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  • 第556号【長崎くんちと傘鉾】

     今年の「長崎くんち」が終わり、しゃぎりの音色と根曳衆の勇壮な掛け声に包まれた中心市街地は、その熱をおびたまま静かな日常をとりもどしはじめています。1634年(寛永11)にはじまる「長崎くんち」。384年目となった今年は、平成最後の節目ということで、踊町はもちろん見物客たちの感慨もひとしお。秋晴れに恵まれた三日間(10/7・8・9)絢爛豪華な奉納踊が繰り広げられました。  長崎くんち本番前の10月3日に行われた庭見世(にわみせ)も賑わいました。庭見世とは、今年の踊町が、傘鉾や衣装、道具、お祝いの品などを披露するもので、本番への期待感が高まる催しです。中心市街地に点在する今年の踊町、小川町・大黒町・椛島町・出島町・東古川町・本古川町・紺屋町の全7カ町(※小川町・紺屋町・本古川町は旧町名)は、それぞれ飾り方、見せ方を工夫し準備万端。庭見世がはじまる夕刻になると、家族連れや観光客、そして仕事帰りの人たちなど大勢が繰り出して賑わいました。今回、町内に出島を擁する出島町は、庭見世を出島で行い、昨年11月に完成したばかりの出島表門橋から出島の外側にかけて見物客の長い行列が続いていました。  庭見世で目を引くのは、やはり傘鉾です。各踊町の町印として、行列や奉納踊の際、常に先頭に立ちます。くんち前日(まえび)の御神輿お下りの際に行われた「傘鉾パレード」では踊町の傘鉾が一堂に会し、圧巻でした。重い傘鉾をバランス良く持って小刻みに歩き、ときに回してみせるのは、「傘鉾持ち」と呼ばれる専門の男衆です。その演舞は、傘鉾の美しさをいっそう際立たせます。  傘鉾の「垂れ」や「飾(だし)」と呼ばれる上部の飾りには、その町の歴史や故事などにちなんだものが施されています。それぞれが長崎の町の歴史を物語っており、興味をそそります。たとえば、本古川町の傘鉾。垂れには、楓や紅葉を散らした秋の風情を背景に、楽太鼓や笙など雅楽で用いられる楽器が描かれています。また、飾には、能楽で使われる〆太鼓や能管、小鼓などが施されています。この傘鉾は、かつて本古川町には多くの楽師が居住し、いろいろな楽器の音曲が流れる賑やかな町であったことを表現しているとのことでした。  大黒町の傘鉾は、大黒様の持ち物である金色の打ち出の小槌が目を引きます。江戸時代からある大黒町の町名が、七福神の大黒様にちなんでつけられたことを表しています。そして、コッコデショ(太鼓山)で知られる椛島町の傘鉾は、江戸時代、同町の乙名であった若杉家が、猿田彦のお面を諏訪神社に奉納したという故事にちなんだもの。飾には諏訪神社を表す金の御幣を置き、前後に猿田彦の赤面、青面が添えられていました。  「傘鉾持ち」が独特の足取りで傘鉾を回すと、重厚な垂れがひらりと舞ってとても美しい。ダイナミックな曳き物や、華麗な本踊とはまた違った味わいで、見物客を魅了します。あまり知られていませんが、傘鉾の垂れが、前日と後日(あとび)で変わる踊町もあります(今年は、本古川町、大黒町、紺屋町)。   ときに修理、新調されながら、時代を超えて使われ続ける傘鉾。踊町の魂がこもった大切な存在に、今後も注目していきたいと思います。

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  • 第555号【めくるめく長崎の秋の行事】

     きょう9月26日は彼岸明け。連休を利用してお墓まいりに行かれた方も多いことでしょう。お彼岸のお供えものといえば、一般的にはおはぎですが、我が家では「ふくれまんじゅう」をよく作ります。薄力粉、砂糖、卵、生イーストをこねた生地に、粒あんを包んだ素朴なまんじゅうです。生地をふくらませるのに甘酒を使った「酒まんじゅう」、炭酸ソーダを用いた「ソーダまんじゅう」のときもあります。こうした手作りのまんじゅうは、いろいろなお菓子が気軽に手に入る時代になっても、根強く人々に求められる力があるよう。長崎県下の津々浦々で、郷土の味のひとつとして食べ継がれています。  郷土料理といえば、最近、ユニークな名前の料理を食べる機会がありました。長崎県の東彼地区(大村湾の北部に面した地域)に伝わる「もみじゃ」という料理です。名前の印象から変わった料理かと思いきや、実際はおふくろの味ともいえる昔ながらの酢の物でありました。キュウリ、ナス、シソの葉などの野菜を塩もみして水気を切り、あれば塩と酢でしめた小アジを加え、甘酢、または酢味噌で和えて出来上がりです。「もみじゃ」の「もみ」は、「揉む」、「じゃ」は「おかず」の意味だとか。夏の疲れが残る身体にうれしい酢の物でした。  さて、お彼岸の期間中に長崎新地中華街では、中国の三大節句のひとつ「中秋節」がはじまりました(9月24日(月)〜30日(日)迄)。「中秋の名月」の日(旧暦8月15日)にはじまる中秋節は、日本でいうお月見の行事のこと。期間中は澄んだ秋空に浮かぶお月さまを楽しめます。新地中華街では、月明かりのもと、満月を模した1000個の灯籠を眺めながら、家族や友人と和やかに歩く姿があちらこちらで見られました。  中秋節が終わり、10月に入ると間もなく秋の大祭、長崎くんち(10月7・8・9日)が行われます。この季節を待っていたかのように、ご近所の庭木のザクロはたわわに実らせました。ザクロは豊穣の象徴や子宝に恵まれるとされる吉木。「ザクロなます」は、昔から伝わる長崎くんち料理のひとつです。「庭見せ」(10月3日に行われるくんち行事のひとつ。本番で使う衣装や道具を踊町がお披露目。祝いの品などが並ぶ)ではお祝いの品のひとつとして並びます。  全7カ町となる今年の踊町(演し物)は、小川町(唐子獅子踊)・大黒町(唐人船)・椛島町(太鼓山)・出島町(阿蘭陀船)・本古川町(御座船)・紺屋町(本踊)。国内外のさまざまな文化が融合する後床絢爛の演し物は、長崎ならでは。例年にない猛暑が続いたこの夏も、各踊町は稽古にはげみました。子供から高齢の方まで、本番に向けて一丸となって汗を流す姿は、胸が熱くなる光景でした。   さあ、この秋も、多彩な催しが続く長崎。日本で育くまれた異国情緒がここにあります。何度もこの町を訪れながら、少しずつ親しんでもらえたら幸いです。

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  • 第554号【冥界へつながる炎、崇福寺の中国盆】

     このたびの北海道地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。地震活動の収束を願い、皆様の安全と、一日も早い暮らしとまちの復興をお祈りいたします。  連日30度を超えた日中の暑さもようやくおさまってきました。今回は、夏もそろそろ終わりという時季に行われる崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の中国盆をご紹介します。中国盆は旧暦の7月26日から3日間行われる伝統行事です。今年は新暦9月5〜7日にあたり、全国各地から華僑の方々が集い賑わいました。  江戸時代にはじまる崇福寺の中国盆は、380年以上の歴史があるそうです。ご先祖さまの霊だけでなく、動物、植物、昆虫といったすべての生物が供養の対象になるそう。期間中の崇福寺は、日本のお盆とはまた違った唐寺ならでは風情を色濃く映し出します。  3日間の中国盆のなかで、もっとも盛り上がりを見せるのは、やはり最終日に、金山・銀山を燃やして全世界の霊を冥界へ送り出すひとときです。というわけで、最終日の夕方、崇福寺へ向かいました。  山門をくぐり、国宝の第一峰門へつながる石段をのぼっていくと、竹線香の細い煙と匂いが鼻先をかすめました。足元を見ると1本の竹線香が地面に刺さっています。振り返ると、一定の間隔で竹線香が立てられていました。「精霊が迷わずお寺にたどりつくための道しるべですよ」と県外から来たという華僑の男性が教えてくれました。  第一峰門のたもとに設けられた祭壇には、今年も七爺(チーチャ)、八爺(パーチャ)の神像が祀られていました。ふたりは、道教の神さまに仕える身。背が高く色白の七爺は、右手に「見我生財」と書かれた軍配を持っています。「私を見ると財産が生まれるよ」という意味です。八爺は、背が低く黒い肌で大きな丸い目をしています。左手に持った軍配には「善悪終有報」の文字。「善も悪も最後にはそれぞれの報いがあるからね」と、愛嬌のある表情で諭すのでした。  国宝の大雄宝殿(本殿)の前に行くと、各所に設置された祭壇をめぐりながら竹線香をあげて祈る華僑の姿がありました。白いお皿に盛られズラリと並べられたお供えものは、シイタケ、キクラゲ、ナツメ、寒天など、薬膳でもよく使われる食材ばかりで興味をそそります。   夕刻からはじまった長いお経のあと、奉献された金山・銀山、そして衣山が石畳の境内に集められました。金山・銀山は、冥界で使うお金で、衣山は服や帽子、履物などを意味します。それらを燃やすことで故人の霊とともに冥界へ送り出すのです。点火されると間もなく数メートルの炎があがりました。盛大な炎のゆらぎに見惚れる檀家さんや見物人たち。小さな火の粉も消えるまでしっかり見守られたあとは、地元の消防局の出番です。大雄宝殿をはじめ敷地内の建物に念入りに放水。じっくり濡れた崇福寺は、スコールのあとのようなさわやかな空気に包まれました。

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  • 第553号【ご当地の魅力を映すマンホール蓋】

     これまでにない酷暑が続いている平成最後の夏。それでも、お盆を過ぎた頃から、朝晩に秋めいた空気を感じるようになりました。とにかく、元気にこの夏をのりこえて涼しい秋を迎えたいですね。  さて、この夏休み中に親子でダムを訪問し、ダムカード(※当コラム549号をご覧ください)を集めた方もいらっしゃることでしょう。そんなダムカードのように、集めて楽しいのがマンホールカードです。それは、各地のシンボルマークや名所、キャラクターなどがデザインされたマンホール蓋の写真と、デザインの由来や位置座標などが記されたカードで、その目的は、マンホール蓋を通じて下水道の役割を知ってもらおうというものだそう。ちなみにマンホールカードを企画・監修しているのは「下水道広報プラットホーム(GKP)」(事務局:(公社)日本下水道協会)。2年前に30種類のカードを発行・配布して以来、次々に新しい仲間が加わって、現在、全418種類のマンホールカードがあるそうです。(※カードの配布先は各自治体など。GKPのホームページでご確認ください。)  長崎県内のマンホールカードは、現在、5種類(長崎市、諫早市、大村市、佐世保市、大村湾南部流域下水道)。長崎市は、市花「あじさい」がモチーフになったもので、現物は、2ヶ月前、世界遺産になった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつ、大浦天主堂のすぐそばにあります。  マンホールカードにはなっていませんが、出島をモチーフにしたマンホール蓋もあります。1690〜1692年に来日したオランダ商館医ケンペルが描いた出島のイラストがモチーフになったもの。まさか300年以上も前のイラストがこんな形で後世に蘇るとは、ケンペル自身も驚くにちがいありません。  この8月に配布されたばかりの大村湾南部流域下水道のマンホールカードは、長崎県の花木として指定されている「つばき」がモチーフになっていました。背景には波静かな大村湾の美しい海をイメージさせるデザインが施されています。先日、このマンホールカードをもらうために(1人1枚)配布先の大村湾南部浄化センター(諫早市)へ行ったら、関東方面から来た人もいて、マンホールカードの人気ぶりがうかがえました。大村湾南部浄化センターの玄関には、マンホールカードとして発行された「つばき」と「諫早眼鏡橋と諫早菖蒲」の現物が展示されていました。  マンホールカードにはなっていませんが、諫早市には長崎県をホームタウンとするプロサッカーチーム「V.ファーレン長崎」のマスコットキャラクターを描いた「ヴィヴィくんのマンホール蓋」があります。諫早駅からトランスコスモススタジアム長崎(長崎県立総合運動公園)までのV.ファーレンロードに4つ設置されています。   長崎県内でも個性が光るデザインが目白押しのマンホール蓋。全国各地で観光振興にもつながっているようです。マンホール蓋への注目が、その蓋の下にある下水道の大切な役割を知るきっかけになるといいですね。

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  • 第552号【長崎風ゴブサラダ】

     連日30度を超える猛暑のなか、きのう立秋を迎えました。夜風に涼しさが感じられ、鈴虫の声も聞こえるように。季節が次へ向かっているのを感じてホッとしますね。とはいえ、日中の暑さはとても厳しい。日々の食事作りも、「暑さで台所に立つのがおっくうなのよ」という声をよく耳にします。そこで、夏の食事作りが楽しくなる「皿うどんサラダ」を使った一品をご紹介します。火や電気の使用は最小限度におさえ、猛暑をのりきるための栄養もしっかりとれる「長崎風ゴブサラダ」です。  「ゴブサラダ」は、ハリウッド発祥といわれるサラダです。ゴブさんという人が、冷蔵庫に残っていた有り合わせの食材で作ったのがきっかけだとか。鶏肉、アボガド、トマト、レタス、チーズ、ベーコン、ゆで卵などを一口大にカットし、トレイにストライプ状に並べるのが本場アメリカでの定番スタイルだそうです。ゴブサラダの具材にこれといった決まりはないそうですが、アボガドは欠かせません。森のバターとも呼ばれるほど栄養価が高いアボガドは、ビタミンやミネラルをバランス良く備えていて、夏場の疲労回復にもいいといわれています。  「長崎風ゴブサラダ」は、サクサクと口当たり軽やかな「みろくやの皿うどんサラダ」(中華麺)とアスパラガス、ジャガイモ、トマト、ゴーヤなど長崎産の新鮮な野菜をたっぷり使いました。野菜をさっとゆでたり、ベーコンを焼く程度の調理はありますが、食材をカットして彩りよく盛るのが主な作業です。「皿うどんサラダ」に付属の白胡麻ドレッシングをかけていただきます。  今回使った長崎産の野菜は、歴史的にも長崎にゆかりがあります。アスパラガスは江戸時代にオランダ船で運ばれてきたのが最初といわれています。当初は観賞用で、日本にもともと自生していたキジカクシという植物に似ていたことから、「オランダキジカクシ」と呼ばれたそうです。現在、長崎県のアスパラガスは全国で4位の生産量。長崎では春と夏の2回収穫期があり、冬場に養分をためる春アスパラガスは緑色が濃く甘みが強い。いま出回っている夏アスパラガスは、淡い緑色で根元までやわらかくみずみずしいのが特長です。薬膳の世界では、ほてりや喉の乾き、食欲不振などに効果があるといわれています。  夏野菜を代表するトマトの原産地は南米。17世紀末にオランダ船が長崎に運んできたのが最初といわれています。見た目から「赤なす」と呼ばれ、こちらも当初は観賞用であったとか。そして、健康野菜として知られるゴーヤは、トマトのような歴史的なゆかりはありませんが、近年では長崎県内の農作地帯として知られる島原半島を代表する農産物のひとつになるほど、品質に定評があります。  ジャガイモは、北海道に次ぐ第2位の生産量を誇ります。島原半島が主な産地で、皮がうすくて煮崩れしにくく、本当ににおいしい。長崎とジャガイモの出会いは、400年ほど昔の南蛮貿易時代。ポルトガル船がジャガトラ(現在のジャカルタ)から運んできたのが最初といわれています。   カラフルな食材を並べていく作業も楽しい長崎風ゴブサラダ。ふるさとゆかりのエピソードを語りながら、子供たちと作ってみませんか。

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  • 第44回 長崎料理ここに始まる。(十五-二)

    (前段落)二、長崎南蛮料理 長崎の開港は、1568年9月エイズス会のトーレス神父が口之津(島原)より福田(長崎)・大村へと向かう途中、長崎に立ち寄り、Gヴィレラ神父に長崎での布教を命じたことにより、1570年9月頃トラパス船長の船が長崎の港を測量、翌年の春ポルトガル船が貿易のため入港、これより蛮船の長崎貿易は開始されている。 当時の南蛮船の記録によると、「新しい長崎の町は岬の上にあり、其処には教会を中心に千人ばかりの人たちが居た」とある。 当時のポルトガル船の人達は街で宿泊する人は少なく、船内で多く食事をしていた。それは食生活の違いがあったからであったと言う。それはポルトガル(南蛮)の人達はパンや牛肉・バター類を主食にしていたからである。然し時代と共に新しい長崎の町の食生活は変化している。1580年 当時、長崎方面を支配していたバルトロメ大村純忠は長崎・茂木の地をイエズス会に寄進している。之によって長崎地方の諸文化は急速にキリ シタン文化・欧州の食文化に変化している。1614年、長崎の街に居住していたメスキータ神父は通信文の中に次のように記している。▲高麗茶碗長崎の町ではヨーロッパと同じ食事ができるし、ヨーロッパでは高価である牛のゼラチンもある。 この料理を我が国の人達は南蛮料理とよび珍しいものとして楽しんでいる。現在でも其の名残は残っている。パン、カステラ、ヒロス(ヒロウス)テンプラ、ビスカウト、カルメラ、コンペイトウ、ヒカド、チンダ酒(ぶどう酒)等。食器のコップ(Copo)もポルトガル語である。三、長崎オランダ料理 1641年6月25日(寛永18)幕府の命により平戸オランダ商館は長崎出島の地に移転が命ぜられオランダ船は長崎に入港してきた。然し出島に居住するオランダ人には数々の制限があった。例えば許可無く出島の外に遊歩する事。日本産の牛(肉)は食せぬこと。出島内でパンを作る事(パンは奉行所指定のパンを食する事)。出島内居住のオランダ商館員はカピタン外十数名とする事等。 然し1720年(享保5)吉宗の洋書解禁令以後、我が国の近代化が進み出島オランダ屋敷内の食文化にも注目されるようになり、毎年12月末(旧暦)「オランダ正月」という日があり、之の日には出島カピタンより長崎諸役人に招待がありオランダ料理の宴席があった。この事が江戸でも評判となり、有名な蘭学者大槻玄澤も「天明五年長崎日記」(1785)の中に其の時のオランダ料理を紹介した事や「長崎名勝図絵」にも大きく記述された事等で広く世に知られるようになった。其の一文に和蘭(オランダ)・食事をなすや箸を用いず三叉鑚(ホコ)・快刀(ハアカ)・銀匕(サジ)の三器を以す。ハアカを操(と)りて肉を截割(きりさき)、これを匕(サジ)に掬ひ(すくい)とりて喫し喰也・・・この出島洋食の風は1859年(安政6)の開国令により、各国との自由貿易、各国領事館、居留地の設置と共に本格的な西洋料理が全国に普及していった。長崎では文久3年(1863)秋、我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」を長崎伊良林郷次石若宮神社前に草野丈吉が開業、その看板には次のように記してあった。料理代 御一人前金三朱、御用の方は前日御沙汰願上けます但し六人以上の御方様はお断わり申上候当時の料理は、ターフルにのせバンコ(椅子)に座り、パン、フルカデル、ソップ、カルマチ、タルタ、ボートル、ブラド、チンダ酒を食したと記してある。四、唐船料理▲染付三川内焼 長崎に唐船が初めて入港したのは秀吉が朱印船貿易開始以後のことである。 当時の長崎の街は全てがキリシタンの街であったので佛教を主にした唐船の人達は長崎の対岸・水之浦(稲佐)方面に停泊、1602年(慶長7)には福建省出身の唐船主欧氏、張氏が中心となり菩提寺集会所を兼ねて稲佐の地に悟真寺(浄土宗)を創建している。 1605年(慶長10)徳川幕府は当時大村氏が所領地としていた長崎の大半を公領地とし長崎代官に支配を命じキリシタンの禁教を厳しくしている。 これ以来、唐船の人達は全て街中に宿泊居住し、1620年(元和6)には長崎最初の唐寺(含媽祖堂)を風頭山の下・寺町に建立している。 長崎に居住する唐人を長崎奉行所では住宅唐人とよび、唐人女子の来航は禁止いていたので、其の婦人は全て長崎の人達であった。次に奉行所では在留唐人の中より学のある人を選んで唐通事に任命、其の人達には日本姓を用いることを許している。例えば陳氏は穎川(えがわ)氏。馮氏は平野氏等である。 唐船の入港は、1684年(貞享1)清国が遷海令を解禁した事によって例年30艘内外であったのが急に100艘以上となり、大混乱となったので長崎奉行所は1689年(元禄2)十善寺郷に急ぎ唐人屋敷を造り唐船の入港は70艘までとし、唐人も出島のオランダ人同様、許可なく自由に街中を歩く事を禁じている。 当時の長崎の街では既に大いにシッポク料理が流行しており、その珍味はすでに京都・江戸方面にまで知られていたと「嬉遊笑纜」は記している。 次いで1771年(明和8)には江戸、京都の書林より「新撰会席しっぽく趣向帳」・1784年(天明申辰)には「卓子(しっぽく)式」1822年(文政5)には江戸八百善より「江戸卓袱(しっぽく)料理」等が出版されている。長崎の人足立正枝(1855~)の「長崎風俗シッポク料理」には次のように記してある。一、小菜五皿乃至七皿 刺身、湯引、取肴、等  一、大鉢一個 玉子蒸他見計ひ。一、中鉢一個 鰻かばやき他季節物。  一、丼 三個乃至五。 味噌吸物、煮物他 其の他。 南蛮漬、そぼろ煮、鶏水たき、ヒカド、けんちん、胡麻豆ふ、更紗汁、岡部(鮨) (以上)(完)第44回 長崎料理ここに始まる。(十五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第551号【電停の名まえが変わる2018夏】

     猛暑が続いています。西日本豪雨の被災地では、いまも大勢の方々が復旧作業にあたっています。無事に作業が進み一日早くもとの暮らしにもどれますよう心からお祈りいたします。  夏休みがはじまって、長崎では路面電車を利用する観光客にまじって地元の子供たちの姿も目立つようになりました。通勤や通学、お買い物など長崎市民にとって大切な生活の足である長崎電気軌道の路面電車。大正4年(1915)11月に長崎のまちを走り出して以来、今年で103年目を迎えます。  長崎の路面電車は現在、4つの路線で市中心部を巡っています。電車停留場(以下、電停)は全39カ所。そのうち13カ所の名称が8月1日から変わることになっています。より分かりやすく、利便性を高めるために行われる今回の電停名称変更は、次のとおりです。1.「長崎大学前」→「長崎大学」2.「浦上車庫前」→「浦上車庫」3.「松山町」→「平和公園」4.「浜口町」→「原爆資料館」5.「大学病院前」→「大学病院」6.「築町」→「新地中華街」7.「正覚寺下」→「崇福寺」8.「賑橋」→「めがね橋」9.「諏訪神社前」→「諏訪神社」10.「市民病院前」→「メディカルセンター」11.「大浦天主堂下」→「大浦天主堂」12.「西浜町(アーケード入口)」→「浜町アーケード」13.「公会堂前→市民会館」(※公会堂跡地に新市庁舎が完成したら「市役所」(仮称)に変わるそうです。)  名称が変わる電停を何カ所か訪ねました。もうすぐ「めがね橋」となる「賑橋」電停。実際の賑橋、めがね橋は中島川にかかる橋で、この電停からそれぞれ徒歩2分ほど。めがね橋から200メートルほど下流に賑橋が架かっています。現在の賑橋は鉄筋コンクリート造りの道路橋ですが、その歴史をひもとくと、長崎らしいエピソードに彩られていました。  江戸時代初め、同場所には木の橋が架けられていましたが、江戸中期になり「榎津橋」という石造りのアーチ橋が架けられました。これは、貿易で財を成した帰化唐人、何高財(が こうざい)の寄進によるものと伝えられています。その石橋は明治後期に架け替えられ、そのとき「賑橋」と名称が変わったそうです。ちなみに、何高財の息子の何兆晋(が ちょうしん)は、片淵に茅葺屋根の別宅「心田庵」(市指定史跡)を建てたことで知られています。  「築町」の電停も最寄りの観光スポット「新地中華街」という名称に変わります。「築町」は、路面電車が走り出した大正4年当初からある電停です。現在の電停所在地は「銅座町」ですが、当時は「築町」だったのでしょう。ちなみに「築町」自体は南蛮貿易時代からあるたいへん古い町名です。   今回の電停巡りでは、電車一日乗車券を使ってとってもお得に楽しめました。余談ですが、電停の標識が、レトロ調のモスグリーンで縁取られたタイプばかりと思っていたのですが、実は数タイプあることに初めて気付きました。「諏訪神社前」の電停は、門前電停らしいデザイン。何事も、見ようとして見なければ、気付かないものなのですね。

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  • 第550号【島々とつながる長崎港ターミナルビル】

     西日本各地での記録的豪雨の被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。浸水した家屋やライフラインなどの復旧がすすみ、一日も早く元の生活にもどられることをお祈りいたします。  長崎県の大雨警報が解除されたあと、眼鏡橋など複数の石橋が架かる中島川へ行ってみました。中島川は長崎市中心部を流れる川。1982年(昭和57)の長崎大水害のとき、石橋群は半壊や全壊などの大きな被害を受けました。その後、河川の拡幅工事と同時に、崩壊した石橋も再建。その際、二度と水害の被害にあわないようにと橋の両岸側に石段を設け、渡る位置を高くするなどの工夫が施された石橋もいくつかありました。そうした橋は、ふだん渡るときには石段を上がるのがおっくうに感じられるのですが、台風や大雨で中島川が濁流と化したとき、石橋にしぶきさえかけることなく流れていく様子を見ると、日頃の渡りづらさも忘れて、ほっと胸をなでおろすのでした。  中島川を下流へすすむと長崎港へ出ます。その河口近くにある長崎港ターミナルビル(長崎市元船町)は高島、伊王島、五島列島などの島々と長崎市街地を結ぶ航路の拠点です。美しい海と浜辺を擁する島々は、これから観光シーズン。しかも、今年は6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に決定したこともあり、その構成資産の一部(野崎島の集落跡、頭ケ島の集落、久賀島の集落、奈留島の江上集落など)を有する島々をめざす人々も増えると思われ、この夏の長崎港ターミナルビルは、例年以上に賑わうことになるのでしょう。  1995年(平成7)、長崎港湾の再開発の一環で建てられた長崎港ターミナルビル。楕円形の大きな断面を持つ筒状の形やギザギザの屋根部分などいろいろな造形が合体した構造をグレーやメタリックでまとめた外観は、竣工から4半世紀近く経ったいまもモダンな印象です。建築設計者は高松伸という方で、ポストモダンを代表する建築家のひとりだそう。長崎港ターミナルのホームページで施設の概要をみると、この建物の通称は「Big Bitt(ビッグビット)」とありましたが、地元では昔からのなごりで「大波止ターミナル」と呼ぶ人が多いようです。  館内に入ると、海側に設けられた広い窓から港湾の景色を一望、大きな筒状のコンクリート柱が並ぶ1階待合室、差し込む日光の加減で豊かな表情をみせる2階の天井部分など、非日常的な空間が旅気分を盛り上げてくれます。また、1階エントランスと2階の待合室の一角には、2015年(平成27)に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」、そして、今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に関連するパネルを展示。このターミナルビルからは、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつであるジャイアント・カンチレバークレーンが目の前に見えます。さらに、旧グラバー住宅があるグラバー園や「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつである大浦天主堂も一望できます。   島々への航路を利用しなくても、長崎市内の観光がてら、散歩がてらに寄りたい長崎港ターミナルビル。ターミナル内の食事処や売店は、朝7時には開いています(夕方17時まで)。お出かけになってみませんか。

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  • 第43回 長崎料理ここに始まる。(十五-一)

    はじめに 私が初めて「食の文化史」らしき論考を書くようになったのは、昭和三十年二月(一九九三)国際文化都市建設法の施行により長崎市平野町に長崎国際文化会館が新設され其の三・四階に新たに長崎市立博物館が再開、私が同館の研究員として勤務する事になったときより始まっている。同館には先輩として有名な林源吉、島内八郎の両先生がおられた。 当時、私は復員後、公務の傍ら県立図書館の永島正一先生を中心に古賀十二郎、渡辺庫輔両先生を指導者に集まっておられた地方史研究会に参加させて戴いていた。 其の頃、渡辺先生が国の「調理師法施行」により「地方における料理史教育担当者」という事で料理に関する小冊子の執筆と監修のお仕事があり、其の助手として私に「手伝わせてあげよう」と言われた事が私の長崎料理史研究の発端となっている。 次いで昭和五十年の初め頃、当時の諸谷長崎市長より観光長崎宣伝の上には「食の文化―其の地の名物料理」が必要であるから横浜に負けないで「西洋料理発祥の地・長崎」という事を大いに宣伝して下さいとの依頼があった。 この事は長崎司厨士会(柴田周義会長)にも伝えられ「西洋料理発祥の碑」の建立と其れを証明する「記念誌」を発刊する事になった。この発刊誌の原稿を依頼されたのが私であった。 其の本の発刊は昭和五十七年四月、本の題名は「長崎の西洋料理―洋食のあけぼの」と名付け、東京の第一法規社より出版していただいた。そしてこの本は大変好評であった。▲中国白磁染付小壷(越中文庫) 次いで、長崎の日本料理関係の方々が「長崎名物・シッポク料理」の本も出版してほしいとの依頼があり、「長崎卓袱料理」をナガサキ・イン・カラー社より出版した。 丁度其の頃、みろくや前社長山下泰一郎氏が長崎異国趣味の食品としてラーメン料理各種を製作、大いに評判となっておられた。 私と山下前社長とは同期の桜で、或る時私に「社報の『味彩』に何か書きなさいよ」と言われた。其のときは酒の宴席でもあり、私は簡単に引き受けてしまったのが「長崎料理ここに始まる」である。 其の第一号は平成四年十一月の発刊で題名は「西洋料理編(一)」とある。 一、長崎食文化概論 食文化の原点は其の土地の地形(位置)・地質・気温の影響により形成されると言われている。更に其の地形における各国異文化との交流によっても変化してゆく事も忘れてはならない。 我が国の食文化、特に長崎県においては其の地理的位置によって異国との交流が多く全ての文化が形成されている事に気付かされるであろう。 次に長崎県下の食文化の変遷については、年間の降水量・気温の変化・潮流の変化等の事についても考えておかねばならぬそうである。 私に是れら戦後に於ける新しい食文化研究を指導して下さったのは大阪の地に新設された国立民族博物館石毛直道館長、熊倉功夫教授であり、又長崎純心大学(当時短大)が「長崎地方史研究室」を新設して下さった事により研究を継続することができた。 長崎県下に於ける新しい食文化の始は「縄文時代末・対馬に朝鮮半島より伝えられた稲作文化に始まる」と先輩方よりお聞きした事がある。 次いで奈良時代の食文化については『肥前風土記』に次の記述がある。「島々には多くの白水郎(あま)あり、鮑(あわび)・螺(さざえ)・海藻(め)・海松(みる)あり」。また高来の郡(こおり)・土歯(ひじわ)の池(※現在の雲仙市千々石町)には「荷(はす)・菱(ひし)・多く生いたり」次いで『続日本紀』光仁天皇・宝亀七年(七七六)の記録には遣唐使船が順風を待って五島合蚕・田の浦に「留る事数回」とある。「五島編年史」の著者中島功先生によると「五島の遣唐使船は南路と言い、文武天皇(六九七年)以後の通路であったようである」と記してあり、桓武天皇延歴二三年(八〇三)には弘法大師空海も渡唐の時、五島の田の浦・久賀島に寄泊したと記してある。▲中国色絵付双魚瓶(越中文庫) このように古代より五島・平戸方面が遣唐使船の宿泊地であってみれば其処には多大の珍しい異国の食文化が移入されていた事であろう。 更に之の長崎県下の海の通路は時代とともに大いに発展し、やがて野母崎・脇岬方面にも寄港地が開かれいる。 鎌倉時代になると更に多くの知識人が之の交路を利用し宋朝の文化を移入し、我が国の食文化の上にも多いに変化を齎(もたら)している。そこには亦、禅僧を中心にした新しい大陸文化の移入があった。 そして、其の頃の交易文化の中心地は博多であったので文永十一年(一二七四)、弘化四年(一二八一)元軍は博多の街を攻撃している。然し暦応四年(一三三八)足利尊氏が征夷大将軍に任命されて以来は対外政策に変化があり、暦応三年(一三四一)足利幕府は天龍寺創立のため元に貿易船を派遣している。次いで一三六〇年代になると倭寇が高麗侵略の記事があり其の倭寇の根拠地は平戸・伊萬里方面(松浦黨)であったと記してある。 この倭寇の航路は次の時代の唐船(明末・清初の貿易船)南蛮船の来航ルートに繋がっている。 一五五〇年(天文十九)春、長崎県下に初めて来航してきた南蛮船(ポルトガル船)は平戸の港に入港している。当時の平戸には朝鮮や中国の船も入港し貿易が行われ、街は賑わっていた。其の翌年一五五一年にはザビエルも来航し我が国初期のキリシタン布教が開始されている。この南蛮船の来航は我が国食文化の上に大きな変化をもたらしている。 一五六〇年のフェルナンデス神父の書簡には次のように記してある。平戸の町にはポルトガルと同じ食物があるが其の量は少い。僧侶のみは牛肉を食べない。(以下次号)第43回 長崎料理ここに始まる。(十五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第549号【月と金星と、本河内ダム】

     6月16日夜8時頃に西の空を見上げると、三日月と金星が並んで輝いていました。カメラで撮ったその月をよく見ると、影の部分がうっすらと光って見えます。これは地球からの反射光が月の影の部分を照らすために起こる現象で、「地球照」と呼ばれるものだそうです。  星空にも季節があって、日々天体ショーを繰り広げながら夏へと移行しています。きょう6月27日は美しいリングを持つ土星が、「衝」(地球より外側をまわる惑星が太陽と正反対の位置に来るとき)を迎え、観察しやすい時期に入ります。ちなみに明日28日夜9時頃、晴れれば南東の空に満月とそのすぐ右側に土星を確認できることでしょう。  さて、まだまだ雨の日が続いていますが、この季節の雨水を盛夏期にむけてしっかり貯めているのがダムです。ダムといえば長崎市には、昨年7月に国の重要文化財に指定されたものがあります。眼鏡橋がかかる中島川の上流にある本河内水源地水道施設(本河内高部ダムと本河内低部ダム)です。  本河内高部ダム(長崎市本河内3丁目)と本河内低部ダム(長崎市本河内2丁目)は、長崎市街地を囲む山あいの一角にあります。路面電車の蛍茶屋電停から本河内高部ダムまで徒歩約20分、そこより下流に位置する本河内低部ダムまでは徒歩10数分。生活圏のすぐそばにあるダムです。  長崎市のHPによると、「本河内水源地水道施設は、わが国における最初期の近代水道施設であるばかりでなく、貯水池を備えた水道施設のはじまりであり、水道史上価値が高く、先駆的土木技術を駆使したわが国最初期の近代水道施設といえる」とありました。  本河内高部ダムは、明治24年(1891)、横浜・函館についで3番目の近代水道施設として建設されました。日本人(吉村長作)による設計・施工としては日本初のダムだそうです。ダム建設のきっかけは、幕末に外国人居留地がつくられた長崎には、海外と貿易が行われる一方で伝染病もたびたび流入。衛生的な水道施設の必要性が高まったからだそうです。その後、人口増加により水道を拡張。明治36年(1903)に本河内低部ダムが日本で2番目のコンクリート造の水道ダムとして誕生しました。 先に完成した本河内高部ダムは、主に土を用いて形成された土堰堤(どえんてい)といわれる造りで、青い草に覆われていました。コンクリート造の本河内低部ダムとの大きな違いです。高部ダムの近くには石造りのアーチ状の山門で知られる妙相寺があります。この山門は、もとは長崎街道沿いにあったものが、ダム建設のときに現在地に移されたそうです。   両ダムの敷地内には公園も整備。周囲の豊かな緑とともにのんびりできるスポットになっています。余談ですが、このダムを管理する長崎県では、昨年、県管理ダム37基(内2基は建設中)のダムカードを作成。本河内高部ダムと本河内低部ダムについては、通常タイプのダムカードに加え、重要文化財に指定された記念としてプレミアムダムカードもあるそうです(ダムカード配布については条件があります。長崎県河川課のHPでご確認ください)。防災や生活用水の供給などわたしたちの暮らしを支えるダム。ときには訪れてみるのもいいかもしれません。

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  • 第548号【本蓮寺のハス】

     ザクロの花が咲きはじめた6月1日、長崎くんちの「小屋入り」が行われました。「小屋入り」とは、その年の踊町の世話役や出演者などが諏訪神社と八坂神社へ参殿して清祓いを受け、演し物の稽古に入るとされる日です。今年の踊町(演し物)は、小川町(唐子獅子踊)・大黒町(唐人船)・椛島町(太鼓山)・出島町(阿蘭陀船)・本古川町(御座船)・東古川町(川船)・紺屋町(本踊)の七ケ町。これからどんどん暑くなるなか、秋の本番にむけて、きびしい稽古がはじまります。そんな踊町のがんばりを大勢のくんちファンや市民が見守っています。  「小屋入り」の日の長崎は、梅雨入りして間もない頃でしたが初夏のさわやかな天候にめぐまれました。6月中旬の現在、北海道をのぞくすべての地域が梅雨入り。ジメジメした空気は気分を沈ませがちですが、屋外に目をやれば、しっとりとぬれた若葉の茂りは美しく、雨粒にうたれるアジサイは涼しげで、心に晴れ間が広がります。  いま見頃のアジサイに続き、これから開花の時期を迎えるのがハスです。数日前、長崎駅近くにある聖林山本蓮寺(長崎市筑後町)を訪れたとき、ハスを植えた大鉢がいくつも並べられ、境内はまるでハス園のようでした。ハスの花の見頃は7月初旬なので、まだ花の数も少なかったのですが、明るいグリーンの大きな葉っぱが参拝に訪れた人の目を楽しませていました。  泥の水のなかから生まれ、清浄な美しい花を咲かせるハスは、仏教の世界では、仏の智慧や慈悲の象徴とされているそうです。しかも本蓮寺は、お寺の名前のなかに「蓮(ハス)」があり、この花との強いご縁を感じます。ちなみにハスの花は、早朝に開き、昼過ぎには閉じてしまいます。この時期の本蓮寺への参拝は、午前中がおすすめです。  ところで、本蓮寺は長崎の歴史に興味のある人なら檀家でなくとも幾度も訪れたくなるお寺のひとつです。創建は江戸時代初期の1620年。この場所は、長崎の南蛮貿易時代(安土桃山時代)につくられたサン・ラザロ病院、サン・ジョアン・バプチスタ教会の跡地でした。病院と教会は、キリスト教の禁教令によって1614年に破壊されましたが、当時、南蛮人によって掘られた井戸は、現在も本蓮寺の一角に残されています。  創建後、大村藩や長崎代官から資金を得て寺地を増していった本蓮寺は、1648年に朱印地に指定され、長崎三大寺のひとつとして重要な役割を果たしていました。敷地内にあった大乗院という末寺は、長崎を訪れた幕臣などが宿舎として使用したようです。1805年、長崎奉行所勘定役として着任した大田直次郎(南畝)は2ヶ月ほど滞在。直次郎は、蜀山人という名で狂歌師、洒落本の作家として江戸で活躍した人物です。また、その50年後の幕末には、海軍伝習所の伝習生であった勝海舟が4年ほど滞在しています。  本蓮寺の後山には、長崎奉行や長崎代官をはじめ、長崎南画の三筆のひとり三浦悟門、海援隊の沢村惣之丞など、江戸時代の長崎で活躍した人々のお墓があり、そうした史跡を訪ねる人の姿が後を絶ちません。   江戸時代から続く由緒ある本蓮寺の本堂や諸堂は、残念ながら原爆のときに消失。現在の建物は戦後、再建されたものです。痛烈な諸行無常を味わった本蓮寺。ハスの花は昔もいまも変わらぬ美しさで、人々を見守っているようでした。

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  • 第42回 長崎料理ここに始まる。(十四)

    前回にも記しましたが、私は昭和五十五年一月十一日より同年末の十二月十九日まで四十二回にわたり、西日本新聞に「長崎味覚歳時記」という長崎県下の食の文化史を書かせて戴いた。以来、私は長崎県下の食文化の楽しさとその歴史を勉強させて戴いた事を今しみじみと思い出し、これ迄に各方面よりお寄せ戴いたご支援に感謝申し上げている。本冊子には前回迄に平戸、大村、五島方面の事を記したので今回は島原方面の食の文化を訪ねる事にした。一、原山支石墓群の籾痕土器と稲作文化▲蘭染付小花瓶(伊万里焼) 我が国に最初に稲作が始まった事について戦前は弥生時代とされていたが、戦後の考古学の研究によりその稲作発祥の時期に新説が取り上げられている。この新説についての第一歩を踏み出されたのが島原市在住の古田正隆先生の発見から始まると言っても過言ではない。 私が古田先生の許を訪ねたのは戦後の昭和二十四・五年頃であった。古田先生はたしか朝鮮より引き上げられ島原港地区で奥様が旅館を経営され、ご本人は考古学の研究に専念されておられたとお聞きした。 戦後当時の長崎には長崎大学内に文学部がない事もあり考古学専攻の先生方がおられなくて、私は長大医学部法医学教室で考古学的人骨も研究しておられた内藤先生をお訪ねし色々とご教示を戴いた思い出がある。其の時、内藤先生から「島原の古田氏を訪ねてみなさい」と言われた。 当時、島原と言えば宮崎康平先生が有名であられた。先生は時々長崎上筑後町の勧善寺に滞在されておられたので、私は宮崎先生の許に出かけ「ヤマダイ国」のお話をお聞きし、其の時、古田先生をご紹介していただいた思い出がある。 古田先生の功績は今考えると日本の考古学上によせられた大いなるものがある。其れは我が国における稲作は弥生時代からであるとされていた事に対して古田先生が北有馬町原山(現南島原市)の梶木遺跡の発掘によって縄文時代晩期(二四〇〇年前)の「山ノ寺式土器」を現在認定されている土器に籾の庄痕を発見された事によって、稲の渡米には水稲とは別に大陸より陸稲が既に渡米していた事を論考されている。そしてその遺跡には支石墳も発見され現在は国指定史跡に認定されている。 私は原山の史跡地を訪ねた事がある。其地は島原市より雲仙に登る国道の最上段にありすぐ近くに雲仙があった。こんな山の上に古代人は住み、我が国で最古の稲作をしていたのである。いったいこの稲作の籾は何処より運ばれたのであろうか、支石墓文化と関係があるのであろうか等と考えてみた。県下の支石墓文化遺跡としては北松の鹿町(現佐世保市)にも国指定史跡大野台支石墓群があるし、北松田平町の里田原史跡(県文化財史跡)にも支石墓や水田の跡もあり、この地と共に県下稲作文化の遺跡が発見されている。 我が国の食文化の伝来発祥については、稲作の文化は第一に考えねばならぬ事である。其の第一歩の発見が島原の古田先生にあった事は島原の稲作を中心にした食文化研究には意義深いものがあると私は考えている。二、須川ソーメン昭和五十九年、発刊の長崎県大百科辞典(長崎新聞社編集)には「本県を代表する食品工業として、島原半島の手延素麺が挙げられ、全国生産の五分の一を占め、兵庫県に次ぐ大産地である事は意外と知られていない。島原半島では西有家町の須川地区を中心に産地形成が進み須川ソーメンとして知られている」と記してある。 一体に我が国に於けるソーメンの歴史は古い。勿論初期のソーメンは「手のべソーメン」であり現在のように多産の製麺機、ヨリ機、掛機が発明導入されたのは明治末年から大正期にかけてからである。(一九八八年長崎県高技研究会編輯・長崎県の自然と生活)▲陶製桃置物(中国無錫) 須川地区を中心に須川ソーメン業が大いに発展した理由として同書には三つの事をあげている。 第一は奈良の三輪のソーメン業者より昭和三十年頃より下請け加工産地として出荷量が急増した事。第二は他県での製品は二回工程であるのに須川での工程は一回。次いで島原方面は気温が高く強力粉の比重が高い。第三には他産地より労働力が安かったからである。 須川ソーメンは昭和五十五年頃より韓国ソーメンの輸入や冷夏や製造者名の事などにより現在は生産をやや「手控え」ているとの事である。然し県下では「須川ソーメン」の名は有名である。 ソーメンの歴史を記してあるものとしては、江戸時代の医学者寺島良安が三十有余年かけて大成した「和漢三才図絵」百五巻に詳しい。 ソーメンの事は其の巻第百五に次のように記してある。  索餅(そうめん・ソンビン)和名は牟岐奈。「語林」に魏の文帝が何晏に熱湯餅を与えたとあるは、索餅のことであり、ソーメンの始めは漢と魏の間に始められたと考える。・・・・・・索餅とは俗にいう素麺の事である。・・・・・・我が国にては七月七日(たなばた)に之を贈る。備前の三原、奥州の三春の産は細く白くして良いもの也。予州・阿州のも劣らない。和州の三輪のものは昔から有名であるが佳くない。大阪で最も多く造って四方で発送する。 ソーメンは明治時代以前は全てが「手のべソーメン」であり全国各地でつくられていた。長崎のソーメン資料としては一六〇二年長崎のイエズス会で編纂された「日本ポルトガル辞書」(原本ポルトガル語)に次のように記してある。Somen.ZoRo.(ソーメンの婦人語)Somenya(ソーメンを売る店、又は造る家)Vdon 小麦粉をこねて非常に細く薄く作ったものでソーメンのようなものでQuirimugi(切麦)のような食物の一種 これによると長崎・島原地方でもキリシタン時代すでにソーメンが作られていた事がわかる。参考資料としては長大教授西川源一先生著「須川船の研究」を一読しておかれるとよい。(以下次号)第42回 長崎料理ここに始まる。(十四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第547号【ビワの季節】

     梅雨入りを前に、長崎の家々の軒先ではアジサイが咲きはじめました。庭や歩道脇に植えられたビワの木もたくさんの果実を実らせています。あらためて見ると長崎は、ほかの九州のまちと比べてもアジサイとビワの木がとても多い気がします。温暖な気候に合っているというのはもちろんですが、アジサイは、出島のオランダ商館医シーボルトゆかりの花として、長崎市の花に指定されていることもあり、地元の人にとってはとくに親しみのある植物です。そして、ビワも江戸時代に中国から長崎に伝えられたものが、長崎市茂木地区を中心に生産される「茂木ビワ」として育まれ、いまでは全国一の生産量を誇っています。こうした歴史的背景が長崎のまちや人々のなかに根付いた大きな理由なのでしょう。  ジューシーでやさしい甘さが特長のビワは、昔から咳やノドの痛みに効果があるといわれています。ビワの果肉には体内でビタミンA(粘膜や皮膚の健康維持、視力維持などの働きがある)に変換されるβ-カロテン、βクリプトキサンチンを含み、さらにビタミンB群、りんご酸、クエン酸、ビタミンCなど身体にうれしい栄養素が含まれています。夏に向かう身体づくりに役立つビワ。旬を逃さず、積極的に食べたいフルーツです。  たわわに実ったビワから視線を下ろすと、赤い小さな穂をつけた植物が石垣をおおっていました。その姿からクローバの仲間の「ストロベリーキャンドル」だと思ったのですが、よく見ると様子が違います。赤い穂は、エノコログサのようにフサフサで、葉もクローバー系ではありません。「キャッツテール」という植物でした。原産地は西インド諸島。四季咲きの多年草で、近年、観賞用として人気のようです。  中島川にかかる石橋のひとつ桃渓橋でもかわいい花を見つけました。石と石の間に根を下ろしたその植物は筒状の黄色い花をいっぱい付け、葉はセリに似ています。これは、たぶん「キケマン」という植物。ケマンは、寺院のお堂を飾る「華鬘(けまん)」からきたもので、花の形がそれに似ているからだとか。紫色をした「ムラサキケマン」とともに山地や平地でときどき見かける植物です。  小さくかわいらしい「キャッツテール」や「キケマン」とは対照的ともいえる大きな花が公園に咲いていました。「タイサンボク」の花です。直径50〜60センチほどの大輪で、厚みのある白い花弁はクリーム色をおびています。花の中央には円錐状になったオシベとメシベが鎮座。その姿にはどこか雄々しさが感じられます。そんな花の印象が気になって調べてみると、「タイサンボク」は1億年以上も前(白亜紀)に出現したモクレン科の広葉樹で、その頃の「花」の形を現代まで残しているとのこと。1億年前といえば、恐竜の時代。なんだかスゴイ話です。   さて、日に日に夏めくなか、季節とばかりに花から花へと舞っているのはアゲハチョウです。ひと口にアゲハチョウと言っても、漆黒の翅(はね)が美しいクロアゲハ、黄色の地に黒の線と青や橙色の文様の入ったキアゲハ、黒地に赤、白、橙色の文様があるナガサキアゲハ、青や緑など色彩豊かなカラスアゲハなどいろいろな種類がいます。チョウのなかでもアゲハチョウの飛ぶ姿は大人びた優雅さがあります。ちょっと観察してみませんか。

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  • 第546号【5月の陽気に誘われてまち歩き】

     5月5日の端午の節句、さわやかな陽気に誘われてまちへ出ると、商店街の一角で菖蒲の葉を売る人の姿が。「そうそう、菖蒲湯に入らねば!」と思って近づくと、山と積まれた菖蒲の葉とともに、蓬(よもぎ)と茅(カヤ)を束ねたものもありました。「これは?」と露店のおばさんに尋ねると、「このあたりの風習で、端午の節句に軒先に3束ほどをぶらさげるとけど、知らんとね?」。「初めて聞きました」。「ああ、そうね。お年寄りのいる家では、まだやっているところも多いよ。でも、いま頃はビルに住む人の多かけん、こういうことをする家も少なかね」と残念そう。邪気払いの意味があるという蓬と茅の束には、菖蒲の葉も数本添えて軒先に下げるそうです。あとで調べてみると、端午の節句のこうした風習は全国的にあるようでした。  菖蒲の葉を買い物袋におさめてまち歩きを続けると、どこの公園でもベンチに座ってのんびりと過ごす人々の姿が見られました。若葉を茂らせた公園のクスノキは、その香りを風にのせてまちじゅうをリラックスさせているよう。クスノキを根元から見上げると、幹や枝の表面にはノキシノブが群生していました。ノキシノブは細長い葉を持つシダ植物の一種。家屋の軒端に忍ぶように生えることからノキシノブという名前が付けられたそうで、和歌にも詠まれた植物のひとつです。クスノキの樹皮はほどよい厚みがあって、縦横に裂けているので、ノキシノブが着生しやすい環境なのでしょう。樹皮はところどころコケにもおおわれ、いろいろな植物の生命の営みが感じられました。  クスノキの近くでは、スズメの親子とも遭遇。親鳥はたいへん子煩悩で、卵からかえると1日に300回近くもヒナにエサを運ぶそうです。巣立ったあともしばらくはエサを与えます。見かけた親子もちょうどそんな時期。幼鳥がクチバシを大きく開けて、親鳥にエサをちょうだいとアピールしていました。野鳥ガイドブックによると、スズメは桜の咲く頃に産卵。ヒナを育てあげると、夏の終わり頃までに、もう1、2回次の子育てを行うそうです。「チュン、チュン」という鳴き声とともに、日々見かけるスズメですが、実は知らないことだらけだなあと思いました。   長崎港へ出て、オレンジ色の大きな球体が目立つ「ドラゴンプロムナード」へ。船着場のそばにあるこの建物は、貨物上屋(かもつうわや)。つまり、港に入る荷物を一時置いておく倉庫なのですが、建物の上部は催しなどが行えるスペースがあり、最上部には展望デッキが設けられています。とはいえ、建物の一部にさえぎられて港湾や市街地を思う存分一望することはできません。ただ、新しく建てられた長崎県警と長崎県庁が並んで建つ景色は、ここからがいちばん見やすいかもしれません。その眺めを楽しんでいた時、ふと、長崎県庁の屋上ではためくものに気付きました。その日が端午の節句だったこともあり、「もしや、鯉のぼり?」と思ったのですが、望遠レンズで撮ってみると、風観測に使用する吹き流しだと分かりました。後日、県庁の広報課に問い合わせてみると、屋上にはヘリポートがあり、風向きと風速を知るために常時、吹き流しを設置しているそうです。その大切な役割はさておき、この日の吹き流しは、五月の風にあおられて、鯉のぼりさながらたいへん気持ち良さそうでありました。

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  • 第41回 長崎料理ここに始まる。(十三)

    私が本稿を「みろく屋」前社長山下泰一郎氏の御依頼を受け第一輯を掲載したのは平成四年十一月であり、それより今年は二十年となった。 私は昭和二十四年頃より自分の興味もあり、長崎県下の各種文化の調査のため歩き回り、その中には「食の文化」関係も多くあった。その資料の中より本輯の三十七号に対馬、三十八号に小値賀、三十九号に西彼杵、四十号に福江方面の事を記したので今回は諫早方面のことを記す事にした。一、はじめに▲岩田義實氏作品(佐賀の陶芸家) 我が国の歴史研究基礎資料として第一に取り上げねばならぬのは「風土記」であるとされている。風土記の編輯は和銅六年(七一三)に始まるという。現存する風土記は出雲・播磨・常陸・豊後の五風土記のみであるが、完本は出雲風土記のみで、他は多く文章が失われている。肥前風土記もその大半が失われている。 肥前風土記は肥前地方すなわち現在の長崎・佐賀両県の地方史である。天平五年(七三三)頃の編纂とされ、其の内高来郡内には郷九所。里二十一。駅四所。烽五所。と記してある。 現存する「肥前風土記」内には「土歯池」と「峯湯泉」の二つの記事のみが残っている。峯湯泉の説明文の中に湯は「出南高来峯西南の峰」とあるので当時より「高来の郡」は南高来・北高来と分かれ、その南北高来の交点が愛(相)野であったという。 高来を古くは「タク」と読み、次いで「多加久」と呼んだとある。意味は高い山がある処という。そして、南北に高い山がある処となれば南に雲仙、北に多良岳という事になる。現在のように長崎県南高来郡・北高来郡となったのは明治十一年からである。二、諫早の事 承平年間(九三一~)編纂された和名抄に高来郡新居(ニイ)郷とあり、之の新居郷が現在の諫早駅付近であるとされ、更にニイの語は転じて西郷になったと説明されている。(諫早市史)次に諫早小野地区には古代の条里遺構や古墳も多く残っている。その故に諫早の農耕の歴史は古く豊な農地が多かった。 延長五年(九二七)編の「延喜式」には「船越駅」の名があり、鎌倉時代の建久八年(二九七)には「伊佐早村 田畠五十丁ばかり」と記してある。(宇佐八幡宮御神領大鐃)この事より当時諫早地方には大分県の宇佐八幡の所領地があった事がうかがえる。三、食の文化▲伊万里焼小盃(越中文庫) 前述のように諫早地区は古代より開拓された豊な土地であったので多くの戦乱もあった。天正十八年(一五九〇)龍造寺政家は豊臣秀吉より諫早地区に二万二千五百石を受領している。更に江戸時代の記録をみると、本明川を中心とした大洪水の記録が九回もあり大きな災害にあっている。 然し諫早の人達はこの全ての災害にもめげず復興している。豊な農地と藩政の協力があったからである。 諫早藩では毎年正月七日前後、藩内各村日割りを決め定められた場所で農家の人達を招いて「フンミャア」があった。フンミャアと言うのは「振舞」という言葉の方言であり、この時に用意された料理は次のようであった。 大魚 一切。鯨(鱠)一切。大根 二切。盛切飯 三枚とも竹へぎ也。酒 京焼茶碗。尤 飯は精米一升に餅米三合さし(諫江百話) 次に諫早の食文化と言えば、諫早おこしに、鰻の蒲焼である。共に贅沢なお持てなしである。 現在のような諫早の鰻料理には何時頃より始まったのであろうか。「嬉遊笑覧」をみると「元禄頃にはかばやきなかにしや」と記し、安永頃(一七七二)より江戸前うなぎが売り出されたと記してあるので其の後、柳川・諫早方面にも伝わってきたと考えている。但し正徳二十二年(一七一二)発刊の和漢三才図会には次のように記してある。 馥焼(かばやき)中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美(よろ)し、あるいはナデ醋(す)にひたして食べることもあり。多く食べると、頬悶して死ぬることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり。 オコシは平安時代に我が国に伝えられた興米仁に由来すると嬉遊笑覧は記している。諫早のオコシは鎖国時代・唐船により伝えられた中国の麹と黒砂糖を巧みに利用し生産された銘菓であるとお聞きしている。四、おわりに 私は昭和三十年頃、諫早小野地区の歴史に興味を持ち同地区代表の小川充弘氏に大変お世話になった。 小川さんが諫早ではドウキンが一番うまいので食べに来なさいと言われる。ドウキンは諫早の魚屋には売っていないので潟スキーに乗って獲りに行くので私にも一緒に来ないかと言う。私は潟スキーには乗れないので、小川さんの家で待っていた。ドウキン料理は頭を落とし肝は別の皿に入れ、魚の身は塩でもんで良く洗い、鍋に先ず魚の肝を入れて炒りやきにする。そしてその油が出たところで魚の身を入れ、ミソで味をつけ、煮汁で干大根を煮付ける。美味である。 数日後、再び小野の高橋義久先生より電話あり、潟スキーで獲れたアゲマキを食べにこないかと言われる。「アゲマキの天ぷらは諫早で一番うまいぞ」と言われる。然し私が一番舌鼓を打ったのは高橋先生の奥様が「最後におのみになって下さいね」と言われて出された貝の煮汁でした。私は今でも其の味は頭に残っている。(以下次号)第41回 長崎料理ここに始まる。(十三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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