徳川15代将軍

初代将軍/徳川家康の生涯と家系図・年表 - ホームメイト

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「徳川家康」は江戸幕府を開き初代将軍となった人物です。天下人となり多くの武将から信頼を得た徳川家康ですが、その半生は波乱に満ちていました。現代でも「好きな戦国武将」のランキングで必ず上位に入るほど様々な世代から愛されていますが、実際の徳川家康とはどのような人物だったのか。その生涯を中心に、初代将軍・徳川家康の逸話やゆかりの地についてご紹介します。
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松平姓時代の徳川家康

徳川家康の幼少期

竹千代像

竹千代像

1542年(天文11年)12月26日、「徳川家康」は三河国(現在の愛知県東部)岡崎城で、松平氏8代当主「松平広忠」(まつだいらひろただ)の嫡男として誕生。

幼名は「竹千代」(たけちよ)と言い、これは愛知県碧南市の「大浜てらまち」と呼ばれる地域にある時宗(じしゅう:鎌倉仏教のひとつ)の寺院「大浜称名寺」(おおはましょうみょうじ)が命名したと言われています。

松平家の未来の当主として生まれた竹千代ですが、幼少期の頃にある事態に見舞われることに。それは、当時勢力を急拡大していた「今川義元」の人質となることです。

当時、松平広忠は「織田信秀」(おだのぶひで:織田信長の父)による三河進攻に対抗するため、今川義元へ加勢を願っていました。すると、今川義元はその見返りとして竹千代を人質に要求したのです。こうした人質交渉は戦国時代においては珍しいことではありませんでしたが、竹千代はわずか6歳と言う年齢で親元から離れることを余儀なくされました。

竹千代は、駿府(現在の静岡県静岡市)に向けて旅立ちますが、このときに問題が発生します。なんと、竹千代の警護として傍に付いていた家臣が裏切り、竹千代を1,000貫文(一説によると100貫)で織田軍に売り飛ばすという暴挙に出たのです。

竹千代の父・松平広忠は当時21歳。この時代、若い主君を見限り他家へなびく家臣は少なくありませんでした。

徳川家康が今川家の支配から逃れるまで

織田家で人質として過ごすこと約2年。竹千代は8歳になったときに人質交換をされて、今川義元のもとへと移されます。

なお、この時点で父・松平広忠は24歳と言う若さですでにこの世を去っていたうえに、次期当主である竹千代は今川義元の人質として駿府で過ごしていました。

そのため、岡崎城は松平家家臣が城代(城主の代理で城を守る役職)として守っていましたが、実質的に今川氏に支配された形で存続していました。

1555年(弘治元年)、竹千代は元服を迎え、今川義元から「元」の名前を賜り「次郎三郎元信」(じろうさぶろうもとのぶ)に改名。また、それから2年後には「元信」から「元康」(もとやす)へと名前を変えています。

当時、今川義元は松平元康を今川家の家臣として活躍させることを目論んでいましたが、1560年(永禄3年)に「桶狭間の戦い」が勃発し、今川軍は織田信長の急襲に遭い、敗戦。25,000もの大軍で尾張国内に攻め込んだ今川義元は、織田信長に討ち破られてしまいます。

桶狭間の戦いは、織田信長の「奇襲戦」や「情報戦」とも言われている戦いです。今川軍は1560年(永禄3年)、織田軍が包囲している「鳴海城」(なるみじょう:現在の愛知県名古屋市緑区)や「大高城」(おおだかじょう:現在の名古屋市緑区)へ攻撃を始めます。

今川義元は25,000もの兵力を分散させながら進軍していたため、今川義元を守る兵は5,000人ほど。このとき、織田軍4,000人の戦力と差はありませんでした。一方、織田信長は常に今川義元の情報を探り、動きを把握。

今川義元の周囲が手薄になっていることを探りながら、ついに「桶狭間山」に今川義元が休息しているという情報を突き止めた織田信長は、一気に今川軍の本隊に奇襲をかけ、今川義元を討ち取ったのです。

なお、松平元康は今川軍に参戦していました。松平元康は先鋒を任され、大高城に兵糧を運び入れることに成功。しかし、松平元康は今川義元が敗れたことを知ると、大高城を離れ、三河国岡崎の「大樹寺」(たいじゅじ:現在の愛知県岡崎市)へ入ります。その後、生地である岡崎城へ入城しました。

徳川家康と戦国時代の武将相関図

徳川家康に関連する人物を地域ごとに相関図でご紹介します。

徳川家康(地域別)_相関図

徳川家康(地域別)相関図

下積み時代の徳川家康

「松平」姓から「徳川」姓へ改姓

桶狭間の戦いから2年後の1562年(永禄5年)、松平元康は今川義元の支配から逃れ、織田信長と面会を果たして軍事同盟「清洲同盟」を締結。さらに、翌年の1563年(永禄6年)になると名前を「松平家康」へ改名します。

松平家康へと改名した翌年の1564年(永禄7年)、「三河一向一揆」を鎮圧させて三河国を統一。それから3年後の1566年(永禄9年)、朝廷から「従五位下三河守」(じゅごいのげみかわのかみ)に叙任され、松平家康は松平姓から「徳川」姓に改名し、徳川家康と名乗り始めるのです。

神君伊賀越え

徳川姓になってからも、徳川家康は織田信長の天下統一事業を助けながら過ごしていました。甲斐国(現在の山梨県)を支配していた強敵「武田家」を打ち破り、その戦功を織田信長から讃えられて駿河国を与えられるなど、織田信長と友好関係を続けていた矢先の1582年(天正10年)のこと。この年に起きたのが、「本能寺の変」です。

知恩院

知恩院

徳川家康は、この事変が起きる前日から堺(現在の大阪府堺市)で商人と茶会を開いていました。

織田信長が討たれたと報告を受けたとき、徳川家康は松平家とゆかりのある「知恩院」(ちおんいん:京都市東山区にある浄土宗の総本山の寺院)へ駆け込んで自刃すると騒ぐほど取り乱したと言います。

徳川家康の気を静めたのは伴っていた従者達で、当時は30名余りの家臣がいました。

そのなかには「徳川四天王」の「本多忠勝」や「井伊直政」など、武勇に優れた家臣も多くいましたが、もしも大軍に襲われれば無事では済みません。家臣達の説得に応じて気持ちを落ち着かせた徳川家康は、わずかな手勢で三河国へ帰国することに。

これは「神君伊賀越え」と呼ばれるできごとで、このとき徳川家康が警戒しなければならなかったのは、織田信長を討った「明智光秀」の共謀者だけではありませんでした。村を侵入者から守るために武装した農民による「落ち武者狩り」は、武士ですら脅威の存在だったのです。

一説によると、本能寺の変のあと、明智光秀は落ち武者狩りに遭って、そのときに受けた傷が悪化したことで絶命したと言われています。

小牧・長久手の戦い

本能寺の変から2年後の1584年(天正12年)、徳川家康は「豊臣秀吉」と対立する織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)の側に就いて豊臣秀吉軍と対峙することに。

1584年(天正12年)3月に開戦したこの戦いは「小牧・長久手の戦い」と言い、尾張北部の「小牧山城」(愛知県小牧市:別称[小牧城])、「犬山城」(愛知県犬山市)、「楽田城」(がくでんじょう:愛知県犬山市)を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北部・紀伊(現在の和歌山県三重県南部)・和泉(現在の大阪府南西部)・摂津(現在の大阪府北西部、及び兵庫県南東部)の各地が戦場となりました。

約16,000人の徳川家康・織田信雄軍に対して、豊臣秀吉軍は約100,000人。兵力では圧倒的に不利な状況にもかかわらず、小牧山での奮戦によって徳川家康達は豊臣秀吉軍を撃退。

そののち行われた長久手の戦いでは、徳川家康軍が豊臣秀吉軍を襲撃。豊臣秀吉軍の「池田恒興」(いけだつねおき)をはじめとした名だたる将を討ち取ると、豊臣秀吉軍は敗北を喫します。小牧・長久手の戦いは両軍、勝敗が互角のまま、途中で休戦などを挟みながら8ヵ月に亘って続けられました。

小牧・長久手の戦いが終結したのは、1584年(天正12年)11月12日(一説には11月11日)、戦況が次第に豊臣秀吉軍へ傾きつつあった頃のこと。豊臣秀吉が織田信雄へ対して「豊臣家に伊賀[現在の三重県伊賀市]と伊勢半国の割譲すること」を条件に講和を申し入れたのがきっかけとなりました。敗戦が増えたことで危機感を抱いていた織田信雄はそれを受諾。

徳川家康は、援軍として参戦していたため三河へ帰国し、そのあとは豊臣秀吉に恭順しながら天下人となるための機会を窺い続けました。

徳川家康に転機が訪れるのは、1598年(慶長3年)になってからです。このとき、徳川家康は56歳。織田信長や豊臣秀吉に恭順し、「鳴くまで待とう」の精神で待ち続けた徳川家康は、ついに動き出します。

関ヶ原の戦い~江戸幕府を開くまで

関ヶ原の戦い

徳川家康は、武田軍の旧家臣や北条氏の家臣を迎え入れ、申し分ない軍事力を蓄えていました。豊臣秀吉が没したあとはその遺言にしたがって「五大老」の筆頭になりますが、遺言を無視して豊臣政権に反発する動きを見せます。

石田三成」は、勝手な真似をする徳川家康に激怒。このとき、徳川家康は天下を取るうえで石田三成が必ず邪魔になると考えていたため、「福島正則」(ふくしままさのり)をはじめとする、豊臣家に仕えることを悩んでいた豊臣家の家臣らを味方に付けます。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、五大老のひとり「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いをかけて、討伐軍を結成。

同年に起きる「関ヶ原の戦い」のきっかけになったこのできごとは、「会津征伐」と呼ばれており、上杉景勝を討つために大軍が会津(現在の福島県)へと進攻。

ほどなくして、徳川家康の目論見通り「石田三成が挙兵した」という報せが入ったため、軍の行先を石田三成のもとへと変更します。

豊臣家に忠義を誓っていた大名らに不満を抱いていた諸大名を集め、東軍を結成し、徳川家康は美濃国関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)で石田三成ら西軍と相対するのです。

関ヶ原の戦いは、本戦が始まってから約6時間と言う短時間で、東軍の勝利によって決着。兵力差に差がなかったにもかかわらず、西軍が敗走した理由は、西軍から東軍へ寝返る者が多数いたためと言われています。

敗軍の将となった石田三成は、逃亡先で捕縛されて処刑。また、西軍に就いていた諸将も処刑・改易・減封に処されて、このときに召し上げられた所領は東軍諸将に加増分配したり、徳川家康自身の領地として加増したりしています。

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将軍としての徳川家康

徳川家康

徳川家康

1603年(慶長8年)、徳川家康は征夷大将軍となって、江戸幕府を開きました。

しかし、徳川家康は将軍となってからも豊臣方の反乱を阻止するために目を光らせる必要があったため、頻繁に上洛した他、西国で抵抗を示す大名に戦を起こす時間を与えないように、諸大名へ江戸城東京都千代田区)の普請を命じます。

1605年(慶長10年)になると、徳川家康は将軍職を三男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)へ譲り、駿府城(すんぷじょう:静岡県静岡市)へと移住。1614~1615年(慶長19~20年)には、「大坂冬の陣・夏の陣」によって豊臣家を完全に滅亡させ、天下を完全に掌握することに成功しました。

なお、「大坂冬の陣」は、1614年(慶長19年)11月、徳川家康と徳川秀忠を大将とした江戸幕府と、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を大将とした豊臣家が激突した合戦です。この合戦のきっかけとなったのは、同年9月に起きた「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)と言われています。

豊臣家が再建した方広寺へ収めた梵鐘に「国家安康」[君臣豊楽]と刻まれていることを知った徳川家康は、「徳川家康の名を分割し、豊臣の繁栄を祈願している」と激怒。豊臣家は誤解を解くために、家臣の「片桐且元」(かたぎりかつもと)を遣わせますが、徳川家は拒否します。

やがて、豊臣家と徳川家の間に亀裂が入ったことがきっかけとなり、開戦となりました。徳川家康は大坂城に攻め込みますが、豊臣秀頼の奮戦で落城には至りません。そこでいったん和議を結びます。そのあと、1615年(慶長20年)4~5月にかけて再び、徳川家と豊臣家の間で起きた戦いが、「大坂夏の陣」です。

大坂冬の陣における講和条件において、二の丸の破却と堀の埋め立ては豊臣家が、三の丸と外堀は徳川家が行うというものでした。しかし、工事を開始した徳川家は豊臣家に断りもなく、すべての堀を埋め立てます。

豊臣家は埋め立てられた堀を復旧しようとしますが、報せを受けた徳川家康は、これを咎め、豊臣家に大坂を立ち退いて伊勢国(現在の三重県)や大和国(現在の奈良県)へ移るか、大坂城の浪人を解雇するかを迫りました。

しかし、豊臣家がこれに応じなかったため、交渉は決裂し、再び両軍が激突。守りの要であった総堀を埋め立てられた大坂城は、奮戦もむなしく陥落し、豊臣秀頼は母・淀殿とともに自害。豊臣家は滅亡しました。

そののち、徳川家康は趣味としていた鷹狩りに興じますが、大坂冬の陣・夏の陣から翌年の1616年(元和2年)1月に鷹狩りの最中に倒れ、3ヵ月後の4月17日にこの世を去ります。

徳川家康の逸話

①徳川家康が質素倹約に務めた理由

徳川家康の逸話としてよく知られているのが、「徳川家康はケチだった」と言う話。

自分が着用する着物はいつも同じで、それを周りに指摘されたときは「倹約している」と返答したり、下着も多少の汚れ程度であれば繰り返し使ったり等、なかなかの逸話が残されています。

また、お城で働く女中にとてもよくご飯を食べる者がいたため、徳川家康は漬け物の味付けを塩辛くさせて、女中のおかわりを減らすようにしたと言う話も存在。自分だけではなく、周囲の人達にも倹約することを強要していたことが、「徳川家康はケチ」説に拍車をかけたと推測されます。

しかし、こうしたできごとの裏には必ず深い理由が存在するもの。じつは、徳川家康や家臣が倹約に務めていたのは、幕府で使用する財源を賄うためでした。お金が不足すると、大切な儀式や行事すら開催することができません。

伊勢神宮の式年遷宮

伊勢神宮の式年遷宮

例えば、三重県伊勢市にある「伊勢神宮」の「式年遷宮」。式年遷宮とは、一定の周期ごとに社殿や神宝を新調して、旧殿の神体を遷す神宮最大の神事のことです。

伊勢神宮では20年に一度、約1300年の永きに亘って繰り返し式年遷宮が行われています。しかし、南北朝時代の動乱期から室町時代までの120年余りの間は、式年遷宮が中断されていました。

その理由は、資金不足によるもので、そののち織田信長や豊臣秀吉などが遷宮費用を献納したことで復興しています。そして、江戸時代になってからは徳川家康が遷宮費用を負担することで、継続して遷宮が実施できるようになりました。

徳川家康の死後、徳川家康が残した莫大な遺産は、磐石な幕藩体制のなかで有効活用され、265年に亘る長い「平和の礎」になったのです。

②家臣を宝とした徳川家康

徳川家康の家臣は、三河国で活躍していたことから「三河武士」と呼ばれています。その強さは日本中に広まっており、徳川家康はそんな優れた家臣達をとても愛していました。それを裏付けるエピソードが「名将言行録」(めいしょうげんこうろく:戦国時代から江戸時代中期までに活躍した大名192名の言動を浮き彫りにした人物列伝)に存在。

豊臣秀吉が関白だった頃のこと。豊臣秀吉は、諸大名を集めて自慢の宝物を披露していました。そして、居合わせた徳川家康に「どんな宝物を持っている?」と問いかけます。これに対して徳川家康は「私は田舎生まれですので、秘蔵の品は持っておりません。しかし、私には命をかけて戦ってくれる武士が大勢おります。なので、この者達を宝と思い、いつも秘蔵しています」と返しました。予想外の言葉に豊臣秀吉は赤面して黙り込んだと言います。

また、「岩淵夜話別集」(いわぶちやわべっしゅう:徳川家康の事跡についての説話が年代順に記された資料)では、徳川家康の言葉として以下の言葉を収録。

「器物は何ほどの名物にても、肝要のときに用に立たず。宝の中の宝といふは、人にて留めたり」(器物はどのような名物であっても、肝心なときには役に立たない。宝の中でも特に宝と言えるのは、人材の他にない)。

このように、徳川家康は家臣達を皆公平に扱い、とても大切にしていたのです。

③医学の知識もあった徳川家康

徳川家康は、いわゆる「メタボ」な体形であったことで知られていますが、じつは医療の分野に深く精通していたため、現代で言う「セルフメディケーション」(自分自身で健康管理を行い、軽度な体の不調は自分で治すこと)が得意でした。

徳川家康の健康エピソードで有名なのは、以下が挙げられます。

  1. 自ら薬草を育て、内臓に効く薬や精力剤を作って飲んだ
  2. 食事の栄養バランスに気を遣っていた
  3. 粗食を心掛けていた
  4. 冷たい料理や飲み物は口にしなかった
  5. 地元で採れる、旬の食材を食べるようにしていた
  6. 野菜だけではなく、肉も適度に食べていた
  7. 運動を欠かさなかった
  8. 酒は「薬」として飲んでいた

徳川家康と霊剣「ソハヤノツルキ ウツスナリ」

徳川家康は、様々な名刀を所有していましたが、そのなかでも著名なのが「太刀 銘 妙純傳持ソハヤノツルキ ウツスナリ」と呼ばれる太刀です。本は、1584年(天正12年)頃に織田信長の次男・織田信雄から徳川家康へ贈られた刀で、徳川家康が最も大切にしていた1振として有名。

その溺愛ぶりは「合戦以外のときも身に付けていた」や、「夜は枕刀[まくらがたな:魔除けや護身のために刀を枕元に置くこと]として用いた」などのエピソードからも窺うことが可能です。

久能山東照宮

久能山東照宮

また、本刀が徳川家康へ与えた影響力の大きさは、徳川家康の遺言からも知ることができます。

その遺言とは、「西国の大名が謀反することのないように、本刀の鋒/切先[きっさき]を西へ向けて久能山東照宮へ安置するように」というもの。

本刀の力によってか、実際に江戸時代は265年続き、また徳川家は明治維新後も家系が絶えることなく現代まで続いています。

なお、太刀 銘 妙純傳持ソハヤノツルキ ウツスナリを作刀した刀工「三池典太光世」(みいけてんたみつよ)は、本刀以外にも「大典太光世」(おおでんたみつよ)と呼ばれる刀を作ったことでも著名。

大典太光世もまた、不思議な力がある刀として知られており、天下に名高い5振の刀「天下五剣」(てんがごけん)のひとつに数えられています。

ソハヤノツルキ
ソハヤノツルキ
妙純伝持
ソハヤノツルキ/
ウツスナリ
鑑定区分
重要文化財
刃長
69.6
所蔵・伝来
徳川家康 →
久能山東照宮
大典太光世
大典太光世
光世作
鑑定区分
国宝
刃長
66
所蔵・伝来
足利家 →
徳川家 →
前田家 →
公益財団法人前田育徳会

徳川家康の死因

徳川家康は、日頃から健康管理に努めて、粗食を心がけ、栄養バランスにも気を遣っていました。こうしたストイックな食生活のおかげで、当時の平均寿命を大きく上回る75歳の天寿をまっとうできたと考えられています。

その一方で、徳川家康は新しい物好きでグルメでもあり、月に何度かはおいしい食事を楽しんでいました。そして、徳川家康が亡くなったのは、そうしたご馳走の日に食べた天ぷらが原因だという説が長く一般化されていたのです。

天ぷらによる食中毒説は本当か?

徳川家康が食べた鯛の天ぷら(再現)

徳川家康が食べた鯛の天ぷら(再現)

1616年(元和2年)1月、徳川家康に「上方で流行している珍しい料理」として鯛の天ぷらが献上されました。

この頃の天ぷらは「付揚げ」(つけあげ)と呼ばれ、今のように衣を付けた揚げ物ではなく、唐揚げに近い料理。徳川家康は大いに気に入り、大量の天ぷらを平らげてしまいました。

ところが天ぷらを食べすぎたのか、徳川家康はその日の夜中に腹痛を起こします。それ以降、体調がすぐれず、医者がいくつかの薬を処方しましたが回復しません。朝廷からの勅使にも会わなかったという記録があるほどで、徳川家康はかなり衰弱していたのです。

こうした経緯から、徳川家康の死因は天ぷらによる食中毒だとする説がありますが、亡くなったのは天ぷらを食べた3ヵ月後のことで、食中毒だったとしても直接の死因とは言えません。

主治医を遠ざけ、自ら診断、調薬

薬の調合に用いた器具、薬研(やげん)

薬の調合に用いた器具、薬研(やげん)

諸説ある徳川家康の死因のひとつに常用していた薬の中毒説があります。徳川家康は薬学をよく勉強し、自分で薬や精力剤を調合していました。徳川家康は調合の際に毒性のあるヒ素や水銀を用いることがあり、これらが身体をむしばんでいたのではないかと言うのです。

また、この頃の徳川家康には、食欲不振や胸のつかえ、腹部のしこり、体重の減少、吐血などの症状があったことから、胃がんを患っていたのではないかという説もあります。これらの不調を徳川家康は、寄生虫によるものだと思い込み、下剤を服用し続けました。

徳川家康は薬学や医学に精通しており、医者が下剤の服用をやめるように進言しても聞かず、この医者を遠ざけたと言われています。自身の医学知識を過信するあまり死期を早めてしまったのかも知れません。

ささやかれ続ける毒殺説

徳川家康は毒殺だったという話もあります。何者かが日常的に少量のヒ素を盛っていたのではないかという説です。これを裏付ける確かな史料はなく、あくまでも俗説ですが、戦国時代には政敵を追い落とすのに毒を用いたケースが少なくありません。そのためか、多くの戦国武将を征して天下人になった徳川家康には、晩年まで命を狙われていたとする毒殺説が付きまとうのです。

徳川家康の名言

徳川家康は、三河国(現在の愛知県東部)の弱小大名家の嫡男に生まれ、幼少期から人質として有力大名のもとを転々とした苦労人。同時代には織田信長や豊臣秀吉をはじめとする多くの戦国武将がおり、覇権を争っていました。徳川家康はそうした時代を生き抜き、還暦近くになって天下人になっただけに、味わい深い名言を多く残しています。

人生に大切なことは、五文字で言えば、上を見るな。七文字で言えば、身のほどを知れ

この言葉は「大それた野心を抱かず、ほどほどに生きればよろしい」という、やや消極的な処世術のようにも受けとれます。

しかし、徳川家康は同時代のライバル達の動向を見守り、天下取りの機が熟すのを待ち続け、ついに天下人になりました。それを考えると「常に自分を客観視し、自分の役割や存在意義を見きわめて行動することが大志の実現につながるのだ」という意味に響きます。

世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ

戦場では勇猛果敢に攻め込む勇者が恐れられますが、徳川家康は「臆病者こそ用意周到で先走ることがない。かえって恐ろしい」と考えていました。また、徳川家康が織田信長や豊臣秀吉らに逆らわず、戦国乱世を慎重に生き残り、最後に天下を勝ち取った生き方に重なるようにも読み取れます。

滅びる原因は自らの内にある

武田信玄

武田信玄

「甲斐の虎」と呼ばれ、戦国最強と恐れられた「武田信玄」(たけだしんげん)が病死し、戦国武将の誰もが安堵していたときに徳川家康が家臣に言ったとされる言葉です。

「武田信玄という強敵がいたおかげで、我々は緊張を保ち、軍備を備えてきた。これからは強敵がいなくなったことで味方のなかに起きる油断や贅沢、不和、裏切りに注意しなくてはならない」という戒めでした。

武田信玄は、徳川家康が「三方ヶ原の戦い」で大敗した宿敵でしたが、その死に際しても気を緩めなかったのです。

怒ったときには、百雷の落ちるように怒れ

徳川家康は「堪忍は無事長久のもと、怒りは敵と思え」とも言っており、この「雷のように烈しく怒れ」という言葉とは矛盾するように思えます。しかし、家臣を率いるリーダーとして、ときには怒ることも必要。日頃は感情的にならず、肝心なときに全力で怒ることで、事の重大さを理解させようとする心構えでした。

いくら考えてもどうにもならぬときは、四つ辻へ立って、杖の倒れたほうへ歩む

熟慮と決断で不遇や敗北を乗り越えてきた徳川家康でさえ「考え抜いても解決策が見いだせないなら、運を天に任せるしかない」という気持ちになるときがあったのです。一方で、この言葉からは「天に認められた者なら、天は味方をしてくれるだろう」という、天下統一を目指す者ならではの自信や希望も読み取れます。

徳川家康ゆかりの地

岡崎城

岡崎城

岡崎城

愛知県岡崎市にある岡崎城は、1542年(天文11年)12月26日に、徳川家康が誕生した地です。

徳川家康は6歳で人質となり、岡崎城を離れることになりましたが、19歳のとき、桶狭間の戦いによって今川義元が討死すると、岡崎城に舞い戻り、今川家から独立を果たしました。

1570年(元亀元年)、徳川家康は本拠地を遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)に移し、岡崎城は、嫡男「徳川信康」(とくがわのぶやす)に譲っています。

岡崎城は、三河国の守護であった「西郷頼嗣」(さいごうよりつぐ)によって15世紀前半に築城され、1531年(享禄4年)、徳川家康の祖父「松平清康」(まつだいらきよやす)によって現在の場所へ移築されました。明治時代に城郭の大部分が取り壊されてしまいましたが、1959年(昭和34年)に天守閣が復元。「日本100名城」に選定されました。

現在は、岡崎城を中心に「岡崎公園」という歴史公園になっており、徳川家康が誕生した際の産湯に使われたという「東照公産湯の井戸」(とうしょうこううぶゆのいど)や、徳川家康のへその緒や胎盤が埋められたと伝わる「東照公えな塚」など、徳川家康にゆかりのあるスポットが数多く残されているのです。

日光東照宮

日光東照宮

日光東照宮

日光東照宮」(栃木県日光市)は、徳川家康を神格化した「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る神社で、全国に点在する「東照宮」の総本社的な存在として知られています。

「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたのちは日光山に小堂を建てて勧請せよ」という徳川家康の遺言通り、徳川家康は死後、ただちに「久能山」(静岡県静岡市)に埋葬されましたが、1年後には日光へ改葬されました。このとき、朝廷から東照大権現という神号が贈られ、江戸をはじめとする関八州(武蔵国・相模国・上野国・下野国・上総国・下総国・安房国・常陸国の八州で、関東地方の総称)の鎮守として祀られることになったのです。

日光東照宮は元々、現在ほど煌びやかな社ではありませんでしたが、徳川家康の孫で徳川家康を特に崇敬していたとされる江戸幕府3代将軍「徳川家光」により全国から名工が集められ、現在のように豪華絢爛な社に大改修されました。

徳川家康が関八州を鎮守する場所として日光山を選んだ理由に、日光山が江戸から見て不動の方角である北辰(北極星)の位置にあったからだとする説や、徳川家康は、自らを源氏の末裔を名乗っていたことから、崇敬する「源頼朝」が寄進をしていた日光を再興したいと願ったためなど、いくつかの説が存在します。

駿府城

駿府城

駿府城

駿府(駿河国における国府の所在地)は、徳川家康が人質として今川家に送られた幼年期と、江戸幕府を開いて大御所となり晩年期を過ごしていた、徳川家康にとって特にゆかりの深い地です。

駿河国を領国化していた武田氏が滅亡すると、駿河国の武田遺領(いりょう:残された領地)は徳川家康が支配することとなり、1585年(天正13年)から現在の静岡県静岡市葵区に駿府城が築城されることになりました。1589年(天正17年)に竣工しますが、その翌年、豊臣秀吉によって関東へ移封されたことで駿府城をあとにします。

1605年(慶長10年)将軍職を徳川秀忠に譲った徳川家康は駿府城に戻り、大御所政治の拠点としました。65歳から75歳で亡くなるまで駿府城で過ごしています。

徳川家康と家系図

江戸幕府は、その長である将軍が世襲制であったのにもかかわらず、260年以上もの間、徳川家康の血統を持つ人物が将軍となり続けました。これは、徳川家康が11男5女の子供を儲け、徳川宗家の他にも、「徳川御三家」と言われる、「尾張徳川家」、「紀州徳川家」、「水戸徳川家」の3つの分家を息子達に創始させていたため。

尾張徳川家は九男の「徳川義直」(とくがわよしなお)、紀州徳川家は十男の「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)、水戸徳川家は十一男の「徳川頼房」(とくがわよりふさ)がそれぞれ始祖となりました。

徳川家康家系図

徳川家康家系図

松平広忠

徳川家康の父・松平広忠は、1526年(大永6年)、西三河の土豪である安城松平家7代当主・松平清康の嫡男として誕生しました。父・松平清康は1代でほとんどの三河国を統一したとされますが、突如家臣の裏切りに遭い、死去。

松平広忠は、一旦は岡崎を出ることとなりますが、三河国にまで勢力を伸ばしていた今川氏の庇護を受けることで、1537年(天文6年)に岡崎城を奪還することに成功します。そののち、今川氏の庇護を受けながら尾張国(現在の愛知県)の大名・織田信秀と領土争いを繰り広げていくこととなりました。

1542年(天文11年)には嫡男・徳川家康が誕生しますが、織田氏との領土争いの最中、1549年(天文18年)に24歳の若さで死去。詳しい死因は分かっておらず、戦死や病死、暗殺されたとも言われています。

徳川秀忠

徳川秀忠

徳川秀忠

徳川秀忠は、徳川家康の三男で江戸幕府2代将軍となった人物です。

本来、長子が継嗣となる時代、三男であった徳川秀忠が次期将軍となった理由に、長男の徳川信康は、当時敵対していた武田家と内通していたという容疑を掛けられ、切腹に追い込まれたことや、次男の「結城秀康」(ゆうきひでやす)が徳川家ではなく、下総国結城郡(現在の茨城県結城市)発祥の大名・結城家を相続したことなどが挙げられます。

徳川秀忠は、関ヶ原の戦いで遅参したことや、2代将軍の跡を継いでからも、大御所・徳川家康が実権を握り続けていたことなどが影響し、派手な経歴もないため、現代では地味な印象を持っている人も多いでしょう。しかし、実際の徳川秀忠は優れた政治手腕を持っており、情に流されない強固な意志を持った人物でした。

大名を統制しただけでなく、「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)などの法を制定し、朝廷や寺社などにも厳しい支配体制を敷き、260年以上続く江戸幕府の礎を築き上げたのです。息子には3代将軍となる徳川家光がおり、徳川秀忠の血統は、7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が夭逝するまで存続しました。

千姫

千姫

千姫

千姫」(せんひめ)は、徳川秀忠の娘で、徳川家康の孫にあたる人物です。

1603年(慶長8年)にわずか7歳で「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に嫁ぎますが、1615年(慶長20年)、大坂の陣が勃発。千姫は夫・豊臣秀頼とその母「淀殿」(よどどの)の助命嘆願を行いましたが、2人は自害に追い込まれ、千姫は徳川家へ戻ることとなりました。

このとき、千姫は、「大坂城」(現在の大阪城:大阪府大阪市)から江戸へ向かう道中、桑名宿(三重県桑名市)から宮宿(愛知県名古屋市熱田区)までを結ぶ海路「七里の渡し」(しちりのわたし)で出会った「本多忠刻」(ほんだただとき)に一目惚れ。それを聞いた徳川家康は縁談をまとめ、千姫は桑名藩(現在の三重県)の本多家へ嫁ぎ、2度目の結婚生活を過ごすこととなりました。1男1女を儲けましたが、本多忠刻が1626年(寛永3年)に30歳という若さで死去。そののち千姫は出家して、弟・徳川家光を支えました。

なお、家系図をたどっていくと、江戸幕府最後の将軍である「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、千姫の血を引いていることが分かっています。

徳川家康の年表

西暦(和暦) 年齢 出来事
1542年
(天文11年)
1 三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生。
幼名は竹千代。
1545年
(天文14年)
4 人質として駿河国の今川義元のもとへ送られるが、途中で尾張国の大名・織田信秀のもとへ連れ去られる。
1547年
(天文16年)
6 今川義元の人質となり、駿府へ移る。
父・松平広忠が死去し、松平家8代当主となる。
1555年
(天文24年/
弘治元年)
14 元服して「松平元信」(まつだいらもとのぶ)と名乗る。
1557年
(弘治3年)
16 今川義元の姪「築山殿」(つきやまどの)と結婚。
1560年
(永禄3年)
19 桶狭間の戦いにおいて、今川軍の先鋒として出陣。今川義元が織田信長に討たれたことを知り、今川家から独立。
1561年
(永禄4年)
20 織田信長と和睦。翌年に、清洲同盟を締結する。
1563年
(永禄6年)
22 三河国を統一し、朝廷から従五位下三河守を叙任。改名し、徳川家康と名乗る。
1570年
(永禄13年/
元亀元年)
29 姉川の戦い」に参戦し、朝倉・浅井連合軍を撃破。本拠地を遠江国へ移し、「浜松城」(静岡県浜松市)を築城。
1572年
(元亀3年)
31 武田信玄の「西上作戦」により「一言坂の戦い」、「二俣城の戦い」(ふたまたじょうのたたかい)、「三方ヶ原の戦い」で武田軍と交戦。三方ヶ原の戦いでは大敗を喫す。
1575年
(天正3年)
34 長篠の戦い」において、織田・徳川連合軍で「武田勝頼」(たけだかつより)に勝利。駿河国の武田家遺領を領地とする。
1579年
(天正7年)
38 嫡男・徳川信康を内通の疑いで切腹させ、自らの正室・築山殿も殺害。
1582年
(天正10年)
41 大坂の堺を見物中に京で本能寺の変が起き、切腹を覚悟するものの、伊賀越えを行って三河国へ帰還。
1584年
(天正12年)
43 小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対立。
1586年
(天正14年)
45 上洛して豊臣秀吉に臣従する。駿府城築城開始。
1590年
(天正18年)
49 小田原の役」に参戦。関東に移封され、江戸城へ入城。
1600年
(慶長5年)
59 関ヶ原の戦いで西軍を破り、実権を得る。
1603年
(慶長8年)
62 征夷大将軍を叙任。江戸幕府を開く。
1605年
(慶長10年)
64 将軍職を三男・徳川秀忠へ譲り、自らは大御所として引き続き主導権を握る。
1614年
(慶長19年)
73 大坂冬の陣が勃発し、翌年の大坂夏の陣において豊臣家を滅亡させる。
1616年
(元和2年)
75 駿府城にて死去。
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2023年(令和5年)の大河ドラマ「どうする家康」のキャスト、そして徳川家康ゆかりの地についてご紹介します。