2003年12月28日、母ミヨシさん=失踪(しっそう)当時(46)=の72回目の誕生(たんじょう)日。曽我(そが)ひとみさん(44)は、ささやかなプレゼントを用意し、自宅(じたく)で一人静かに母の誕生日を祝った。

 中身は(だれ)にも教えなかった。母はどこかで生きている-。そう信じ続けることの証しでもあった。

 2カ月前、旧佐和田町で「ミヨシさんたちを救出する全島集会」が開かれた。ひとみさんが強く希望した。「来てくれっちゃ」。自らあちこちに参加を()()けた。

 開場前、入り口にはたくさんの人が列を作った。会場に到着(とうちゃく)したひとみさんは、それを見て歩み寄った。「(みな)さん、今日はわざわざ来てくれてありがとう」。ハンドマイクを(にぎ)り、感謝の気持ちを伝えた。

 集会では、母への思いを切々と(うった)えた。「仕事から帰ってくると、夜はざるを編む内職をしながら、苦労の中で(わたし)と妹を育ててくれました」。時折、声を()まらせた。

 「私には、母の油の(にお)いが(わす)れられません」。満員に()まった会場のあちこちから、すすり泣く声があふれた。

親孝行したくてもできぬ、もどかしさ


 ミヨシさんは、中学卒業後に就職(しゅうしょく)(しげる)さんを婿(むこ)(むか)え、ひとみさん、富美子(とみこ)さんをもうけた。

 セメント工場で働き、家計を支えた。油を型枠(かたわく)()り、コンクリートを流してセメント管を造る作業をしていた。ひとみさんが話した油の匂いは、この仕事で付いたもの。その匂いの記憶(きおく)は今も働き者の母の面影をよみがえらせる。

 職場で同じ(はん)作業をしていた羽生(はにゅう)英子(えいこ)さん(60)は、いつも昼食を一緒(いっしょ)にとった。ミヨシさんはキュウリを持ってきて「みそつけて食うとうめえしの。食えっちゃ、食えっちゃ」と(すす)めた。羽生さんは「気のいい人だった」と(なつ)かしむ。

 きつい仕事をしながらも、(むすめ)のことをいつも気にかけていた。病院勤務(きんむ)2年目の4月、新しい職場に配属されたひとみさんに、そっと地元で採れたサトイモ「八幡(やはた)イモ」を手渡(てわた)した。

 「これ、母からですって、ひとみちゃんから渡されてね。会ったことはなかったけど、さりげない気配りのできる人だと思った」。同僚(どうりょう)看護(かんご)師の一人は()り返る。

 一方で、ひとみさんを誰よりも(たよ)りにしていた。近所には「ひとみが看護(かんご)師の資格を取ったので、少しは身が軽くなる」と、何度もうれしそうに話していた。

 1978年8月12日の午後5時すぎ。仕事を終えたミヨシさんは「明日は日曜だし、ゆっくりお(ぼん)がやれるな」と羽生さんに話し、自宅(じたく)へ帰った。数時間後、母と娘は北朝鮮(ちょうせん)拉致(らち)された。

 ひとみさんが、成人式を(むか)える日も近づいていた。しかし、2人が人生の大きな節目を、一緒(いっしょ)に喜び合うことはできなかった。

【写真】「全島集会」でスクリーンに映し出された母ミヨシさんを背に、行方不明の母への思いを語る曽我ひとみさん=2003年10月、旧佐和田町
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  旧真野町の曽我家の裏手(うらて)にある大願寺(だいがんじ)敷地(しきち)の一角に立つ地蔵(じぞう)堂に、「祈願(きがん) 曽我ミヨシ」と背中(せなか)に書かれた、小さな地蔵が置かれている。住職の母臼木(うすき)綾子(あやこ)さん(74)がひとみさんの帰国後、ミヨシさんの無事を願って作った。「必ず姿(すがた)をみせてくださいねと、時々声をかけています」

 ひとみさんは「1時間でも、30分でも、母に何か親孝行(おやこうこう)をしてあげたい。そんな平凡(へいぼん)で、当たり前のことが、したくてもできない」ともどかしさに()える。

 父(しげる)さん(72)も気持ちは同じだ。「おれは母さん(もど)ってこんと、だちかんわさ(駄目(だめ)だ)。生きていると信じとる」

 みんな、ミヨシさんが帰る日を待ち続けている。

 (2004年3月8日掲載、年齢は掲載当時)


 ※小学5年生までに習っていない漢字を含む単語や難解な言葉、固有名詞の初出にルビをふっています。