「心も体も動かない」土佐礼子さん、再び走り出す旅へ
マラソン 土佐礼子(3)
スピードランナーではない土佐礼子(42)にとって、42.195キロを走りきることが陸上選手としての評価の全てだった。だが、様々な犠牲を払って出場した2008年の北京五輪が思いもしない棄権という結果に終わった。今回は傷ついた心と体を癒やし、走る気力とともに自己の存在意義を取り戻す過程に迫る。前回は(「北京五輪マラソン 土佐礼子さんが足を止めた奇跡の声」)
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高校でも大学時代も「後輩に練習でも勝てず、連戦連敗でした」と話す土佐礼子にとって、42.195キロというつらい距離だけが自らの存在価値を示せる唯一の場であった。ここで走れなければ、陸上にもう走れる距離はない。危機感にも似たこうした思いが、全くスピードを持たなかったランナーを常に目標に駆り立てるパワーであり、だからこそ、練習でもレースでも「諦める」などと考えたことは一度もなかったのだ。
酷暑の難コースを競ったアテネ五輪(5位)でも、上り坂で一度は引き離されながらも諦めなかった。最大の持ち味である粘りで、マラソンでは底力の指標ともなる「上がり」と呼ばれるラストの2.195キロを7分25秒と、野口、銀メダルのヌデレバ(ケニア、ともに7分20秒)、銅メダルのカスターに続く3番目の好記録でカバーしている。この走りが五輪メダル獲得への大きな手応えとなり、胸に秘めたささやかな自信ともなった。
新婚ながら、4年間の別居生活
五輪が終わった04年12月に、松山大の先輩、村井啓一と結婚したのは、その自信を北京五輪につなげるために入念な計画を立て、いち早くスタートを切りたかったからだ。東京・町田にある陸上部の合宿所生活をこれまで通り続け、夫は松山で大学職員として勤務する。北京のために新婚の夫婦が選んだのは、4年間と、明確に分かっていた長い別居生活だった。
そうして夫婦でかけた2度目の五輪が、想像もしなかった棄権で幕を閉じた時、土佐はアイデンティティーを失い、3度目はもうないという現実に深く絶望した。村井は、北京から帰国後、妻が毎日ふさぎ込み、地元松山で関係者に会えば「すみません」と涙を流して謝る姿、走ろうとしない様子を案じ、思い切って陸上から離れるため友人を訪ねて道東旅行に連れ出した。
いつもなら、ランニングシューズと、毎日の練習に用意するウエアだけでスーツケースは一杯になる。しかし、陸上を高校で始めて以来、走るための用具は何一つ持参して行かなかった。
「棄権で運ばれた病院のテレビでマラソンのゴールを見てから、自分がゴールできなかった現実を受け止められなかったんです。一緒に頑張り、私を支えてくれた旦那さんにも恩返しどころか本当につらい思いをさせて……1カ月がたっても、やっぱりあれは夢だったんじゃないか、と心も体も動きませんでした。全く走らず、ただ旅行だけ楽しむのは、人生初めてでしたが行ってみようと決めました」
今も痛みをかみしめるかのように、そう振り返る。
旅行中は棄権についても、周囲の評価も話す必要がなかった。短い秋、道東を象徴するタンチョウや、知床では川を上るサケの大群、冬眠前それを捕獲するヒグマに驚きの声をあげ、食を楽しみ、温泉につかった。「どうしても寄ってみたい」と願っていた、オホーツク海を見渡す別海町にある「民宿くなしり」にも寄った。実業団に入ったものの将来が少しも描けなかった新人時代、夏合宿でがむしゃらに走り続けた場所だ。突然の訪問に驚く主人と女将さんに、当時使っていた部屋を案内され、ただただ懐かしく談笑する。
そんな旅が丸1週間続いた最終日、展望台のレストハウスから車まで、それはほんの短い距離だったが、「走ります!」と、笑顔で駆け出した。夫婦を覆っていた表現できない緊張感がふと解けるように、村井も涙があふれたという。棄権から50日が経過していた。
北京の25キロ地点からもう一度立ち上がり、42.195キロをつないで完走する。「休むのが怖くて仕方なかった」ランナーは、シューズを持たない旅で「たとえ望まなかった結果でも、それも夢の一部だった。夢を追いかけたんだったら、あの棄権で終わりにしてはいけないんだ」と、心から思えるようになった。翌年2009年3月、国内最大の市民マラソンでもある東京マラソン出場を目指す。
実業団を離れ、地元松山へ
一方、完走を目指すゴールは定まっていたが、32歳の女性としてそのプロセスには大きな変化が必要であると感じていた。夫婦だけではなく、2度の五輪出場のためサポートを惜しまなかった互いの家族との時間をこれからは何より大切にしたい。そう考え、これ以上別居生活は続けないと決めた。また、入社して10年がたち、陸上部のトップランナーであり続けたポジションも、若手に譲り区切りをつけようと思っていた。
入社以来指導を受けてきた鈴木秀夫(当時陸上部監督)に、一線を退く意向を打ち明け、松山に帰って1人で練習を積んで東京を目指そうと決断した。
「実業団という恵まれた環境を離れ、自分にできる範囲で、自分のやり方でまた距離をつなごうと考えました。東京のスタートラインに本当に立てるのか、確信を持てるレベルではありませんでしたが、『家内工業マラソン』のようなトレーニングも新鮮で毎日楽しかったんです」
再起に向けたマラソンを、家内工業と表現した。
練習は、市民ランナーでもある村井が主にサポートする。自宅のリビングの中心には、村井が臨時トレーナーとして体のケアを毎晩するため、治療用ベッドが置かれた。日中は仕事のため、タイムトライアルなどポイント練習になると、土佐の母親が実家から給水に回り、タイムの読み上げも担当した。実業団では、資金も人員においても企業の総力をあげたサポートを受け、その分、選手は練習に集中し結果で報いる。家内工業で目指すマラソンは、こうしたスタイルとは全く異なる。42キロを、実業団選手と市民ランナーのような、2つの違うアプローチで完成させていく作業は、どこか楽しくもあった。
足の痛みもやわらぎ、09年2月、棄権から実に半年ぶりとなるレース、香川丸亀国際ハーフマラソンに出場する。久々に味わう公式戦の緊張感を手応えに、1時間10分58秒の好記録でゴール。軸足は、東京を目指す半年間で実業団のトップランナーから主婦に変わっていた。
「区切りのレース」と臨んだ2009年東京マラソン(3月22日)は、記録更新も、順位も、国際大会への出場権も争わないレースだったが、ある意味では過去にはない、もっとも重要なテーマを背負った42キロでもあった。しかし、そう簡単には完走させてはくれなかった。
東京は男女混合レースで、女子は人数がまだ絞られていない5キロ地点、男子の大集団と給水を同時に取らなくてはならない。大混雑の給水所付近で足を取られて転倒。現役引退を表明した、棄権以来の復活レースなのに右膝をすりむき流血してしまう。
「あーあ、やっちゃった、と思わず笑ってしまいました」と、転倒で何故か肩の力がを抜け、当時のゴール、有明のビッグサイトを目指す。膝からは血が流れ、後半は強風に、さらに雨も降る厳しい条件に改めてマラソンの難しさはかみしめたが、それでもこの7カ月間を思えば、ゴールに向かって苦しんでいるだけで、どんな痛みも困難もつらく感じなかった。
どのレースでも力を出し切ってゴールしてきたため必死の形相で、笑顔を作る余裕が全くない。レース出発前、「最後くらい、笑顔でゴールしてね」と、コーチ役を務めた村井に言われ、強くうなずいた。ビッグサイトに入ってからの長い直線、夫との約束を守ろうと懸命に笑顔を作ったが、視線の先で、夫の方が人目もはばからず号泣している。結局、最後くらい笑顔で終わろう、と誓ったゴールで2人は抱き合って泣いた。
再起し、実業団とは違う練習を1人でこなし、しかもレース中転倒に巻き込まれてひざから流血しながら悪天候で3位(2時間29分19秒)。円熟の走りに、関係者から現役続行を願う驚きの声もあがった。
記者会見では「引退後はどうしますか?」と聞かれ、「やっときょう、北京オリンピックが終わった気がします」と穏やかに答えた。
口にはしなかったが、7カ月をかけてつないだ42キロをようやく走り終え、また新たな挑戦へ意欲が湧いているのを感じてもいた。
主婦として日々、丁寧な暮らしをしたい。そう願っていた夏、妊娠が分かった。
=敬称略、続く
(スポーツライター 増島みどり)
1976年6月、愛媛県北条市(現松山市)生まれ。中学まではバスケットボール部に所属。松山商業高校で陸上競技を始め、松山大学でも主に中距離を専門としていた。99年、三井海上火災保険(現三井住友海上火災保険)に入社してマラソンに転向。実質、初マラソンとなった2000年3月の名古屋国際女子マラソンで当時日本歴代4位の記録で2位に入った。01年の世界陸上エドモントン大会で銀メダルを獲得、07年の大阪大会でも銅メダルに輝いた。五輪では04年のアテネで5位に入賞し、08年の北京では右足の痛みのため25キロ付近で途中棄権した。現役時代全15レースで唯一の棄権。12年3月のレースが現役最後となった。自己最高記録は02年ロンドンでの2時間22分46秒(日本歴代10位)。私生活では04年12月、大学の先輩である村井啓一氏(松山大職員)と結婚した。現在2児を育てる傍ら、三井住友海上火災保険の「スポーツ特別社員」としてランニングイベントなどに参加する。
1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。学習院大卒。スポーツ紙記者を経て、97年よりフリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」でミズノスポーツライター賞受賞。「In His Times 中田英寿という時代」「名波浩 夢の中まで左足」「ゆだねて束ねる ザッケローニの仕事」など著作多数。「6月の軌跡」から20年後にあたる18年には「日本代表を、生きる。」(文芸春秋)を書いた。法政大スポーツ健康学部講師