肚の太い芸を 文楽人形遣いの吉田幸助さん、玉助襲名へ(もっと関西)
カルチャー
人形浄瑠璃文楽の人形遣い、吉田幸助(52)が4月文楽公演で祖父の名跡である吉田玉助を五代目として襲名する。玉助の名は江戸末期からの歴史があり、祖父の三代目は戦後を代表する人形遣いの一人。父で師匠の吉田玉幸に四代目を追贈し、玉助の名跡が53年ぶりに復活する。「まだ早いかとも思ったが、玉助という名を長く名乗り、多くの人に知ってもらえるよう精進したい」と抱負を語る。
襲名披露の演目は武田信玄と長尾(上杉)謙信の抗争を題材にした「本朝廿四孝(にじゅうしこう)」のうち「勘助住家(すみか)の段」。軍師の山本勘助の息子、横蔵を初役で勤める。三代目も襲名披露で演じ、父の玉幸も遣った。「吉田簑助師匠に襲名の相談に伺った際に勧めてもらった。やってみたいと思っていたので、ぜひにとお願いした」
不孝者として登場する横蔵は後に自らの左目をえぐって武田への忠誠を誓い、父の名を継ぐ。「いろいろな型が出てくる、型のオンパレードのような役。その中で肚(はら)(役の性根)を見せていくのが難しい」
三代目を目標に
三代目は豪快な芸で知られ、「一谷嫩(いちのたにふたば)軍記」の熊谷(くまがい)直実や「絵本太功記」の武智光秀、「菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)」の松王丸など、「文七」と呼ばれる首(かしら)を用いる力強い立役を得意とした。父の玉幸もやはり豪快な芸風を受け継いだ。
三代目が亡くなった翌年に生まれた幸助は生の舞台を見ていないが「映像の祖父は肩の力が抜け、それでいて力強い。あんな肚の太い芸を目指したい」と話す。身長約180センチメートルの幸助は大きな立役に有利だが「まだ線が細いといつも思う。体の芯からの太い力はなかなか出せない」。
1980年、14歳の時に父、玉幸に入門。幼い頃から父の舞台を劇場で見て「お客さんが少なかった客席を走り回った。遊び場みたいだった」。これといったきっかけはなかったが、中学生になるころ自然と人形遣いを志した。「しゃべらずに人形で表現するのが面白いと思った」
厳しい芸の世界。父は「おまえのような甘ちゃんは無理だ」と反対したが押し切った。入門で生活は一変。家でも敬語を使い、叱られてばかり。「家族のだんらんはなくなった」。厳しく教えられたのは基本の大切さ。若いうちは、けれん味のある役など目立つ役をやりたがるが、基本ができていなければ遠回りになる。
役の幅広げる
人形遣いの修業は足遣いから始まる。いくつもの基本の型があり、まずはこれらを覚えて正確に遣えるようにする。そうして初めて、主遣いの合図通りに足を動かせる。入門したのは、72年に始まった国立劇場研修生からの入門者が増えてきた時期で「競争が激しかった」。高卒や大卒の研修生もいて、入門年次が近くても年齢はだいぶ上。年上の人たちに負けたくないと必死で稽古に励んだ。
足遣いの時は体の大きさがあだとなり、腰を痛めたことも。左遣いでもいい役がつかず、悩んだ時期もあったが「辞めたい」とは思わなかった。めったに出ない型も積極的に覚え、自分の舞台を撮ったビデオを繰り返し見て余計な癖をなくした。徐々に主役級の左遣いを任され、近年は文楽鑑賞教室など中堅や若手中心の公演で「曽根崎心中」の徳兵衛や「夏祭浪花鑑」の団七九郎兵衛といった主役級にも抜てきされた。
文楽の次代を背負う一人だ。襲名を機にますます大きな役がつくことが期待される。若武者や色男、女形など役の幅を広げることにも意欲的だ。「襲名の時はお祝いムードだが、その後が大変。師匠や先輩が苦労して教えてくれたことを肝に銘じ、文楽の歴史の歯車として後世に伝えていきたい」と今後を見据える。
(大阪・文化担当 小国由美子)