2023年08月07日

ドブス判決と米国の分断-各州が中絶を禁止できる米国になって1年-

保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴

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7――ドブス判決から1年

第四章で述べた通り、中絶禁止派と中絶支持派の争いはロー判決以降50年近く続いてきたが、ドブス判決を受けて新たな局面に入った。

連邦最高裁で中絶の権利が論じられなくなった反面、立法過程が従前以上に闘争の場となった。中絶禁止派は勢いに乗り、一方の中絶支持派は危機感を露わにし、両派の対立は一層激しくなったと言えよう。

1)各州での攻防
連邦最高裁の判事構成が保守化しロー判決の破棄がいよいよ視界に入っていたこともあり、ドブス判決以前から中絶禁止派は州法レベルでの攻勢を強めていた。ドブス判決の直前で、連邦最高裁でロー判決が破棄されると同時に手続きが進む州法(trigger bans)は1344あったと報じられている。

しかし中絶禁止派の攻勢ばかりではない。ドブス判決から2か月足らずの2022年8月、カンザス州の住民投票で中絶の権利を認めた州憲法の改正が否決された。保守派の力が強いとされる同州で、前回予備選挙の倍数近い投票数で6割近くの賛同を得た結果は、実際にロー判決が破棄されるとこれを危ぶむ声が如何に多いかを示すものと評された。

11月には5つの州45の住民投票で中絶支持派が期待する結果が出た。また、国政レベルでは同時に行われた中間選挙で共和党圧勝との事前予想を覆し民主党が善戦46した。ドブス判決を受けて中絶の可否が注目を集め、判決内容に不満を抱いた層の多くが民主党に投票したためとみられる。

現時点における各州別の概観は図表3の通りである。但し、合法との分類は全く無制限に中絶が容認されていることを意味するものではない点、注意が必要である。
【図表3: 各州別中絶規制の状況(2023年7月17日時点)】
 
44 ロー判決破棄と同時に中絶を禁止する法令が発効する3州(ケンタッキー、ルイジアナ、サウスダコタ)、30日後に中絶を禁止する法令が発効する3州(アイダホ、テネシー、テキサス)、承認プロセスが開始される7州(アーカンソー、ミシシッピ、ミズーリ、ノースダコタ、オクラホマ、ユタ、ワイオミング)の計13州。
45 カリフォルニア、ケンタッキー、ミシガン、モンタナ、バーモントの5州。
46 上院で民主党は過半数を維持、下院では共和党が過半数を奪取するも僅差に止まった。
2)医療・社会への影響
Kaiser Family Foundationが2023年3月から5月にかけて産婦人科医を対象に実施した調査によれば、中絶を禁止または妊娠期間により制限している州の産婦人科医の6割前後が、治療内容や中絶の必要性を判断するに際して法的リスクを懸念している。ドブス判決によって中絶の権利に憲法上の保障がなくなったことを受け、従前よりも中絶に対する各州の方針の相違が鮮明化するとの指摘が背景にあると思われる。
【図表4: 産婦人科医の治療内容/中絶の必要性判断に際し法的リスクの懸念】
多額の罰金や収監の可能性もある中、中絶に規制を行う州から産婦人科医が去る、あるいはクリニックが閉鎖される状況が見られている。また、医学部を卒業し産婦人科を希望するものの、研修場所に中絶禁止州を選択しない傾向47も出ている。
【図表5: 2022年に中絶を行った妊婦の人種別内訳】 このような状況は中絶のアクセスへの州による地理的格差を拡大させる。かねてより中絶を行う妊婦の傾向として、20代、有色人種、低所得、既に出産歴ありと示されていた。低所得では中絶が可能な州外に赴くことは実際に難しく、中絶規制の強化は低所得層の人生に多大な影響を与えることが予測される。

また、中絶規制の強化による影響は中絶を希望する妊婦に対してのみではなく一般にも及ぶと言われている。産婦人科医やクリニックの減少は、中絶の他に行ってきた検査や治療が減少することも意味する。米国における妊娠に関連した妊婦の死亡率は他の先進諸国に比べ突出して高い48が、その傾向が一層高まる可能性もある。

州境の郊外が中絶禁止派と中絶支持派の争いの場になる事態も報じられている。中絶が認められている州には、中絶が禁止されている近隣の州から中絶を希望する妊婦が来るところ、中絶禁止派の働きかけによって郡あるいは市のレベルで中絶を禁止させようとするものである。中絶を禁止している州の面積が広大な場合、州境近辺で中絶ができなくなると大きくアクセスが阻害される結果となる。
 
47 Association of American Medical Collegesが2023年4月に公表した情報によると、産婦人科医の希望が全体で前年比▲5.2%のところ、研修場所を中絶禁止州とするのは▲10.5%となっている。
48 The Commonwealth Fundの” Maternal Mortality and Maternity Care in the United States Compared to 10 Other Developed Countries”によれば、2018年以降のデータで出生数10万あたりの妊婦の死亡について、最も近いフランスが8.7人のところ米国は17.4人である。
3)バイデン大統領のステートメント
約半世紀にわたってロー判決が中絶禁止派の攻撃対象であり、その破棄が悲願であったところ、ドブス判決によって中絶支持派が攻勢に転じ、中絶の権利に憲法上の保障を求めていく局面となった。

ドブス判決から1年後の2023年6月24日、バイデン大統領はステートメントを発表した。

中絶を女性の選択権として、自らの政権が積極的に憲法上の保障を求めていくことを示すものである。また、共和党と対峙する2024年の大統領選における重要な論点になることを想定したものとも言えよう。以下に全文(筆者が和訳)を示す。

1年前の今日、連邦最高裁は米国民から憲法上の権利を取り上げ、全米の女性たちが選択する権利を否定した。ほぼ半世紀にわたってこの国の法律であったロー判決を覆すことは、すでに壊滅的な結果をもたらしている。

各州は極端で危険な中絶禁止を課している。それは女性の健康と生命を危険にさらし、治療のために何百マイルも移動させ、患者が必要とし提供するために訓練を経た医療を施す医師を犯罪者にすると脅かしている。

しかし、州による禁止は始まりに過ぎない。議会の共和党は、中絶を全米で禁止することを望んでいるが、さらには、FDA(食品医薬品局)が承認した妊娠中絶のための薬を市場から排除し、避妊具の入手を困難にしようとしている。彼らの意図は極端で危険であり、米国民の大多数とはかけ離れている。

私の政権はリプロダクティブ・ヘルスケアへのアクセスを引き続き保護し、連邦法にロー判決の保護を最終的に復活させるよう議会に求めていく。

8――おわりに

8――おわりに

米国における中絶論争についてコモン・ローの時代からドブス判決を受けての直近の状況まで見てきた。中絶禁止はキリスト教における伝統的な価値観と報じられることがあるものの、キリスト教保守派が中絶禁止派の主力となり、また、共和党と民主党が政治上対決する構図となってからの歴史はそれほど長くないと考えてよいだろう。直接の契機は1973年のロー判決であり、約50年の争いである。

来年に予定されている大統領選挙はドブス判決によってロー判決が破棄されてから初の大統領選挙である。誰が候補になるにせよ、中絶問題が共和党と民主党との論戦の中で過去よりも大きな比重を占めることは間違いないだろう。

通例、大統領選挙の前年後半から米国のメディアは徐々に大統領選挙をクローズアップしていく。日本からはなかなかわかりにくい中絶論争であるが、大統領選挙を注視する際にこのレポートを役立てていただければ幸いである。

<主な参考資料>
伊志嶺恵徹「胎児の人権-取り残されていた最後の人権?-」志學館法学第4号(2002年)
市川正人「保守化の中のアメリカ合衆国最高裁-2013年開廷期の判決から-」立命館法学2014年5・6号(357・358号)
緒方房子「「部分出産中絶禁止法案」(1995,1997)とアメリカのプロチョイス運動」地域研究論集Vol.2 No.2(1999年)
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会-身体をめぐる戦争-」岩波人文書セレクション(2012年)
亀井俊介「ピューリタンの末裔たち-アメリカ文化と性-」研究社出版(1987年)
小竹聡「アメリカ合衆国における妊娠中絶問題の政治化の過程」比較法学40巻1号(2006年)
小竹聡「合衆国最高裁判所による中絶判例の変更」ジュリスト2023年1月号
田島靖則「生命主義とキリスト教-米国の中絶論争に学ぶ-」ルーテル学院研究紀要 No.40  2006
中曽久雄「アメリカにおける中絶規制の転換点-Dobbs v. Jackson Women's Health Organization」愛媛大学教育学部紀要 第69巻 167-197 2022
根本猛「人口妊娠中絶とアメリカ合衆国最高裁判所(三・完)」法政研究2巻2号(1997年)
根本猛「人口妊娠中絶論争の新局面-Stenberg v. Carhart,532 U.S.914(2000)-」法政研究7巻2号(2002年)
根本猛「人口妊娠中絶規制の新判例-Gonzales v. Carhart,550 U.S.124(2007)-」 法制研究13巻2号(2008年)
萩原滋「実体的デュー・プロセス論の再考-Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558 (2003)を契機に-」白山法学第8号2012
蓮見博昭「宗教に揺れるアメリカ-民主政治の背後にあるもの」日本評論社(2002年)
松井茂記「アメリカ憲法入門[第9版]」有斐閣(2023年)
松本佐保「アメリカを動かす宗教ナショナリズム」ちくま新書(2021年)
JUSTIA U.S. Supreme Court (連邦最高裁判例検索)
https://supreme.justia.com/
Sherri Chessen on her 1962 abortion, and the fate of Roe: "We can't go back to willow sticks and knitting needles" (CBS News)
https://www.cbsnews.com/news/abortion-sherri-chessen-roe-v-wade/
Honoring San Francisco’s Abortion Pioneers (University of California, San Francisco)
https://intranet.bixbycenter.ucsf.edu/publications/files/HonoringSFsAbortionPioneers.pdf
Abortion Statistics (National Right to Life)
https://www.nrlc.org/uploads/factsheets/FS01AbortionintheUS.pdf
The Hyde Amendment: An Overview (Congressional Research Service)
https://crsreports.congress.gov/product/pdf/IF/IF12167
George Tiller was murdered 10 years ago. We need to fight for his legacy. (The Washington Post)
https://www.washingtonpost.com/opinions/2019/05/31/george-tiller-was-murdered-years-ago-we-need-fight-his-legacy/
State Policy Trends 2019: A Wave of Abortion Bans, But Some States Are Fighting Back (Guttmacher)
https://www.guttmacher.org/article/2019/12/state-policy-trends-2019-wave-abortion-bans-some-states-are-fighting-back
Supreme Court Nominations (1789-Present) (United States Senate)
https://www.senate.gov/legislative/nominations/SupremeCourtNominations1789present.htm
Voters Rejected Montana’s Anti-Abortion Referendum. Here’s What it Means (TIME)
https://time.com/6232659/montana-abortion-referendum-fails-midterms-2022/
States where abortion is legal, banned or under threat (The Washington Post)
https://www.washingtonpost.com/politics/2022/06/24/abortion-state-laws-criminalization-roe/
KFF -Women’s Health Policy
https://www.kff.org/womens-health-policy/
KFF Health News – Abortion
https://kffhealthnews.org/news/tag/abortion/
Statement from President Joe Biden on the Anniversary of Dobbs v. Jackson Women’s Health Organization (Whitehouse)
https://www.whitehouse.gov/briefing-room/statements-releases/2023/06/24/statement-from-president-biden-on-the-anniversary-of-dobbs-v-jackson-womens-health-organization/
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保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴 (いそべ ひろたか)

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴
  • 【職歴】
    1990年 日本生命保険相互会社に入社。
    通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
    日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
    2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
    資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

    【加入団体等】
    日本FP協会(CFP)
    生命保険経営学会
    一般社団法人アフリカ協会
    2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

(2023年08月07日「基礎研レポート」)

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