長崎 被爆者団体トップ 川野浩一の「原点」
- 2022年10月25日
「被爆者団体」という言葉、聞いたことがありますか?
被爆地・長崎では被爆者の権利擁護を目指して、昭和30年代から50年代にかけて相次いで設立されました。そして現在は、主に4つの団体が活動しています。
このうちの1つ「長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会」で代表を務めるのが川野浩一さんです。その原点を取材しました。
NHK長崎放送局 上原聡太
被爆者の先頭に
ことし8月9日の長崎原爆の日。4つの被爆者団体の代表が勢ぞろいして、岸田総理大臣に要望を行いました。
被爆者団体の1つ「長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会」で代表を務める川野浩一さんです。ことしで82歳になりました。岸田総理大臣と面会したあと、川野さんからは長崎の被爆者の救済が進まない現状に厳しい言葉が並びました。
「長崎にも同じように黒い雨が降っている。広島だけに認めるのは総理が広島出身だから、いいたくないが私は厚労省のそんたくだとしか捉えられない」
川野さんの被爆体験
1945年8月9日。当時5歳だった川野さんは、爆心地から3点1キロ離れた本紙屋町(現在の八幡町)で被爆しました。自宅の前で友人と遊んでいましたが、気づいたときには15メートルほど離れた道ばたで倒れていたといいます。幸い、川野さんと家族に大きなけがはありませんでした。
しかし、避難した山あいにある防空ごうから外に出て見ると信じがたい光景が広がっていました。
「シーンとした世界のなかで、長崎の街だけが延々と燃えているんです。でも、誰もひとこともしゃべらない。『どこまであの火は燃えるのか』『なぜ消せないのか』という歯がゆさ、『自分たちの将来はどうなるんだろうか』という複雑な思いがあったのだと思う」
原点はどこに?
終戦後、川野さんは県庁に就職します。大きな転機が訪れたのは、20代半ばを過ぎたころでした。
被爆2世の男性の同僚が白血病で亡くなったのです。その事実を当時、所属していた労働組合の情報誌に掲載しようとしたところ、川野さんは同僚の遺族から強い反対にあいます。
「もし白血病、原爆病で亡くなったということになれば姉の結婚話に影響がでる。『ちょっと待ってください、やめてください』という話がきました。まだ戦争は終わっていない、もっと原爆の問題を掘り下げて考えなければいけないと思いました」
差別に苦しむ被爆者の現実を目の当たりにした川野さん。同じ被爆者として見過ごすわけにはいかないという思いが川野さんを被爆者運動へと突き動かしました。
被爆者団体のトップとして
その後、川野さんは被爆者団体のメンバーとして活動。19年前の2003年には代表に就任します。そして5年前、核兵器禁止条約がついに採択。川野さんたち被爆者にとっては念願の瞬間でした。
「もう核兵器がなくなったような気がしましたね。自分たちが訴えてきたことが報われるような感じがして非常にうれしかったです」
しかし、それからわずか5年。川野さんたちの理想はあっけなく崩れます。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻がはじまり、核兵器の脅威が現実的なものとなったのです。
さらに、ことしは5つの被爆者団体のうち1つが高齢化を理由に解散し、「被爆者なき時代」は刻一刻と近づいています。原爆の悲惨さを後世に語り継ぐために、川野さんは若い世代や海外との連帯の必要性を訴えています。
「今までは私たち被爆者は、自分たちの宿命や経験だけで生きてきた。しかし、これからはそういうのは抜きにして、被爆2世3世が中心になりながら運動を進めていくことが大事だと思う。最近のウクライナ情勢を見て『なんとかしないといけない』という気持ちを持っている人は世界にたくさんいる。そういう人たちとつながって話し合っていかなければならない」
取材後記
「まだ戦争は終わっていない」。取材中、川野さんは、このことばを繰り返していました。長年、被爆者運動に取り組む川野さんのことばには重みがありました。この思いは、戦後まもない20代のときだけではなく、今でも変わらないそうです。私を含めて、戦争を経験していない若い世代が、このことばの意味をかみしめていく必要があると感じました。