今年デビュー50周年を迎えた。シンガー・ソングライター伊勢正三(69)。「神田川」が大ヒットした、かぐや姫メンバーだけではなく、誰もが知る「なごり雪」「22才の別れ」の作者としても、日本の音楽シーンに金字塔を残す。周年を機に、2枚組のベスト盤に加えて、4枚組のライブベスト盤「THE 伊勢正三」もリリースした。一夜にして風景が変わったかぐや姫時代から、サウンド志向になった80~90年代、そして、風の相方の大久保一久さんの訃報まで、50年間の音楽人生を語った。【取材・竹村章】

★71年大分県で

かぐや姫には第1期と2期がある。伊勢は高校の先輩である南こうせつに誘われ、第2期から参加。71年9月25日にシングル「青春」で再デビューした。伊勢の音楽人生はここから始まった。

「高校入学後、応援団に入れられそうになり、音楽部に入ってしまったんです。軽音楽ではなく合唱部ですよ。2学年上に、歌のうまい黒ぶちメガネの先輩がいて、歓迎してくれました。こうせつさんはみんなの前で歌っていて、いつも人が集まっていた。クラブ後にフォークをやることになって、ボーカルはこうせつさん。ギターを僕が弾くことに。この瞬間から人生が変わりました」

★名曲翌日また

かぐや姫でデビューした時、伊勢はまだ19歳。「事務所やスタッフ、レコード会社から、ただただ言われることに、ただただ従うだけでした」。

4枚目シングル「僕の胸でおやすみ」が73年7月に発売され、5枚目シングルが同年9月リリース。「神田川」だ。ミリオンセラーとなり、瞬く間にスーパーグループに押し上げる。グループ名は「南こうせつとかぐや姫」だったが、74年1月発売の6枚目シングル「赤ちょうちん」から、南こうせつという枕ことばが外れる。そして、同年3月にアルバム「三階建の詩」が発売された。かぐや姫は3人組という強調のほか、印税も3等分しようと、3人で曲作りにいそしむことになった。このアルバムで伊勢が作ったのが「なごり雪」と「22才の別れ」だった。

「かぐや姫がステップアップするには、3人が曲を作らないとと言われて。僕はチャンスだと思いましたね。えてしてヒット曲が生まれる時って、舞い降りてくるみたいに言われますけど、まさに僕の時も奇跡でした。『なごり雪』ができた翌日には『22才の別れ』ができたんですから」

「三階建の詩」はオリコンのアルバムランキング1位となったが、この2曲にスポットが当たるにはまだ時間が必要だった。75年11月にイルカが「なごり雪」をカバーし、大ヒットを飛ばす。イルカの担当プロデューサーから依頼され、すぐに承諾した。かぐや姫は「なごり雪」をシングルカットしていないが、伊勢はヒットしたことの方がうれしかったという。それはアーティストとしてより、クリエーターとしての喜びが先行していた。02年には、大林宣彦監督によって「なごり雪」が映画化され、伊勢は原案に名前を連ねている。

「映画化されたあたりから『なごり雪』の作者として認識されてきたかな。イルカが頑張ってくれたから、ここまで、きたんだと思う。誰かに聞いたんですが、一番カバーされている曲なんですって。それもまたうれしい。映画化のときも、大林監督から連絡が入って、挿入歌か何かで使われるくらいでいたんです。そしたら、なごり雪を映画にするっていうんで、びっくりした記憶があります。でも、この曲は映画を作るような感覚で作りました。どこかの景色からカメラをパーンして、主人公の2人を撮り、そして、どうフレームアウトするのかを考えながら作りました」

★ファンありき

50周年記念で、かぐや姫時代のレコード会社、日本クラウンから2枚組ベスト盤「伊勢正三の世界~PANAMレーベルの時代~」を、そして現在所属するフォーライフからは4枚組のライブベスト盤「THE 伊勢正三」を発売した。ライブ盤は全60曲のうち54曲が未発表。かぐや姫、風、ソロとしての各年代のライブから自ら選曲した。

「自分が年齢を重ねていって、変わっていくのがライブ。僕の場合はギターも弾くので、ライブを選びました。この年になるとファンが何を求めているのかがわかる。僕が尊敬する、何をやっても上手なセンチメンタル・シティ・ロマンスの告井(延隆)さんは、みんなが聞きたい曲がやりたい歌だよって、言ってまして。僕も本当にそうだと思う」

ライブ音源といっても多種多様だ。70年代の音源はオープンリールで、古いテープは1度、お湯でゆでて乾燥させる必要があるという。しかし、77年に風が日本武道館で行ったライブ音源は、スタッフが奔走してやっと探し出したものの、ノイズがひどくて使える状態ではなかった。それでも諦めきれず、見つけ出したのがカセットテープ。今回のライブ盤では「君と歩いた青春」や「なごり雪」などは、このカセットの音源を使用した。

「ライブはその瞬間を録音するものだから、音さえよければカセットでもよかった。でも、貴重なカセットだよね。リストには全部会場名も入れているし、MCも入っているので、その時のことを覚えているファンの方もいると思う」

★’75つま恋から

50年だけにライブ音源も膨大だ。「なごり雪」も「22才の別れ」も、50年近く歌ってきただけに、セレクトも苦労したという。

「自分の中で基準を決めました。歌の出来としてはもっといいのがあるけど、『22才の別れ』は、75年のつま恋コンサートを選びました。初めて、風として歌ったスペシャル感、初々しさは、ほかと比べようがありません。もっと安定しているパフォーマンスもあるんですけれども」

伊勢本人もライナーノーツに書いているが、風の後期あたりから、サウンドにこだわった時期もあった。フォークからロックへ。76年の「ほおづえをつく女」あたりからアコギからエレキになった。

「東京になじみすぎたというか、大分の歴史より東京の方が長くなった。田舎には帰りたくないと。アメリカに渡り、ロスでレコーディングしたのもこの頃です。音楽評論家にサウンド志向だと言われましたね。でも、こうやって50年を振り返ると、その時期はライブでは難しい曲もやってきたので、それはエネルギーもいることだし、自分でも頑張ってきた歴史。こういう曲を僕が歌いたかったということを分かってもらえればうれしいですね」

★もめごと皆無

最後に、盟友の死にも触れねばならない。風でコンビを組んだ大久保一久さんが今年9月、71歳で亡くなった。08年には2人でツアーを回る計画だったが、その前に大久保さんが倒れ、闘病生活に入り、ツアーは中止された。

「彼が亡くなった時、風のビデオをたまたま見ていたんです。虫の知らせっていうんですかね。明るい人で、ギターが好きで、もめたことは1度もなかった。いつも『いいね正ヤン』と言ってくれる、やさしい人でした」

しんみりしてしまったがこうも続けた。

「ファンの前で歌うのが僕の原点。いつでも、みなさんをあーっと、驚かす曲を作りたいと思っています」

50年を超え、クリエーター伊勢正三の進化は続く。

▼フォーク仲間の松山千春(65)

デビュー前「フォークコンテスト」に出場した時、審査員の1人で、俺にとっての恩師でもあるSTVラジオの竹田健二ディレクターから「他の人の曲を歌って」と言われた時、とっさに「22才の別れ」を歌ったこと。その後、デビュー前に札幌のすすきので偶然に出会って一緒に飲んだこと。さらに奄美大島の日本復帰60周年、東日本大震災では岩手、宮城でチャリティーコンサートを行ったことなど、いろいろな場面でご一緒させていただきました。俺も正やんの髪のようになりたかった(笑い)。そんな正やんが50周年。俺にとっては、いつまでも尊敬する先輩です。これからも元気に歌い続けてください。

◆伊勢正三(いせ・しょうぞう)

1951年(昭26)11月13日、大分県津久見市生まれ。71年、南こうせつとかぐや姫を結成し、75年に解散。同年、大久保一久さんと風を結成し、デビュー曲「22才の別れ」はミリオンセラーになる。風は約4年の活動でシングル6枚、オリジナルアルバム5枚を発売。その後はソロで活動。93年には「ほんの短い夏」がヒット。代表曲に「海岸通」「ささやかなこの人生」「君と歩いた青春」など。太田裕美、大野真澄とのユニット「なごみーず」でも全国を回る。

◆THE 伊勢正三

かぐや姫、風、ソロの各時代のライブから未発表の音源を中心とした4枚組ライブベスト盤。フォーライフから発売。「なごり雪」は75年のつま恋と77年の武道館公演の2曲を収録。また、大久保一久さんとのユニット風の未発表ライブ音源も収録している。

(2021年10月31日本紙掲載)