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一夜にして「車は左」 沖縄、本土復帰6年後の「日本化」

「アメリカ世」から「大和世」への転換

 戦後の米軍統治を経験した沖縄では、1972年の本土復帰後も車の通行方法は米国式の右側通行が続いた。日本式の左側通行に反転したのは復帰6年後の78年7月30日。通称「ナナサンマル」と呼ばれる交通方法変更事業は、「アメリカ世(ゆ)」から「大和世(ゆ)」への転換の象徴だった。携わった沖縄県警OBは「本土と違う生き方を強いられた沖縄は、交通方法さえも日本化するために苦労した。こういう歴史があったことも知ってほしい」と語る。

 那覇市中心部、沖縄都市モノレール「美栄橋」駅のそばにある立体駐車場。向かって右側が入り口、左側が出口となっている。一般的には、入り口と出口の左右は逆のケースが多い。

 料金所の係員は「県外から来たレンタカーのお客さんはよく間違えますね」。所有する会社の担当者によると「当時を知る社員がおらず詳細は分からないが、右側通行時代に造られたと聞いている」という。

信号500基、標識3万本…

 「社会がひっくり返る大変革。失敗は絶対に許されなかった」。当時、県警の交通方法変更対策室で交通規制班長を務めた久高弘さん(86)は振り返る。

 国際条約は「一国一交通方法」を定めている。準備期間が必要なため、左側通行のスタートは復帰6年後の78年7月30日に定められた。交通規制班の業務は膨大だった。信号約500基、標識約3万本、全長300キロ分の道路標示を全て左側通行用に改める必要があった。

 警察庁は当初、標識と標示について、全国の業者を沖縄に集結させ、切り替え当日に設置する考えだったという。久高さんは「それだと県内の業者が干上がってしまうと考えた」。加えて7月末は台風シーズンのまっただ中。「雨が降ったからできませんでした、は通じない」との危機感から、独自の方法を考案した。

 左側通行用の新標識はあらかじめ設置し、カバーをかぶせた。「ただカバーするだけではもったいない」と、表に「(昭和)53年7月30日から車は左」と印刷し、啓発に活用した。カバーの裏面には「車は左」と印字し、切り替え後は裏返して旧標識にかぶせた。

 道路標示も事前に塗装し、上から特殊なテープを貼って隠した。切り替え当日にバーナーで焼くことで、新標示が現れる仕組みだ。

 切り替えのための規制は29日午後10時から30日午前6時までの8時間。「想定よりも手間取った」というが、無事に完了。交通死亡事故は32日間ゼロだった。

 「通行方法の変更は米軍基地問題を除き、唯一残った本土復帰事業だった」と久高さん。「沖縄で車を運転するときに少し思い起こしてもらえるとうれしい。もちろん安全運転で」と笑った。

(那覇駐在・高田佳典)

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