「防人」の肖像 自衛隊沖縄移駐50年(14)第2部 浸透の境界線 隣人(上)

 がれきに埋まった人を助けている自衛官に、邪魔だ、どけ、という声が飛んだ。1995年の阪神・淡路大震災で、カメラに写り込むのを嫌った報道陣からだったという。同僚の体験談として陸上自衛隊3佐の津村昌吾さん(53)=沖縄市=が明かした。自らは勤務歴37年のうち通算13年ほど沖縄で働いた今、冷たかった世間が変わって「いい時代になった」と実感している。

陸自の服装で、制服(右)は通常勤務、迷彩服は作業・訓練時と着る場面の違いを説明する津村さん。陸自那覇駐屯地は2013年、迷彩服で通勤するよう明文化した=17日、那覇・沖縄地方協力本部
陸自の服装で、制服(右)は通常勤務、迷彩服は作業・訓練時と着る場面の違いを説明する津村さん。陸自那覇駐屯地は2013年、迷彩服で通勤するよう明文化した=17日、那覇・沖縄地方協力本部

 和歌山市でタクシー運転手の父、病院の食堂勤めの母の間に4人兄弟の次男として生まれ育った。先に自衛官になった兄を追うように、中学を卒業してすぐ入隊。千葉、福岡を経て97年、沖縄市の白川分屯地で働き始めた。

 初出勤の朝、幹部用アパートのあった嘉手納町の役場へ。制服姿で住民票の手続きをしてから職場に向かうと、部下から誰かに絡まれませんでしたか、と気遣われた。街中を迷彩服で歩く米兵もいるのに不思議な心配だと感じた。

 自衛官が罵声を浴びせられるような地域感情に気付いたのは、県内紙を読むようになってから。国道58号で、車に載せた訓練用のミサイル模型についての写真付き記事が印象深い。「本州では気にされなかった光景が、県民を襲う恐怖のように書いてあった。いい空気ではないと思った」。掲載日を調べると5月15日、復帰の日に覚えた感覚だった。

 しばらくして分屯地の売店で働く女性と交際を始め、2000年に結婚した。披露宴で祝ってくれた妻方の親族ら200人余りの誰からも、自衛官であることを責められた経験はない。「うちなーむーく」として大切にしてもらった思いが強い。

 翌01年、妻が産気づき、職場から制服のまま駆け付けた病院で、看護師から「格好いい」と褒められた。長女が育って朝、車で高校へ送るようになったころには通勤は迷彩服で、と定められていた。沖縄地方協力本部の広報室長になったここ2年、迷彩服通勤を巡る苦情の電話は「2、3件受けた」だけという。

 ◇    ◇

 現在は学校での職業案内などを受け持っている。那覇市にある中学に招かれた時には、生徒数十人が将来なりたい仕事を掲示板に張り出した中に数枚、自衛官とあった。「自分たちの存在が認められた」と思った。

 学校でどんなやりとりがあるのか。津村さんは現場を取材させてほしいという記者の頼みを断り、こんな体験を語った。隊員向けの広報のため、職業案内の模様を撮影したいと教諭らに話した時のことだ。新聞にも載ってしまいませんか? と警戒されたという。「先生たちが自衛隊に肯定的でも、地域からクレームを受けるかもしれない。まだデリケートな部分はある」と語った。(「防人」の肖像取材班・堀川幸太郎)

将来なりたい仕事に自衛官

 数年前の夏、本島南部の高校で50代の男性教員が廊下のところどころに落ちている「自衛隊」の文字が入ったうちわに気が付いた。「またか」。蒸し暑くなると見かける光景だった。教室では大勢の生徒が同じうちわで夏服の襟元をあおいでいた。教員よりも遅い生徒の登校に合わせ、校門前で隊員募集の資料が配られていた。

 高校では自衛官募集のポスターが貼られ、パンフレットも置かれている。隊が吹奏楽部にイベント参加を頼み、PTA会長の隊員が東日本大震災の復興支援をした体験を講演したいと望むこともある。

自衛官募集のため自衛隊が高校生などに配っているグッズ。うちわやノートなど文房具に加えて、コロナ禍の中でマスクも作製したという
自衛官募集のため自衛隊が高校生などに配っているグッズ。うちわやノートなど文房具に加えて、コロナ禍の中でマスクも作製したという

 「そんなことまでお願いされるの、と思うが保護者なので断るのは難しい」「生徒の親や教員の家族に隊員がいる。隊を否定的に語る雰囲気ではない」。教員から漏れる本音だ。

 学校と隊の距離感が縮まる現在、県内では年に200人前後が自衛隊に入り、毎年、増える傾向にある。2019年は294人が新たに制服に袖を通した。

 沖縄戦を体験した教員が「二度と教え子を戦場へ送らない」を合言葉に反自衛隊運動の中心となった1972年の日本復帰前後からすると、隔世の感がある。

 73年、県教職員組合(沖教組)の中頭支部は「自衛官の子どもの入学に基本的に反対する」と方針を定めた。教育を受ける権利とせめぎ合い、沖教組全体の意見としてはまとまらなかった。苛烈な主張に、自衛隊を巡る苦悩の跡がにじむ。

高教組が勉強会を開く理由

 96年、県高等学校障害児学校教職員組合(高教組)は復帰直後のように生徒の入隊志望を思いとどまらせることが難しい事情を分析している。バブル崩壊後の就職難もあり、「反戦スローガンだけでは説得力がない」(県高教組25周年運動史)。国連平和維持活動(PKO)参加によって国際貢献する自衛隊という世論ができていた。

 阪神・淡路、東日本の大震災などを経た今は、さらに被災地支援に当たる「人助けイメージ」も強い。高教組の書記長、川平長作さん(51)は「生徒の進路は妨げたくない。自衛隊を知り、事実を伝えることが必要では」と2018年7月、組合で初めて元自衛官を招いた勉強会を開いた。

 県立学校82校のうち、60校から代表の教員が集まった。講師は隊で最も過酷とされる「レンジャー訓練」の経験談を交え、言った。「自衛官は国を守るため危険を顧みず任務をやり遂げると宣誓する。人を殺し、殺される覚悟があるか。志望する生徒に尋ねてほしい」

 価値観が多様化する今、生徒の志望は否定できないとしながら、川平さんは言う。「自衛隊は軍隊、という事実を伝えることは許されるはず」。世にあふれる災害派遣の印象だけではなく、自ら本質を学び続け進路を決める手助けをする。それが教師の本分だと考えての思いだ。(「防人」の肖像取材班・銘苅一哲)

 自衛隊がやって来て50年目の沖縄で、かつて繰り広げられたような激しい反対運動は鳴りを潜めた。自衛官たちは「もう、わだかまりはない」と語る。実態はどうか。連載第2部では住民と自衛官と、双方から見た「浸透の境界線」を探る。(連載1回目から読む