<東日本大震災 被災地>できること、心配り… 「どう寄り添うか」難しく

2021/03/03 [17:56] 公開

旧南三陸町防災対策庁舎屋上から町職員が撮影。20メートルを超える大津波で町は壊滅的な被害を受けた=2011年4月15日、宮城県南三陸町(佐藤さん提供)

 突き上げるような激しい揺れで、脳裏に「灰色」の記憶がよぎった。東日本大震災から間もなく10年を迎える東北地方を2月13日深夜、再び強い地震が襲った。「大きい被害が出なければいいが」。元南島原市職員、佐藤守謹(41)は宮城県登米市の自宅で家族と共に緊張の夜を過ごした。
 震災から約1カ月半後の2011年4月25日午前、本県の「岩手県被災者支援チーム」(20人)の一員として陸前高田市に入った。死者・行方不明者数は約1800人。津波による被災世帯数は約8千にも達し壊滅状態だった。崩れた鉄橋や骨組みだけの建物、折れた電柱、ビニールハウス、家屋に突っ込んだ車。荒野が広がっていた。新緑まばゆい季節を迎えようとしていたが、目に映る光景も人々の心も灰色のように曇っていた。
 約2週間、救援物資の荷さばきや避難所の運営に従事。「できること」を探した。テント内に山積みの野菜や食料品があった。物流が寸断された状況で届いた貴重な物資だったが、一部が腐ったり賞味期限が切れたりしていた。傷みやすい物から被災者の食事に使うなど食料品の整理整頓に努めた。
 被災地は全国から集まった善意の物資で供給過多の状況。仕分けには多くのマンパワーが必要だった。震災直後、1週間後など「局面」に応じて被災者の必要な物資は変わった。直後は冷めた食事や古い衣類でも必要とされたが、落ち着きを取り戻すと古着は見向きもされなくなり、温かい食事が求められた。生理用品や乳幼児のミルクは常時必要だった。送る側の「心配り」が大切だと知った。
 30年前の雲仙・普賢岳噴火災害。当時11歳だった。大火砕流が発生すると、南島原市南有馬町の実家まで火山灰が飛散し、硫黄の臭いが充満したことを覚えている。小学校では「島原から転校生が来た」とすぐにうわさになった。子ども心に「転校するほど大変なんだ」と思った。
 大人になって被災地で被災者に接し、「どう寄り添うか」が何より難しいと感じた。一瞬にして家族や自宅、職場を失った彼らに掛ける言葉が見つからなかった。子どもたちの笑顔が被災者にとって心のよりどころだった。しかし、学校や体育館は仮設住宅や支援物資で埋め尽くされ、学びや遊びの場を失っていた。暗く沈みがちだが、「鬼ごっこ」に興じたりして、悲しみを紛らわせていた。
 忘れられないのが、5月5日のこどもの日だ。避難所の運営管理者の粋な計らいで、こいのぼりが設置された。真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)が風に舞って泳いでいた。お菓子や玩具をもらった子どもたちには笑顔があふれていた。「われわれ大人は彼らの笑顔を絶やしてはならない」。そう固く誓った。
(文中敬称略)

佐藤守謹さん

 【略歴】さとう・もりちか 1979年生まれ。南島原市南有馬町出身。県立口加高卒業後、公務員ビジネス専門学校を経て2000年同市に入庁。世界遺産登録推進室や秘書広報課などに勤務。2度の被災地支援に従事した後、20年3月に退職。同年4月に宮城県南三陸町に入庁。現在は商工観光課に所属し商工業の立地推進に尽力している。