100年後へ 田嶋幸三日本サッカー協会会長が残したもの
サッカージャーナリスト 大住良之
日本のサッカーが新しい時代に入る。3月23日の評議員会で日本サッカー協会(JFA)の2024〜25年度新役員が決定し、新会長には宮本恒靖・現専務理事が就任する運びになっている。16年に就任した田嶋幸三・現会長は4期8年間の任期を終えて退任する。
田嶋会長は、JFA100年の歴史において初めて「選挙」で選ばれた会長だった。
それまでは事実上「人事」で役員ならびに会長が決められ、受け継がれて、前任の第13代大仁邦弥会長まで95年間、協会の運営が行われた。1974年に「任意団体」から法人化されて「財団法人」となり、2012年には「公益財団法人」になって、1921年の設立から1世紀以上運営されてきたJFA。しかし国際サッカー連盟(FIFA)が「標準規約」を定めて傘下の協会に会長選挙を義務付けたことから、2016年に最初の会長選挙に踏み切った。その結果、当時協会副会長だった田嶋会長が、専務理事だった原博実氏を破って、第14代会長に就任したのである。
田嶋会長はその前年、アジア・サッカー連盟(AFC)選出のFIFA理事に当選しており、FIFA理事とJFA会長を兼ねるという多忙な身となった。
田嶋会長の在任期間、日本のサッカーは世界への挑戦を続けた。男女を問わず、すべての世代の代表チームがアジア予選を勝ち抜き、世界大会への出場を果たした。それだけでなく、23年のU-20ワールドカップ(W杯)を除くすべての大会でグループステージを突破し、決勝トーナメントにコマを進めて、世界のサッカーのなかで日本の地位を確たるものとしたのである。
日本代表はこの間、18年と22年の2回のW杯に出場、いずれも世界の予想を覆してラウンド16進出を果たした。
18年、田嶋会長はW杯ロシア大会まで2カ月となった時期にバヒド・ハリルホジッチ監督の解任を決断、技術委員長だった西野朗氏を監督に立ててW杯に臨んだ。西野監督は見事にチームをまとめ、ラウンド16で優勝候補のベルギーを相手に2-3の大接戦を演じて田嶋会長の決断が正しかったことを証明した。
22年のカタール大会では、ドイツ、スペインと同組に入る不運があったが、森保一監督の大胆な采配が実っていずれも2-1で逆転勝利。世界を驚かせた。
だが、8年間の「田嶋時代」の後半は、それまでには想像もつかない「怪物」との戦いに費やされた。20年初めから世界を恐怖に陥れた新型コロナウイルスである。日本で爆発的な感染が起こる前に田嶋会長自身が感染、2週間にわたって入院を余儀なくされた。直前に田嶋会長は欧州から米国を回って23年の女子W杯の招致活動を行っており、その間に感染してしまったのだ。「サッカー外交」には、握手だけでなく、ハグし合い、いっしょに食事をするという「人と人」のつきあいが不可欠で、感染は避けがたいものだった。
日本国内も感染の拡大により試合や大会だけでなくすべてのサッカー活動がストップした20年の前半、全国でジュニアやジュニアユースを指導する「草の根」のクラブやスクールが経営の危機に陥った。田嶋会長は「サッカーの火を消してはならない。全国で活動するサッカーファミリーは日本サッカーの財産。一刻も早く手を打たなければならない」と、何ごとにも優先して援助策を打ち出し、実行した。日本の社会に先駆けて新型コロナウイルスの脅威に対応したJリーグ(当時のチェアマンは村井満氏)とともに、サッカー界の「両輪」がコロナ禍の日本のスポーツをリードした。
田嶋会長は埼玉・浦和南高校から筑波大を経て日本サッカーリーグの古河電工でプレー、その後ドイツに渡ってコーチングライセンスを取得した「技術畑」の人間であり、1990年代に日本サッカー協会の強化・指導の仕事をするなかで、「選手育成」の重要性を説き、そのための仕組みをつくり続けてきた。そして2006年にはエリートクラスの選手育成のための「JFAアカデミー」の設立を主導した。小学生年代と中学生年代の育成に取り組む「草の根」クラブへの援助は、そうした哲学に根ざしたものだった。
少年少女チームの指導者からS級コーチ(トップリーグの指導が可能)までの「コーチングライセンス」の仕組みとライセンス取得のための講習会内容も、1990年代に田嶋会長が中心になって基礎づくりしたものだった。指導者養成が選手育成の重要なカギであることは言うまでもない。
日本から海外への渡航、そして日本への入国が厳しく制限されていた2020年の秋、アジアの大半の国が代表チームの活動を完全に停止していた時期に、田嶋会長は「欧州のクラブに在籍する選手だけでの欧州での代表親善試合実施」を決断、10月にはオランダで、11月にはオーストリアで、計4試合を実施した。「代表活動の空白」になりかけていたこの年に、これだけの活動ができたことが、2年後、22年のカタールW杯での躍動につながった。
21年には、国内での国際試合を再開。外国チームの入国からホテル、練習場での感染予防コントロール、観客数制限とそのコントロールなど、きめ細かな対策のもとに開催した試合で得られた経験は、1年延期されて21年の夏に開催されたオリンピック大会「東京2020」に大きく役立った。オリンピックが原則無観客になったのは残念だったが……。
21年9月10日には、JFA創立100周年の記念式典が開催された。まだコロナ禍の真っ最中で、式典を中心にした記念行事は規模縮小を余儀なくされ、出席者も「ソーシャルディスタンス」を取りつつのものだったが、田嶋会長は先人たちの努力、力を貸してくれた人びとや世界のサッカー仲間への感謝を忘れず、次の100年に向けて新しい一歩を踏み出したいと語った。
「30年後、50年後、100年後に、『あのとき、JFAはコロナを克服して頑張った』と言われるように、この困難を乗り越えていきたいと思います。みなさん、一緒に頑張っていきましょう」という言葉を、コロナ禍からようやく脱出できたいま、しっかりかみしめてみたいと思う。
コロナ禍という、日本サッカー100年のなかで例のない試練の時期に田嶋幸三会長というリーダーをもつことができたのは、日本のサッカーにとって大きな幸運だった。
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