野中広務とは
何者だったのか

4月14日、自民党の元衆議院議員の故・野中広務氏のお別れの会が京都市で営まれ、与野党の政界関係者など、およそ3000人が別れを惜しみました。党の幹事長や官房長官などを歴任し、「政界の狙撃手」の異名でも呼ばれた野中氏ですが、みずからの戦争体験から一貫して反戦を訴え、弱者に対するまなざしを大切にする政治家としても知られました。生前、親交のあった政界関係者の証言をもとに、野中氏の実像に迫ります。
(政治部記者・根本幸太郎、川田浩気、NW9ディレクター・大藪謙介)

非情なる剛腕と、平和への道と

ことし1月に亡くなった野中広務氏。

加藤紘一氏らが、森総理大臣の退陣を求めて内閣不信任決議案に同調しようとした、いわゆる「加藤の乱」で、党幹事長として、同調者の切り崩しにあたるなど、その「剛腕」に印象が残っている方も多いと思います。
「加藤の乱」でともに対応にあたった、自民党の古賀誠元幹事長は、「総理大臣にしたい」とまで、一時公言していた加藤氏に対し、政権を守るため、非情に徹する野中氏の姿が印象に残ると言います。

「野党の提出する不信任案に与党が賛成するのは憲政の常道に反するだけでなく、人間の道として許すことはできないと。これが野中先生と私の基本的な姿勢だった。野中先生は、権力闘争での怖さと優しさの両面を持った人間的に魅力のある政治家だった。ただ、平和、平和と言うだけでなく、あるときは権力闘争も先頭に立ち、真っ正面から向き合っていた」

レイテのスコール

一方で、古賀氏には、野中氏の情に触れた忘れられない思い出があります。それは、古賀氏の父・辰一さんが、先の大戦で戦死したフィリピンのレイテ島の訪問です。

「私自身は父親の顔も知らない中で、父親が亡くなった場所を訪ねることに不安感があった。ただ、野中先生は『魂を迎えに行けよ。お父さんは迎えに来るのを待っているんじゃないか』と。『国民を代表して平和を発信していかなきゃいけないんだから戦地を訪ねて自分の決意を新たにするのは大事だ』と激励されて、私も決意した」

訪問には、野中氏も同行しました。父・辰一さんの所属する部隊が全滅した場所に到着し、古賀氏が、手を合わせようとした瞬間、快晴から一転し、スコールが降り出します。

「野中先生は『ほら、良かっただろう』と。『父親が喜んでいるんだ。息子が魂を迎えに来てくれたことへの嬉し涙だ』と言っていたことを覚えている。私もレイテ島に行って平和への思いは重くなったと感じている。私の政治活動の中で平和に対する節目を作ってもらったことに感謝の気持ちだ」

野中氏の政界引退後も交流を続けてきた古賀氏。野中氏は、平和への警鐘を幾度となく鳴らしていたと言います。

「会ったら必ず、『怖い方向にいっている』とか『これからどうなるんだ日本は』と言っていた。だんだん戦争を知る人も減る中で、平和に対する不安と心配が多かった。『戦争を知らない世代が多くなった。昭和が遠くなる』と。会話の流れの中で、常に平和があった。その根っこには、日本の国と国民に対して限りない愛情を持っていた」

総理への直言と、見事な撤回

新党大地の鈴木宗男代表は、野中官房長官時代に官房副長官を務めるなど、野中氏の間近で仕事をしてきました。鈴木氏にとって忘れられないのが、小渕総理大臣と、官房長官だった野中氏との昼食です。当時、世間では、小渕総理大臣が誰かれとなく気さくに電話をかける、いわゆる「ブッチホン」が話題を集めていました。

「官邸の小食堂で、総理、官房長官、官房副長官で打ち合わせをしながら食事をするんですが、ある時、野中先生が総理に言ったんです。『総理、総理大臣になるまでは誰に電話しても結構だ。しかし、財界人の中には、総理からしょっちゅう電話をもらうと言って、自分の立ち位置を良くしようとする人もいる。総理になった以上、どうぞ、電話をかける相手は選択されてはいかがか』と」

野中氏が意を決して話をしていると感じた鈴木氏は成り行きを見守ります。小渕総理大臣は、これに反論したといいます。

「総理は、『官房長官の親切はよくわかる。しかし、俺はこの電話で、中曽根康弘、福田赳夫両氏と選挙で伍してきた。小渕恵三から、電話をとると、小渕恵三ではない』と毅然と言われた。野中先生は、すっくと立ち上がって45度で頭を下げた。『そこまでの心構えとお考えであれば何も心配することはない。撤回させて頂く』と。これまた見事にもう1回、頭を下げた」

鈴木氏は、食事を終えて、食堂を出る際、小渕総理大臣にかけよりました。本心が気になったからです。

「総理は『鈴木君。君たちの役割は、耳あたりのいい話はいらないんだ。嫌な話を持ってくるのが君たちの仕事だ。さっきの官房長官の話はいい話だった』と言われた。私は、小渕総理大臣も大したもんだと」

鈴木氏は、上司であっても、はっきりものを言う野中氏の姿にすごみを感じたと言います。

「『相手が誰であっても信念を持ってはっきりとものを言え』ということを教えられたと思う。はっきりものを言えば『言い過ぎだ』、『分をわきまえていない』という話にもなりがちだが、国益や公のことに関しては、礼を持って、ものを言うことの重要性や重みを教えられた」

「悪魔にひれ伏しても」やるべきこと

公明党元代表の神崎武法氏は、平成11年、公明党が自民党との連立政権に参加する過程で野中氏と向き合いました。当時、野中氏が政権側の窓口となって交渉を一手に引き受けていました。ただ、公明党内には連立政権への参加には慎重論もありました。そこで、野中氏は、かつて激しく対立した自由党党首の小沢一郎氏に、「悪魔にひれ伏してでも」と、連立政権入りを呼びかけたのです。

「公明党は、それまで反自民でずっと戦ってきていたので、いきなり自公連立政権という訳にはいかず、『まずワンクッションいれてほしい』と要請した。野中さんは、1年かかったが、自由党との連立を実現し、『約束通り、ワンクッション置いたからぜひ連立を』という話を持ってきた」

神崎氏は、その後、小渕総理大臣、野中氏と非公式の会食などを重ねます。その中で、野中氏の強い思いを感じ、決断したといいます。

「当初、閣外協力から出発して、お互いに話し合いができるようになってから閣内に入るかという気分でいたが、会食の時、『閣内に入って日本の将来のためにしっかり組んでやりたい』という思いを話された。そこまで思いを持っているならば、真っ正面から受け止めて閣内で協力しようと判断した。自公連立政権の産みの親だ」

野中氏からは、社会的な弱者へのあたたかいまなざしを感じたといいます。

「野中さんと話して感じたのは、戦争を二度と繰り返してはならないということと、被害を与えた中国との関係を改善しなければならないという熱い思い。そして、日本で一番被害を受けた沖縄を応援しようという思いを感じた。自民党だけでなく、日本政治全体のこともよく考えていた」。

その3日間には、会えない

野中氏は、その政治姿勢から、与野党問わず、幅広い政治家にファンがいたことで知られています。現在、兵庫県宝塚市長を務める中川智子氏は、社民党の衆議院議員時代から親交のあった1人です。平成9年に、野中氏が、衆議院本会議での委員長報告で、「大政翼賛会にならないよう若いみなさんにお願いしたい」と呼びかけたのがきっかけでした。

「感動のあまり、矢も盾もたまらず、野中事務所に走った。ちょうど野中さんも自室にいて会うことができた。『今日の野中さんの発言に涙が出た。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった』と話した」

当時、社民党の1年生議員だった中川氏は、その夜、議員宿舎に帰って驚きます。野中氏から、「これから困ったことがあったら何でも相談しなさい」というメッセージと、携帯電話の番号が書かれたメモが、郵便受けに入っていたのです。

それから、野中氏は、ハンセン病や、薬害ヤコブ病をめぐる問題などで、中川氏の活動に党派を超えて、力を貸したといいます。

「私が、いつも『手伝ってもらってばかりですいません』と言うと、『君は、票にもお金にもならないことに必死で取り組んでいる。本来政治家はそうあるべきだ。政治の光が当たらなければならない人を助ける議員が少なすぎる』と。『君を手伝うことは大事な仕事だと思っている』と言ってくれた」

野中氏が政界を引退した後も交流は続き、1年に数回は会って食事をしながら意見交換していた中川氏。1年に3日だけ、どうしても野中氏と会えない日がありました。野中氏が自治大臣・国家公安委員長として対応にあたった阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と、JR福知山線の脱線事故が起きた日でした。
「野中さんは、『必死だったが救えなかった命はある。体が動かなくなるまで、この3日は欠かさず、お参りすると決めている』と。生涯を貫き、自分が関わったことを忘れずに亡くなった人たちと向き合う。自分に対して非常に厳しい方だった」

さらに知りたい

「野中先生に関するインタビューならばいくらでも応じる」。今回、取材した多くの政界関係者は、生前の野中氏を、生き生きと語ってくれました。取材を通して、1人1人を大切にする野中氏のあたたかさと、自分をも追い込む厳しい姿を感じ取ることができました。
一方で、地方議員から激しい権力闘争を勝ち抜き、一時は「影の総理」とも言われるまでになった野中氏のすべての姿を捉えることができたとは言えず、さらに知りたくなりました。

まもなく「ポスト平成」時代を迎える中、激動の平成政治史に、その名を刻む野中氏の足跡は、これからの政治の場面で、さまざまな視座を示してくれるのではないかと思っています。

政治部記者
根本 幸太郎
平成20年入局。水戸局から政治部。趣味は、ロックミュージック。
政治部記者
川田 浩気
平成18年入局 。沖縄局、国際部を経て政治部へ 。現在、自民党政務調査会などを担当。
政経・国際番組部 ディレクター
大藪 謙介
平成20年入局。名古屋局を経て、政経国際番組部。現在は主に「ニュースウオッチ9」などで企画・制作を担当。