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山口 ニューヨーク・タイムズ“世界で行くべき52か所”に選出 山口市はなぜ"西の京"に?

”西の京”とその礎を築いた大内氏の謎に迫ります。
  • 2024年04月23日

山口市がなぜ”西の京”と呼ばれているかご存じですか?
謎を解くカギとなるのが室町時代、山口県を治めた守護大名・大内氏
知っているようで意外と知らない”西の京”の歴史を徹底取材しました。
(NHK山口放送局 ディレクター 青沼太郎)

大内氏はなぜ山口市に”西の京”を築いたのか。
その謎を解くためにまずやってきたのは国宝、瑠璃光寺五重塔。実はこの五重塔、”西の京”の礎を築いたある人物と深い関わりがあるといいます。

”西の京”の成り立ちを探るため今回、特別に塔の内部に潜入させてもらいました。

五重塔の内部

塔の中心を貫くのが心柱(しんばしら)。
そして、心柱の両脇には花が供えられています。一体なぜなのか。

(瑠璃光寺 渡邉博志 住職)
「実は大内義弘公のお墓なんです」

第25代当主 大内義弘(1356~1399)

この五重塔、25代当主、義弘(よしひろ)の菩提を弔うために建てられたと伝えられています。義弘は時の将軍、足利義満の信頼を得て豊前や和泉、紀伊にまでその領地を広げました。

義弘の父・弘世(?~1380)

さらに義弘の父、弘世(ひろよ)は、政治・軍事ともにピカイチの実力派
南北朝の動乱に乗じて周防・長門両国を統一し、今の山口に拠点を置いたのも弘世の代と言われています。

領地の拡大に伴い、親子は、幕府との交渉のため度々上洛。
その中で、京都のみやびな文化に感銘を受け、山口市で京風の町づくりを始めたとされています。

なぜ、山口市に”西の京”を作ったのか?

京都とのつながりを築く中で、次第にその文化を吸収していった大内氏。
でもなぜ、山口盆地に”西の京”を作ろうとしたのでしょうか。

その理由を探るため、やってきたのは中心部の商店街です。
大内氏の時代から市場として栄えていたこの場所で発掘調査をしたところ、驚きの発見があったといいます。

出土した魚の骨

出土したのはタイやイサキ、サザエといった海産物の骨や貝の殻。
室町時代、この場所は相物小路(あいものしょうじ)と呼ばれていました。現代風にいうと「お魚横丁」です。 

内陸の山口市に海産物が集まっていた理由こそ、大内氏が山口市に西の京を築いた謎を解き明かすヒントとなるのです。

山口市は日本海に向かう萩街道、石見国に通じる石州街道、そして朝鮮半島との貿易港につながる肥中(ひじゅう)街道と複数の街道が交わる交通の要衝でした。街道だけでなく、瀬戸内海に通じる椹野川(ふしのがわ)も流れていることから水運も発達していました。

大内氏は山口市が西日本各地を結ぶ一大物流拠点になると見定めていたのです。

さらに、山口市は京都と同じく、山あいに開けた扇状地
一の坂川沿いに平坦な地形が広がり、町作りに適していました。

大内氏は一の坂川を京の鴨川に見立て、碁盤の目状に道を整備。中心に自身の館を置き、神社・仏閣、市場などを区割りしました。
”西の京”山口は大内氏の緻密な都市計画のもとで、選び抜かれた土地だったのです。

中世最大の”接待”で出世街道を駆け上がる大内氏!

イラスト提供:山口市

山口市のポテンシャルを見抜き、”西の京”を築いた大内氏。
そこから、巧みな政治戦略で、さらなる栄華をもたらした人がいます。

第30代当主 大内義興(1477~1528)

30代当主の義興(よしおき)です。朝廷から武家として最高峰の位、従三位(じゅさんみ)を授けられるほどの権力を誇りました。

なぜ義興は異例の大出世を遂げたのか。その秘密を知るために向かったのは湯田温泉の老舗旅館です。

次々に出てきたのは、義興が開いたという大宴会のフルコース。
物流拠点 ”西の京”の地の利をいかし、海産物から山の幸までふんだんに使った料理はなんと100品以上!しかもこの料理、あるひとりの人物をもてなすために作られたといいます。

(山口市教育委員会 文化財保護課 北島大輔さん)
「”明応九年三月五日 将軍御成雑掌注文”(おなりざっしょうちゅうもん)という文献記録に書かれた料理を再現したものになります」

義興がフルコースでもてなしたのは室町幕府の前将軍、足利義稙(よしたね)です。
当時、義稙は家督争いに敗れ京を追われた身でした。

1508年、義興は足利義稙を旗頭に西日本各地の武将をまとめあげ、大軍を率いて上洛。
敵対する将軍を追い出し、義稙を将軍職に返り咲かせます。

義興はその後10年に渡って京都に滞在。幕府の実権を握るだけでなく、幕府が持っていた中国・明との貿易の権利をすべて譲り受けることに成功しました。

 "西の京”から世界へ!

貿易の権利を得てその権力を強固なものにした大内氏。そのまなざしは世界に向けられていました。その壮大な世界戦略が垣間見えると聞きやってきたのは山口市中心部の北西に位置する中尾地区です。

山道をどんどん進んでいくと・・・。

目の前に現れたのは巨大な石垣です。

ここは2009年に調査が始まったばかりの大内氏の建築物の遺構で、敷地はおよそ37000平方メートルにも及びます。そのうち、発掘が進んだのはわずか3%だけという謎に包まれた巨大遺跡。ですが、最新の発掘成果から遺跡の正体に有力な仮説が立てられたといいます。

発掘されたのは(せん)と呼ばれる瓦の一種。禅宗の寺で床に敷き詰め、タイルとして使います。さらに、敷地のあちこちから大内氏の家紋が入った屋根瓦も見つかりました。

資料提供:山口市教育委員会

つまり、この巨大遺跡は、大内氏が建てた禅寺だったと考えられているんです。

(山口市教育委員会 文化財保護課 吉村慎太郎さん)
「この禅寺というのが、大内氏と海外とのつながりに重要な意味を持っているものになります。禅宗のお坊さんというのは、昔の外交官みたいなもので、外国語も話せるし、昔のエリートみたいな。」

実はこの禅寺、”西の京”にとって重要な街道沿いにありました。

現在の下関市豊北町まで続く肥中(ひじゅう)街道です。肥中は大陸に近く、海外貿易が盛んに行われた港でした。
外交官の役割を担う中国や日本の禅僧はこの肥中街道を通って、”西の京” 山口にやってきたのです。

(吉村さん)
「海外から人とか物の流通があるかと思うのですけれども、そういった人に大内氏の権力を見せるためのひとつであったかもしれない」

実際にこの禅寺からは中国由来の陶磁器も出土。
当時、中国・明との貿易は莫大な富をもたらす”打ち出の小づち”でした。

大内氏は海外貿易に持てる力を注ぎこみ、そのまなざしは中国朝鮮、そしてはるかヨーロッパまで向けられます。西の京は世界とつながり、もたらされる富によって、かつてない栄華を極めたのです。

受け継がれてきた”西の京”  いま世界へ

しかし、時は戦国の乱世。栄華を誇った大内氏も歴史の荒波に飲まれてゆきます。

第31代当主 大内義隆(1507~1551)

1551年、31代当主・義隆(よしたか)は、毛利氏と密かに手を結んだ家臣たちの裏切りに遭います。長門に逃れましたが、追い詰められ、自害。大内氏は事実上の滅亡を迎えます。

住民が出した嘆願書

大内氏滅亡後、山口市は毛利氏の支配下に置かれ、西の京のシンボル、五重塔は、毛利氏の拠点である萩に移されることになりました。
しかし、ここで”西の京”の住民たちが立ち上がります。「五重塔は大内公の墓所でございます。どうか山口にお残し下さい」大内氏を強く慕う民の心が、塔を創建の地に留めたのです。

1月、ニューヨーク・タイムズの「2024年に行くべき52か所」に選ばれた山口市。
大内氏が築き、守られてきた”西の京”は今、再び世界へ羽ばたこうとしています。

  • 青沼太郎

    NHK山口放送局 ディレクター

    青沼太郎

    2020年入局
    大学では日本史を専攻。
    卒論のテーマは”長篠の戦い”

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