「闘将」にみた人間の幅 星野仙一さんをしのぶ
合同自主トレではまだ慣らし運転のルーキーたちも、2月のキャンプで一流選手たちと合流すれば、プロとアマチュアのスピードの違いにさぞ面食らうことだろう。私も同志社大から中日に入った当初は「プロってすごいな」と思ったものだが、そんな印象を最初に抱かせた人が、4日に70歳で亡くなった星野仙一さんだった。
1976年のとある試合。先発した仙さんが途中でお役御免になった。よほど降板が気に入らなかったようで、鬼の形相でベンチに戻ってくるなり、湯飲み茶わんをバリンとやった。大学を出たての私からしたら、7つしか年が違わないといっても、やっていることはおっさん。「おっさんがこんなにカッカするのか。プロってすごいな」。ある意味、面白いなとも思った。「そこまでのめり込めるのか、いい年して」と。
■湯飲みが陶器からプラスチックに
このことをきっかけに、ベンチの湯飲みが陶器からプラスチックに替わった。例によって降板した仙さんがベンチの床に湯飲みをたたきつけたが、カラカラとただ転がるだけ。バリンと割れないと張り合いがないらしく「やる気なくした」と嘆いていた。
代わりにというか、ベンチのドアを蹴り上げることがあった。その翌日にふとドアを見ると蹴った痕がくっきり残っていて、そばに「○月△日 星野」と書かれている。誰かが面白半分でやったのだろう。仙さんは犯人探しはしなかった。自分の方がよほど"重罪"を犯した気持ちがあったのか、それとも名前が書かれていることに気付いていなかったのか。
仙さんで有名なのは「ヘディング事件」。珍プレーを紹介する番組で何度も取り上げられたから、ご存じの方も多いだろう。81年の後楽園球場での巨人戦、2-0で中日リードの七回2死二塁から、高く上がった飛球を遊撃・宇野勝が捕り損ねて頭部を直撃した。ボールが大きく左翼方向に跳ねる間に走者が生還。チェンジと思っていた仙さんはグラウンドにグラブをたたきつけた。
それほどまでに怒りをあらわにしたのには訳がある。巨人は前の日まで150試合以上連続で得点を挙げていた。同僚の小松辰雄と「どちらが完封で記録を止めるか」と勝負していただけに、つまらない失策で記録ストップを阻まれた悔しさが大きかったのだろう。ただ、失点をその1つのみに食い止めて完投勝利したのはさすが。試合後は、宇野を叱り飛ばすどころか「飯でも食いにいくか」。このあたりの気配りには恐れ入った。
現役時代はあふれる闘志を全身にみなぎらせ、宿敵巨人に立ち向かう「燃える男」。監督に転じてからも打倒巨人のスローガンは変わらず、強烈な個性で選手を引っ張る「闘将」のイメージを見る者に植え付けた。17年間の監督生活のうち、最も長かったのは87年から2期11年務めた中日だが、2002年から2年間の阪神監督時代の印象も強い。
中日の監督を退任し、間を置かずして縦じまのユニホームに袖を通した事実もさることながら、広島からフリーエージェント(FA)宣言した金本知憲を口説き落としたことが注目された。執拗にラブコールを送るだけなら誰でもできるが、仙さんが非凡だったのは、戦力にならないとみた選手を次々に見切り、金本獲得のための資金を確保したこと。前任の野村克也さんが地ならしをした後に、仙さんがフロントの同意の下で大胆な「血の入れ替え」を敢行したことが阪神を変えた。
中日一筋で生きてきた仙さんは、外様が監督に就く影響の大きさを考えたはずだ。そこでチーフ打撃コーチに呼んだのが、盟友で阪神OBの田淵幸一さん。「ミスタータイガース」と一緒に首脳陣に加われば、外部出身者を嫌うファンの反発を和らげられる。フロントもファンも味方につける"戦術眼"は楽天監督に転じてからも同じで、13年の日本シリーズで宿敵巨人を倒し、選手時代を含めて初の日本一に輝いたのは野球人生の集大成といえた。
鉄拳制裁に、チーム編成における剛腕と様々な顔を見せた仙さんだが、振り返るとそうした一面は氷山の一角だったのではないか、と思わずにはいられない。面倒見のよさは広く知られ、引退後も球界で食べていけるように目をかけてあげた人は数知れず。選手あがりでそこまで気が回る人はそういるものではなく、それができたのは仙さんが超一流の選手でなかったからではないか。経済人ら異なる分野の人とも交流を持ち、人間の幅を広げようとする見えない努力が星野仙一という人をつくったのだと思う。
私は97年に亡くなった仙さんの奥様、扶沙子さんともお付き合いがあった。秋田の乳頭温泉郷に高い効能で知られる温泉があり、湯治にいくグループでご一緒させていただいたとき、こう言われた。「田尾くん、お金なんかいくらあっても、なんにも変わらないよ」。幅広い人脈を持った仙さんの家は、人が来ない日はないほど千客万来だった。03年に阪神が18年ぶりのリーグ優勝を果たした際、仙さんが甲子園のお立ち台で「あー、しんどかった」と言ったが、家族水入らずの時間がほとんど持てなかったことで、扶沙子さんもしんどい思いをされたのだろう。闘将の奥さんも闘っていたのだ。
■「アクもあるからおいしいんだ」
明大時代に小競り合いから相手チームの選手を追いかけ回すなど、早くから奔放な言動で耳目を集めてきた仙さん。17年12月に大阪で開かれた殿堂入りの記念パーティーでお目にかかったのが最後になるとは、夢にも思わなかった。生前のエピソードには事欠かないが、最後にもう一つ。鍋でも囲んでいたときだったろうか、雑炊をつくる段になって仙さんが言った。「アクは取るなよ。アクもあるからおいしいんだ」。アクの塊である仙さんがいかにも言いそうなことで、思い返すとおかしくもあり、寂しくもあり……。
長嶋茂雄さんや王貞治さんという特別な人とはまた違った魅力と存在感があった仙さん。今ごろは天国で奥様と夫婦水入らずの時間を過ごしているだろう。心よりご冥福をお祈りします。
(野球評論家 田尾安志)