星になった歌巫女、本田美奈子 メモリアル・コンサートでしのぶ
11月3日「文化の日」。東京・三越前に開いたばかりのコレド室町「日本橋三井ホール」で、「2010LIVE FOR LIFE音楽彩」を聴いた。
2005年11月6日、急性骨髄性白血病で38歳の人生を終えた歌手・女優の本田美奈子さんをしのぶ催し(メモリアル・コンサート)で、今年が3回め。LIVE FOR LIFEは「生きるために生きる」をモットーに病と闘った美奈子さんの遺志をくみ、マネジャーの高杉敬二さんらが立ち上げた認定特定非営利活動法人(服部克久理事長)の名称であり、音楽を通じ、病気や障害を持つ人々にエールを送ってきた。
トリを務めた演歌歌手の坂本冬美さんは「昭和42年(1967年)生まれの同い年。レコード会社の担当も偶然に同じ人だった」ため、互いのコンサートをたびたび訪ね、終演後は晩ご飯も一緒にするほど緊密な間柄だったという。他の出演者と同じく「画面の中の美奈子さんは永遠に若く輝いているけど、私たちは年齢相応に変化している」と語りつつ、「また君に恋してる」などの持ち歌を披露。最後に「美奈子さんが妹の結婚式にサプライズ・プレゼントとして作詞作曲した」という曲、「あなたとI love you」を感動的に歌い上げた。
美奈子さんが亡くなり、5年も過ぎたとは信じられない。私が最初に会ったのは日本コロムビアでクラシックのファースト・アルバムをリリースした03年。ドイツ駐在の任期を終え帰国した92年、東京・日比谷の帝国劇場でミュージカル「ミス・サイゴン」をみて、美奈子さんの歌と演技にノックアウトされて以来、インタビューは夢だった。帝劇には東京芸術大学で声楽を修めた年配の女性と一緒に出かけたが、最初は「発声が悪いわ」などと欠点をあげつらっていた同じ人が、最後は感動の涙で言葉を失った。美奈子さんの歌と演技は体の奥底から激しく絞り出され、ドイツ語で「Phaenomenal!(フェノメナール)」と形容すべき、全体を1つの大きな現象に巻き込む巫女(みこ)のような霊力を備えていた。
「どんなすごい女性か」と身構えていたら、華奢(きゃしゃ)で透明な少女?の出現に驚いた。「よろしくお願いしま~す」と深く頭を下げ、質問にも「はいっ!」と大声で答える。「もっと楽に」と言うと、「アイドル時代の"しつけ"が全身に染みついていて、抜けないんです、はいっ!」とまた、元気な声が返ってくる。だが発言の中身は真摯(しんし)で、たぐいまれな高音の美しさをクラシック系の発声により、さらに伸ばそうと鍛える覚悟は本物だった。
04年12月4日。私は美奈子さんと生涯でたった1度、同じ舞台に立った。東京・三鷹市芸術文化センター「風のホール」で、私も企画に携わっていたシリーズの「アーリー・クリスマス・コンサート」に、美奈子さんを招いたのだ。クラシック系の持ち歌をCDと同じ編曲ではなく、オペラの作曲家・指揮者の神田慶一さんと美奈子さん、私の3人で1から作り直す準備作業に費やした数カ月は、本当に楽しかった。ただ美奈子さんの顔色はさえず「風邪をこじらせ微熱が下がらないんです。自己管理ができず、申し訳ありません」と頭を下げた。控室でストレッチ体操を繰り返し、調子を整えようと努める姿を今も思い出す。
コンサートは成功した。「楽しい企画、ありがとうございました。また御一緒したいです」と書かれたはがきが届いた直後の05年1月、美奈子さんの厳しい入院生活は始まった。「ありがとう」が口癖の「歌巫女」は天に召されたが、音楽彩のアンコールに美奈子さんの日本語訳の「アメイジング・グレイス」を舞台と客席で斉唱するうち、星になった美奈子さんが今日も空から、私たちの心に生きる希望の光を送り続けている気がしてきた。
(編集委員 池田卓夫)