラル・ナショナリスト

昔から「百年の計」といわれるくらい、教育というものは結果が出るまでには時間がかかるものである。日本有数の教育県とされてきた信州は、幕末期において、人口当たりに占める寺子屋の数が日本一だった。そのくらい信州では昔から教育に熱心に力を注いできた。

信州は “峠の宝庫”といわれるほど峠の数が矢鱈と多いところである。ゆうに140を数える峠は、各地域をその“壁”で隔てているだけでなく、また都会に出るにも険しい峠越えを強いた。そのため信州人には、ひとつの物事にじっくりと向き合い、探求するといった優れた資質が育っていったのかもしれない。

ときに信州人は、良くいえば独立心が強く、研究心に富み、進歩的で、いい加減さを嫌い、理屈に徹すると評されることがある。悪くいえば独善的で、議論倒れなところがあり、理知に偏するといったふうだ。しかし昔の信州のようにこれといった環境的資源の乏しいところにあっては、人材こそが貴重な資源だったのであり、海がない分だけ、教育を通じて少しでも「広い視野」を手に入れようとしたのかもしれない。岩波茂雄もそうした信州人を代表するひとりだ。

かれは幼少の頃より、西郷隆盛(1828-1877)や吉田松陰(1830-1859)など日本近代史を代表する愛国主義者を崇拝した。“西郷さん好き”だった母親からの影響も大きかった。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という「西郷南洲遺訓」のなかの一文は少年の心を躍らせた。さらに「私心さえ除き去るなら、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし」と言った吉田松陰という“我”を捨て去った男の生きざまにも感動を覚えた。「南洲(隆盛)の如き胆、松陰の如き気概さをもたねばならぬ」と少年は心に誓った。それでいて、吉田松陰の師でもあった佐久間象山(1811-1864)のように、つねにリベラルな存在であり続けようともした。この象山は茂雄と同じ信州人である。

西郷隆盛や吉田松陰を敬愛し、のちに『吉田松陰全集』を出版するほどの愛国主義者が、なぜ同時にマルクスの『資本論』を刊行し、また三木清(1897-1945)などの社会思想家にドイツ留学費用を肩代わりするなどの強い信頼をおいたのか。岩波茂雄は「ナショナリストにしてリベラリスト」であった。彼こそ、もともと相性の悪かったナショナリズム(集団主義的)とリベラリズム(個人主義的)を一身に宿せる男だった。マルクスさえも「一貫せる操守より出ずる」と豪語する茂雄にとって、両者はあくまで一体であり、相互補完の関係にあった。

それにしても岩波茂雄とは不可解な人物である。しかしそんな彼のなかにあったのは、「自己矛盾」というよりも、これらは「同じもの」から派生したのであり、そこにあるのは「同じ日本人じゃないか!」というシンプルな答えだった。「愛国者こそが国民の多様性を尊重する」と主張する茂雄にとって、「言論の活性化」こそ果たすべき使命だったのである。

岩波書店の店章は、高村光太郎作の〈種まく人〉のブロンズメダルがもとになっている 写真提供:岩波書店

また茂雄は、西田幾多郎(1870-1945)の哲学とその高潔な人格にも深く心酔した。西田哲学では、つねに「原点」(純粋経験)に回帰する“センス”にこそすべての哲学的問題の解決があるとする。また茂雄の生き方は、西田哲学のいう「矛盾的自己同一」すなわち「矛盾は矛盾のまま、対立は対立のままで、しかも全体として同一性を保っている」という考え方にも多分に影響を受けている。それは「たとえ矛盾していようが、いま自分がやらなければならないことに全力を尽くす。さすれば極楽に行ける」といった日本人の「道」の価値観にも相通じるものである。「ほかのだれでもない、日本人として、私はリベラルな思想の重要性を説くのだ」と茂雄はいう。茂雄が貫いたリベラル・ナショナリズムとは、いまでいうところの「多様性」のことだったのかもしれない。

哲学者の西田幾多郎。茂雄の思想に影響を与えた人物の一人

“稀代の出版人”岩波茂雄はいかにして成立したか

茂雄は、1881年(明治14年)に諏訪の農家の長男として生まれた。信州とはじつに不思議なところである。明治維新後の日本の近代化を成し遂げ、西洋列強と並ぶまでに日本を押し上げる要因となった繊維産業、そして戦後日本の復興を牽引した精密機械産業、さらには時代の最先端をリードするエレクトロニクス産業などなど、つねに「次なる一手」となる産業を見越して、巧みにその大波に乗り移ってきている。どうも信州という地には「先見性」といったものが宿っているかのようにみえる。おそらくそれは、地理的にみて都会からの重要な情報が伝わってくる「絶妙なちょうどよい距離」に位置していたからなのかもしれない。

また茂雄が生まれた諏訪には日本有数の諏訪湖がある。厳冬ともなれば、湖は凍てつき、その膨張により湖面の端から端にかけて大きな炸裂音を鳴らしながら亀裂が走り抜ける。“御神渡り”と呼ばれるせり上がり現象だ。まるで諏訪の地に降り立った神が湖面を渡るかのようだ。そうした張り詰めた神々しさが漂う原風景のなかで茂雄少年は育った。

茂雄は地元の小学校を終えると、旧制諏訪中学(現・諏訪青陵高校)に入る。が、父の突然の死のため退学。その後復学するも、今度はリベラルな校風に惹かれ、東京の日本中学(現・日本学園高校)へ転校する。そして憧れだった第一高等学校を受験するも不合格。一時期神経衰弱に陥る。そして2度目にしてようやく合格。ところが学友の自殺と自らの失恋からくる「人生論的煩悶」のなかで2年続けて落第。結局、退学処分となる。その頃の心境を「憧憬より失望へ、失望より人生悲観へ」と述懐している。しかしこの時期における「哲学的思索」がのちの茂雄をつくったといっていい。その後、なんとか東大(哲学科)への入学をはたす。ずいぶん回り道をしてからの東大入学であった。しかし人間なにが幸いするか分からない。なぜなら回り道した分だけたくさんの学友をもつことができたからである。やがてそのなかから社会で名を残す多くの秀才たちが出て、のちに岩波書店から書籍を刊行することになる。後年「岩波文化」という言葉がうまれたが、それは「岩波人脈」と“同義語”であるとさえいわれたほどだ。こうした学生時代の友人、先輩、後輩たちとの人脈が岩波茂雄をつくった。

紆余曲折ののち、なんとか東大を卒業できたのは27歳のときである。在学中に結婚もした。当時の日本の女子教育が非常に遅れていたことを痛感した茂雄は、神田高等女学校(現・神田女学園高校)の教師の職を得る。

いかにも信州人らしい熱心さで、授業も献身的であった茂雄は、親切な教師として生徒たちからも慕われた。しかし、当時の教育方針に疑問を抱いた生来の生真面目さから学校を辞めてしまう。31歳のときだ。しかしもしもそのまま教職にとどまっていたなら、のちの「岩波文化」ははたしてこの世に存在しえたであろうかとおもえば、このおもいきった決断と行動がいまのわれわれに大いに利したといえなくもない。

教職を辞めてからの茂雄は、以前から憧れていた晴耕雨読の生活を富士山麓で送ろうとし、その場所まで決めていた。がしかし、「田園生活ならいつでもできる、その前に一度市民の生活を体験してみよう」と考え直す。「封建時代以来、士農工商といわれ商人は一番下に見られている。しかし商人も社会的任務をつくすものであれば決して卑しいものではない」。茂雄は江戸時代の禅僧・鈴木正三(1579-1655)の教え方にも触れ、「人の必要とするものを、なるべくれんかに提供し、扱う品物にも吟味を加え、かくて人の必要を充たすとともに自分の生活が成り立つならば、それでよいではないか」という考えに到達し、「商人の世界」に入ることを決意する。いかにも信州人らしい理屈っぽさだ。そしてはじめたのが神田の古本屋である。名前も「岩波書店」とした。「偽りなき真実な生活」という欲求からのスタートは、古本屋という「個性の上に立てられた城」からだった。1913年(大正2年)、33歳のときである。

岩波書店の出版活動として処女出版となった、夏目漱石の『こころ』(1914年) 写真提供:岩波書店

「リベラルアーツ」の精神を後世に残す

茂雄と同じ信州人である佐久間象山は、「東洋道徳・西洋芸術」という言葉を用いて、東洋の道徳を温存しながら西洋の芸術(技術)を習得すること(和魂洋才)は可能だと主張した。その教えは弟子の吉田松蔭にも受け継がれ、私塾「松下村塾」の精神となり、のちに明治をつくる多くの偉人を輩出していく。さらには明治というナショナリティックな時代もまたその路線を突き進んでいった。それが数多くのリーダーたちを育てた「リベラルアーツ」である。その精神は「商人の世界」にも及んだ。

あの“日本資本主義の父”渋沢栄一(1840-1931)がいうように、企業とはたんに利益を追求するだけの存在ではなく、価値的にも「よりよい利益」を求めていかなければならない。それは社会によって判断される。では社会が「よい」と認めるものとは何か。きっとそれは何百年、何千年と受け継がれてきた歴史の流れのなかである「文化力」にほかならないだろう。文明だけが産業をつくっているのではなく、歴史を縦に貫く「文化力」もまた産業に深く関わっていなければならない。

「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。......」。岩波文庫の奥付の「読書子に寄す」という有名な名文の書き出しである。岩波茂雄は、この象山のいう「東洋道徳・西洋芸術」の精神を、「岩波文化」というかれ独自の世界のなかで昇華させていくことで、それを後世に残そうとしたに違いない。そしてかれ自身を育てあげた「リベラルな愛国心」と「リベラルアーツ」の精神こそが、のちの岩波書店の屋台骨となっていったのである。

『星の王子さま』を初めて日本に紹介した岩波少年文庫(1953年)Photo by Kitsune

「誠実」以外に生き方を知らなかった男

茂雄は、関東大震災(1923)の際に財産のすべてを失った。しかし危機のときこそ人間の真価は問われるもの。かれはまず「身内や従業員に死傷者が出なかったこと」と「尊い試練を与えられたこと」に感謝した。茂雄とはそういったときにこそ最も生きがいを感ずる男だった。逆にそのことがかれの原動力となり、その後の「岩波文化」をつくりあげていった。「困難が来るたび、ぼくは元気になるよ」。茂雄にとって、逆境すら「与えられた尊い試練」だった。

「正直なんかでは商売はできない」というのが、当時も今と変わらぬ世の風潮であった。まだ駆け出しの古書店を始めた頃のことである。茂雄は「書物が文化財であるからには、その取引は公正明大にすべきである」「割り引きできるなら、はじめから引いた定価で売ればいい」「ほかより幾分でもたかく買い入れ、ほかより幾分でもやすく売る」という信念を貫いた。駆け引きや虚偽というものを嫌った茂雄は、自分の店を信頼してくれる人のみとの取引に徹した。読者への「忠実な奉仕」こそがかれの変わらぬ「原点」であった。あの「道徳経済合一」を貫いた渋沢栄一の精神を彷彿とさせるではないか。やがて岩波書店は多くの顧客からの信頼を集め、大きく成長していった。

茂雄は多くの人から愛された。その裏表のない率直で愉快な人間性は多くの人々を魅了した。茂雄は、母親譲りの「誠実」以外に生き方というものを知らない人間だった。そしてその不器用さこそが、日本における「文化事業」に大きく貢献していった。

後年、岩波茂雄は、終戦間際の昭和20年に貴族院にも列せられ、翌昭和21年には文化勲章を受章した。それからわずか2カ月後、熱海の別荘でこの世を去る。享年64歳。その遺骨は北鎌倉東慶寺のかれが終生敬愛してやまなかった西田幾多郎の墓地の隣に埋葬された。

全人格的な表現

文化事業構想家。まさしく云い得て妙である。茂雄の描いた事業ビジョンは、現在の岩波書店にもしっかりと息づいている。彼の生きざまを振り返ったとき、ゆるがぬ事業構想とはその人の全人格的表現なのかもしれないというおもいが浮かんだ。量が質を生む。ブレストよろしく、アイデアも事業構想も数多く生み出すことが必要だと教えてきた。もちろんその通りなのだが、われわれのような凡人が本気で命をかけてやる事業は、自らの人生に問うことでしか選別できまい。茂雄が選んだのは、そういった文化事業だったのである。
中嶋聞多(事業構想大学院大学教授)

月刊「事業構想」購読会員登録で
全てご覧いただくことができます。
今すぐ無料トライアルに登録しよう!

初月無料トライアル!

  • 雑誌「月刊事業構想」を送料無料でお届け
  • バックナンバー含む、オリジナル記事9,000本以上が読み放題
  • フォーラム・セミナーなどイベントに優先的にご招待

※無料体験後は自動的に有料購読に移行します。無料期間内に解約しても解約金は発生しません。