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【動画あり】「普天間は戦場」学校上空、今も爆音 校庭に避難所

 沖縄県宜野湾市の市立普天間第二小の校庭に、隣接する米軍普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターの窓が落下した事故から13日で3年。事故の翌年に校長として赴任した桃原(とうばる)修さん(61)は、米軍機が飛来するたびに逃げ回る児童の姿にがくぜんとした。「これが学校か? 沖縄は戦場か?」。今も上空を行き交う機体をにらみ、憤り、現状を変えようと訴える。

 11日夕、同小体育館。「歩幅とスピードを大事に」。桃原さんは指導するバスケットボール部の児童に指示を飛ばす。練習中、耳をつんざくようなエンジン音が響いた。「空中給油機かな。事故後も変わらないここの日常さ」

 事故があった2017年12月、石垣島で校長をしていた。定年まで2年となり、異動先を決める時期がきていた。「普天間第二」を志願した。「大変な2年間になることは分かっていた。でも、子どもたちと先生を守らないといけない。逃げたら駄目だ」

 現実は想像を超えた。おびえる児童、動揺する保護者や教員たち…。防衛省が校舎屋上と地上に配置した警戒要員が事態をさらに緊迫化させていた。米軍機が校庭上空を横切るたびに体育の授業を中断した回数は、最も多い時で45分間に5回。半年で700回近くに上った。

 つらかったのは、児童の率直な言葉。「なんで避難するの?」。75年前に学徒動員された母親や、戦争経験者が語る沖縄戦の戦場と重なって見え、涙した。

 事故から約8カ月後、防衛省は校庭に避難用のシェルターを設置。桃原さんの求めで警戒態勢が解かれると、児童も教職員も落ち着きを取り戻していった。

      ◇

 日米両政府が普天間飛行場の返還に合意した1996年、当時宜野湾市長だった桃原さんの父はとにかく喜んだという。ただ米軍基地の移転先が県内と分かってからは「なんでいつも沖縄なのか」と苦しんでいたという。

 普天間という危険性の除去は望ましいに違いない。だが名護市辺野古への移設が「唯一の解決策」として、多くの県民が反対しようとも、海底に軟弱地盤が見つかろうとも、工事を続ける政府の姿勢は理解できない。「日米安全保障体制は大切さ。でも、なんで沖縄ばかりに押し付けるのか」。辺野古近くの集落が、新たな「普天間第二」になることを懸念する。

 今年3月に定年退職してからは、沖縄を訪れた県外の大学生たちに、沖縄戦と基地負担の現状を伝える講演を行う。取り巻く状況がすぐに変わるとは思っていない。それでも、声を上げ続けることが大切だと強く信じる。 (那覇駐在・高田佳典)

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