長崎あん時ものがたり~市民に愛された長崎市公会堂~
- 2023年06月12日
これまでNHKに保存されてきた映像を紹介する「長崎あん時ものがたり」。
今回は、長崎市の方には特になじみが深い場所、1962年(昭和37年)6月に開館した「長崎市公会堂」のあん時を振り返ります。
NHK長崎放送局 森下 拓磨
1962年6月 長崎市公会堂開館
1962年6月2日に長崎外国語短期大学の跡地に開館した長崎市公会堂。
初代の公会堂は栄町付近にありましたが、原爆により焼失し、復興を目的に国内外から寄付を募り再建されました。
収容定員1922人は当時県内で最大のホールで、さまざまなイベントの会場として利用されるなど、市民にとってとても身近な場所でした。
開館以来 幅広い世代に親しまれた
公会堂の記憶を映像で辿る
1982年に開催された県民音楽祭。
長崎が舞台となったオペラ「蝶々夫人」の初公演のようすです。
公会堂は演劇や踊り、コンサート、さらに長崎市内の子供たちにとっては音楽会などの舞台を経験する場所にもなっていて、幅広い世代の市民に親しまれました。
公会堂は開館以降、長崎市の成人式の会場としても使われてきました。
平成元年の成人式には長崎出身のシンガーソングライターさだまさしさんの姿も。
長崎市民は、この場所から成人としての第一歩を踏み出しました。
公会堂前の広場は長崎伝統の秋祭り、長崎くんちの奉納踊り会場のひとつでした。
期間中は「さじき席」が組まれ、踊り町による演し物(だしもの)が披露されるなど、盛り上がりを見せました。
長年市民に愛された長崎市公会堂は2015年、施設の老朽化などを理由に53年の歴史に幕を下ろします。
新庁舎に残る「クスノキ」
いま、公会堂の跡地である
長崎市役所新庁舎には、公会堂が建っていたころの面影はありません。
ただ唯一、あの時と同じ場所に残るものがあります。
1本のクスノキです。
このクスノキに強い思い入れがある人がいます。
峰 允男さん、83歳。
公会堂の開館当時、クスノキを寄贈したのが峰さんの義理の父親でした。
峰さん
「私の土地の中に、このクスノキが立っていました。それを公会堂が完成するときに“記念樹”という形で寄贈したという話を義理の父から聞いています」
峰さんにとってこのクスノキは、今年亡くなった妻の一子さんとの思い出が詰まっています。
これまで週に1度は夫婦でこの場所に通い、クスノキの成長と共に人生を歩んできました。
峰さん
「ここに家内といつも来ていました。街に来た時にはクスノキを見て帰ろうと。妻は愛着があったですもんね、この木に」
公会堂の閉館が決まった際、峰さん夫婦はなんとかクスノキを残せないか長崎市に願い出ました。
その思いを受けた市は、新庁舎のシンボルとして木の保存を決めたのです。
取材中、偶然クスノキにゆかりのある人と出会いました。
前長崎市長の田上富久さんです。
「田上さん このクスノキを覚えていますか?」
「覚えています。クスノキを寄贈した方の子供さん、峰さんから実は父の木だという話を聞いて、思いのこもった木なので新市役所にできれば残せないかということで、色々な工夫をして残してもらいました」
「今、クスノキの下にベンチができて、市役所を訪れる人に木陰を提供してくれていて、緑を見せてくれたりして、すごく貢献してくれているクスノキなんです。そういう意味でいうと前よりも身近に感じられる人たちが増えたのではないかと思います」
「クスノキが枯れずに長く生き延びて、市民を見て守ってくれればいいと思います」
多くの思い出を提供してきた長崎市公会堂。
この場所は姿を変えて、いまも市民に親しまれています。
取材後記
長崎市民の私にとって、公会堂は知らず知らずのうちに生活に溶け込んでいる、いわばあたりまえの場所でした。
私の記憶としては高校時代、友達と行ったコンサートが公会堂で開催され、歌手との距離が近く熱狂したことが今でも忘れられません。
今回、公会堂の跡地に建った市役所に1本のクスノキが残っているという情報を聞き、峰さんにお会いすることが出来ました。
迎えた撮影日、峰さんとの集合時間に合わせるかのように、クスノキにゆかりある前長崎市長の田上さんがクスノキの前を通り過ぎ、急遽インタビュー撮影を敢行してクスノキへの思いも語っていただきました。
建物の形は変わっても、新しい市役所の前に残るクスノキ。
公会堂とともに生きた多くの人たちの思いをつなぎ、これからも市民に愛される憩いの場所になってほしいと思います。