専業主婦から女将へ、老舗旅館の復活劇 週3日休みに
陣屋・宮崎知子さん
専業主婦だった女性が廃業寸前の老舗旅館に入り、夫とともに立て直す――。そんなドラマのような話を地で行くのが「陣屋」(神奈川県秦野市)の女将、宮崎知子さん(42)だ。ITで業務を効率化するとともに、従業員の休みを確保するため週3日休館を導入。旅館を憧れの仕事に変えようと奔走している。
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新宿から小田急線で1時間、鶴巻温泉郷の一角に陣屋はあります。創業は1918年(大正7年)。1万坪の敷地に18の客室があり、将棋や囲碁のタイトル戦会場にもなっています。
2009年、私が女将として入社したときは、巨額の債務を抱えて廃業の瀬戸際にありました。それから10年、社長である主人とともに立て直しに取り組んできました。11年には黒字に転換、18年の売上高は6億1400万円とほぼ倍増しました。
7年前にパートを含めて120人いた従業員数は3分の1になりました。ほとんどが定年などによる自然減です。一方で平均年収は徐々に引き上げて408万円。宿泊業の全国平均(250万円)を大きく上回っています。来春入社の採用には20人以上の応募があり、3人を採用しました。
経営のことはだれかに教えてもらったわけではなく、すべて自分たちで考えました。主人はせっかち、私はのんびり屋。ゼロから1を生み出すのが主人、私が1を5にするというような役割分担でした。
陣屋コネクトは予約から接客、従業員の勤怠管理、経営分析まで、あらゆる業務を一元管理しています。あるお客様が常温のお水を所望されたら、社内SNSで共有し、顧客データに残します。すると再訪された時に「水は常温で」という情報が共有されます。細かいおもてなしが可能になりました。
(あらゆるモノがネットにつながる)IoTも活用しています。駐車場に車が入るとカメラでナンバーを認識するので、名前をお呼びして出迎えられます。誰でも名ドアマンというわけです。大浴場のタオル籠にもセンサーをつけ、補充や清掃のタイミングを把握しています。
このシステムを使っているのは陣屋だけではありません。12年に陣屋コネクトを外部に販売する会社を設立しました。現在、旅館のほかホテルやレストランなど全国約340施設で利用していただいています。
もっともシステムを導入すれば、それだけで飛躍的に売り上げが伸びるわけではありません。ITはあくまで道具。システムやオペレーションの改善点を常に模索し、工夫をすることが欠かせません。私たちはその努力を10年続けてきました。
借金10億円、義母から突然の告白
「女子校でやっていけるのか」。勉強より運動が好きで、小学校の先生が心配するような子供でした。短大の国語科に入ったのですが、途中で「もう2年勉強しようかな」と4年制の史学科に編入しました。ゼミでは文化財保存の研究をして、学芸員の資格を取りました。
アルバイトはたくさんしました。一番長く続いたのは地元のパン屋さん。レジ打ちから品出し、新人教育までやりました。売り上げを上げるのも楽しかったです。将来、経営者になろうとは思いもしませんでしたが。
卒業の年はいわゆる就職氷河期で、就活ではより好みしていられません。「女子大の文系」というだけで不利です。とにかく一般事務で女子を募集しているところを探して、40社近くエントリーしました。
入社したリース会社では営業のアシスタントをしました。仕事は楽しかったです。1年目の秋には担当企業を持つようになりました。仕事を振られると、「それくらいだったらできますよ」と引き受けているうちに、どんどん担当が広がりました。
同い年の主人とは学生時代に知り合いました。付き合い始めたころ「実家が商売をしている」と聞きましたが、詳しくは知りません。箱根に遊びに行く途中、彼は「荷物を取ってくる」と陣屋に立ち寄りました。駐車場に入ってびっくり。「あなたの家って観光地みたいね」と言った記憶があります。
結婚のときも跡取りの話はありません。「妹が2人いるから自分が継ぐことはない」という話でした。主人はホンダで燃料電池のプロジェクトなどを任されていて、「このままホンダにいるんだろうな」と漠然と思っていました。
長男が生まれた後、義父ががんで亡くなりました。相続一切が済んだころ、長女を妊娠中だった私は切迫流産の危険から入院していました。病室に義母が訪ねてきて、こう言ったのです。「旅館がピンチなの」
借入金はいろいろ合わせて10億円あり、主人も連帯保証人になっていました。義母は最初、主人に跡を継がせようとは思っていなかったようです。あるホテルに経営権を譲る交渉をしましたが、リーマン・ショック後でまとまりませんでした。主人とは実の親子なので「なぜ借金がこんなになった」とけんかになってしまう。だから義母はまず私に話したんですね。
主人には電話で伝えました。「怒らないで聞いてほしい」。金額を伝えたところ、電話の向こうで開口一番、「ホンダの生涯賃金を超えている……」。主人の冷静な一言を聞いて、思わず笑ってしまいました。
サラリーマンでは無理でも、2人で力を合わせてきちんと商売をすれば、20年、30年かけて返済できるはず。跡を継ぐことを決断し、主人が社長、私が女将として陣屋に入社しました。
稼げる宿へ実験、勝率6割で走り出す
まず従業員の多さに驚きました。20ほどしか客室がないのに120人くらいいました。しかも平均年齢が高い。学生アルバイトを除けば、当時32歳だった我々が最年少です。40代でさえ、ちらほらいる程度。「組織として脆弱だな」と思いました。
役割が細分化され、接客でも部屋の担当、レストランの担当と分かれています。それ以外はやりません。忙しいときにフロント係に布団を敷いてもらおうとすると、「私にそういうことをさせるつもりですか」と文句を言われました。予約台帳から売り上げ計算まで、すべて手書きだったことも驚きでした。
宿泊料金は1泊2食付きで1万4千円だったところを9800円で販売していました。忙しいだけで、もうかりません。部屋数に限りがあるなか、単価を上げるしか道はない。目先の稼働率を気にするのはやめて、5年かけて1泊3万円くらいの宿になろうと考えました。
主人が勤めていたホンダでは自動車レースのF1を「走る実験室」と呼ぶそうです。我々も実験室をつくることにしました。特別なときしか使っていなかった貴賓室を宿泊可能にし、料金を高く設定しました。従業員のトレーニングの場にすれば、一般客室のサービスが向上すると考えたのです。
料理長に「採算度外視で」と言ったら、最初は原価7万円の料理が出てきました。全部は無理でも、一品だけ取り入れる。食材の見直しで原価を下げつつ、美しくて驚きのある盛りつけにする。そんな要望を出し、試食会を繰り返しました。4、5カ月するとお客様から「おいしくなった」と声をかけていただけるようになりました。
改革で大切なのは「スモールスタートアップ」ではないでしょうか。勝算6割でも走り出す。小さく始めれば失敗しても修正できるし、あきらめて白紙にしてもいい。機が熟すまで待とうとすると、かかった時間や労力を考えて決断が遅れ、逆に機を逸する気がします。
サービスを良くするには従業員がマルチタスクで働く必要があります。自分で考え、行動しなければならないからです。
抵抗はありました。職域を広げるために人事異動しようとすると、「左遷させられる」「部下をとられる」と号泣されたこともあります。どんな旅館にしたいかという青写真を説明し、「あなただったら先頭を走ってもらえる。一緒にやってほしい」と一対一で説得しました。
重視したのは情報開示です。経営数値などを共有すれば、従業員は指示待ちから脱却できます。初めのころは必ず目につく場所にパソコンを置き、毎月の売り上げと損益分岐点を示しました。今は独自開発したシステム「陣屋コネクト」で、会社の預金額も見られます。
旅館を憧れの仕事に、離職防ぎたい
サービス業界では、CS(顧客満足)のためにES(従業員満足)が犠牲になることが多いです。ITを入れたところで改善しないことに気づきました。
11年に黒字転換した後も、従業員の離職率は3割を切れません。仕事を教えても途中で辞めてしまい、また一から教え直す。これでは残る従業員が疲弊していくばかりです。
会社員の家庭に育った私は、週5日働いて週末は家族で過ごすというサイクルを続けてきました。陣屋の従業員にもそういう生活を送ってほしかった。というか、私も主人も休みたかったのです。
調べてみたら火曜と水曜の稼働率が低い。だったらこの2日を休みにしてしまえ、と。お客様の反応は様々でした。「旅館が休むなんてあり得ない」と叱られたこともあります。メインバンクからも「本当にやるんですか」と心配されました。
2年後には月曜も休みにして、週3日休館にしました。火曜が休みでも、月曜に宿泊したお客様をお見送りしなければならないため、出勤しなければならない従業員が出てきます。月曜日の宿泊をやめれば、完全に2日休めます。売り上げは一時的に頭打ちになりましたが、その後は伸びています。離職率は3%まで下がりました。
長野県のある温泉旅館で料理人が全員辞めてしまい、陣屋にSOSが入ったことがきっかけです。資本関係がない旅館やホテルが緩やかに連携することを目指しています。食材を共同で調達したり、人材を融通し合ったりすることで、大手チェーンに負けないサービスが提供できると考えています。
陣屋を継いだとき、こんな仕事をしているとはまったく考えていませんでした。私たちは特別なことをしたわけではありません。やるべきことを10年間続けただけです。
やり続けるというのは意外に大変なんです。気を抜くと風下に流されてしまう。旅館業は小売りのように爆発的なヒット商品が出るわけではありません。目の前のお客様一人一人に、「また来てください」と向き合うしかないのです。
18年には優れたサービスを提供した事業者を対象とする「日本サービス大賞」の総務大臣賞をいただきました。革新的な旅館経営ということで、石破茂地方創生担当相(当時)が視察に訪れたこともあります。
日本では旅館が減り続けています。旅館は観光の重要なコンテンツ。200年、300年と続いてきた旅館はその土地の文化の担い手でもあります。M&A(合併・買収)で名前や雇用は維持できても、文化まで継承することは難しいと思います。旅館を憧れの仕事にしたいというのが私の願いです。
(横浜支局長 石川淳一)