【スターのミカタ】「中洲産業大学教授」タモリがあえて博多弁を使わなかった理由
福岡スタア倶楽部 ―1981(昭和56)年1月1日 西日本新聞朝刊―
『行司の軍配が ハナメタ あっ シワタネマ ケネつてカシメシ ケシメシた シワタネマ ケッタ ケッタ……ただいまのモロヘテは、フクマケってシワタネマの勝ち』──レコード・タモリの大放送『ハナモゲラ相撲中継』から
タモリ=森田一義(三五)=福岡市南区出身。なんだかわけのわからない日本語の自称"ハナモゲラ語"。彼の言葉を文字にするのは難しい。
デビュー当時は"中洲産業大学教授"を名乗り、飲み歩けば中洲のホステスを笑い転がせた。
『初めは酒場の遊び芸だったんですよ。思いつきで、おもしろ、おかしく』
西高宮小学校時代から鉱石ラジオを作るのが好きだった。物静かな少年。しかし、ある時、電柱に絡んだ針金で右目を突いて視力を失った。沈潜。ただ一人、韓国、中国語放送に耳を寄せた。
音楽の要素は姉がひいていたピアノ。『僕が他国語のニュアンスをサッと掴んだり、物まねや落語をこなせるのは音楽の才能だよ。これは自慢できる』。こうしてハナモゲラ語が誕生し『四カ国語親善マージャン』なども、やってのける。
高宮中から筑紫丘へ。中退はしたが、早大文学部哲学科へ。中学生時代からアートブレイキーに心酔し高校のブラスバンドでトランペットを、早大ではジャズ研にいた。
しかし、タモリの素顔は道化やチャランポランとは、ほど遠い。帰福後は保険会社の勧誘員や喫茶店のマスターもした。福岡に来たジャズピアノの山下洋輔と知り合って五十年に再上京するまでの間、世の中を福岡から見詰めた。
『博多には笑いを歓迎し、育てる風土があるね。あの博多にわか、すごいアドリブだよ』
ただし──。博多に学び、ネタとして中洲産業大学を使いながら、博多弁をほとんど口に出さない。それにはタモリ哲学がある。
『あれだけすごいアドリブがポンポン飛び出す博多にわかが全国的に通用しなかったのは、なぜか。方言がわかりにくいからではないか。全国に流れる放送に、方言ばかり使ったら、まずいよ』
『"博多っ子純情"のように、見える物なら良い、ぼくの笑いは耳からだ。目と耳の違いだよ』
真面目なタモリ教授の講義が、しばらく続いた。
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