【被災地の声】輪島市山本町 池端忍さん「母親を守ってあげられんかった」
- 2024年01月17日
2024年1月1日に発生した、石川県能登半島地震。
疲れが出て体調が悪化する人や、避難生活の中で亡くなる人も相次いでいます。
大変な状況の中で取材にこたえてくださった被災者の方たちがいます。
輪島市山本町の広野前地区に住む池端忍さんの声です。
「心残りしかない」
「母親を守ってあげられんかった、という心残りという思いしかなかったですね」
こう話すのは、輪島市山本町の広野前地区に住む池端忍さん(46)です。
地震のあと、一緒に避難していた母親の幸子さん(76)を亡くしました。
全員で1台の車で車中泊
池端さんは幸子さんをはじめ同居する家族7人で自宅にいたときに被災しました。
いずれもけがはありませんでしたが、大きな余震が続く中、家にいるのは危険と判断し、全員で1台の車で車中泊をしたそうです。
翌日の早朝、幸子さんはふだんと変わらない様子で近所の人と話をしていましたが、その後胸の痛みを訴え、顔色が悪くなったということです。
「地震当日の今月1日は全然元気で、2日も朝は近所の方とお話ししながら元気だったんです。外をまわっていた私のところに『体調悪くなったよ』ということばが入ったもんで、来てみたら母親の顔が真っ青でちょっとひどい状態で。血圧が高かったので、薬を探したんですけど見つからなくて」
声かけながらゆっくりゆっくり
119番したものの、救急車の到着には時間がかかると言われ、忍さんは自分が運転する車で市内の病院に運んだということです。
「緊急車両はなかなか来れないということで無理だろうなと思って、病院まで母を車に乗せて行ったんです。ふだんやったらすぐ行けるんやけど、焦りもあったし、でも焦っても道が悪いんで、声かけながらゆっくりゆっくり行ったんです。『胸が痛い、胸が痛い』と言っていたもんで、自分は背中をさすったりして声かけだけずっとしていた状態なんです」
「病院に着いた時は意識もあって、つらいなかでも呼吸もしていて、CTを撮って『大動脈が破裂しかけてる』ということを言われたもんで、ドクターヘリをお願いすることになったんですけど、なかなか来なくて。そしたら容体が急変して亡くなったんです」
「守れなかった、ごめんな」
今、亡くなった母を思うと心残りしかないと話しています。
「地震がなければ元気でいたと思うかな、やっぱり。守れなかった、ごめんなって感じですね。母親に」