南北朝時代

足利義満の将軍就任 - ホームメイト

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足利義満(あしかがよしみつ)は足利義詮(あしかがよしあきら)の死後、わずか10歳で室町幕府の3代将軍に就任します。当初、補佐役の細川頼之(ほそかわよりゆき)主導のもとで幕府は運営されますが、「康暦の政変」(こうりゃくのせいへん)で細川頼之は失脚。その後、足利義満は自身の力で各地の守護大名を粛清し、将軍の専制政治を推し進めます。同時に、朝廷権力も掌握し、室町幕府の最盛期を築きました。

わずか10歳の足利義満が将軍に就任

1358年(延文3年/正平13年)足利尊氏(あしかがたかうじ)が病死すると、2代将軍には足利義詮が就任しました。

足利義詮は1353年(文和2年/正平8年)から1361年(康安元年/正平16年)までの間に南朝方に攻められ3度も京都を奪われますが、いずれも短期間で奪還。幕府は勢力を広げ、周防の大内氏や足利直義派の中心であった山名氏などが北朝に帰参し、将軍の支配する地域は畿内から中国へ広がっていきました。しかし、1367年(貞治6年/正平22年)足利義詮は病死してしまいます。

あとをわずか10歳の足利義満に継がせ、その補佐役を中国・四国の戦いで功績のあった細川頼之に託しました。この頃から将軍の補佐役である執事(しつじ)は管領(かんれい)と呼ばれるようになります。幕府の意思は管領を通じて諸国の守護に伝えられるようになり、執事以上に幕府政治の中枢で権力を振るうようになりました。

細川頼之の幕政改革と守護大名・寺社勢力からの反発

足利義満

足利義満

1368年(応安元年/正平23年)に、足利義満は征夷大将軍となります。細川頼之は将軍に変わって幕府政治を整えていきました。そのひとつが「応安の半済令」(おうあんのはんぜいれい)の発布です。

「半済令」とは、貴族などの荘園領主が管理する荘園年貢の半分を守護の取り分と認める法令のことで、1352年(観応3年/正平7年)、「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)の頃に幕府側の軍費調達を目的として初めて出されます。場所は近江・美濃・尾張、期間は1年と限られていました。

その後、徐々に範囲が拡大し、各地でこの法令を後ろ盾にした武士による事実上の押領が行われていました。

細川頼之の発布した応安の半済令で、皇族・寺社・摂関などが支配する寺社本所領について、武士が奪った所領を返すように命じます。これは、従来の半済令から公家や寺社の荘園を保護する目的がありました。そして、天皇家や摂関家との関係が強化され、のちの足利義満による朝廷の支配につながっていきます。

翌年の1369年(応安2年/正平24年)に南朝で孤立していた楠木正儀(くすのきまさのり)に細川頼之が誘いをかけ、投降させました。細川頼之は楠木正儀を河内・和泉守護に任じて、河内を攻略させ南朝の切り崩しにかかります。

しかし、楠木正儀の優遇を良しとしなかった諸大名はこれを非難し、河内攻略に協力しませんでした。その結果、細川頼之は隠居を申し出ますが、このときは足利義満自ら西芳寺(さいほうじ)に赴いてこれを慰留します。その後も、細川頼之と有力守護大名達の間の溝は深まっていく一方でした。

さらに、細川頼之は比叡山などの伝統的仏教勢力と、幕府が保護した五山の南禅寺などの新興禅宗勢力の政治的争いの対応に追われました。争いの火種となったのは、南禅寺の住職・定山祖禅(じょうざんそぜん)が自らの著作で天台宗らを邪宗と断定したことです。これに対して、天台宗総本山の延暦寺は、建設中の南禅寺の楼門の破却と、定山祖然及び南禅寺の楼門新築を幕府に提言した天竜寺の住職、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の配流を訴えました。これに応えた細川頼之は、楼門を撤去させます。春屋妙葩は幕府の対応に抗議し、天龍寺の住職を辞して丹後に退きました。

幕府は京都で禅宗勢力を育て、既存の仏教勢力に対抗しようとしていましたが、細川頼之の判断は幕府と五山側の溝を深めることになったのです。 丹後に退いた春屋妙葩は復帰の機会を伺います。一方、武家でもかつての執事であり、春屋妙葩とも親しい間柄にあった斯波義将(しばよしまさ)が政界への復帰を狙っていました。

康暦の政変で細川頼之が失脚

1378年(永和4年/天授4年)大和で豪族の反乱が起き、幕府は有力武将を派遣して鎮圧を図ります。しかし、斯波義将・京極高秀(きょうごくたかひで)・土佐頼康(とさよりやす)・山名義理(やまなよしまさ)らは大和に向かわず、京に取って返して、室町殿(花の御所)を囲み、足利義満に細川頼之の罷免を求めました。

1379年(康暦元年/天授5年)に足利義満は斯波義将らの要求を受け入れ、細川頼之の追放を決定し、斯波義将を管領にしました。また、春屋妙葩は南禅寺の住職として復帰し、人事をはじめとする禅僧全体を統括する僧録司(そうろくし)に就任します。細川頼之は守護を務める讃岐に戻りました。これを「康暦の政変」(こうりゃくのせいへん)と言います。

管領になった斯波義将は細川派の力を削ぎ、「康暦の政変」に協力した大内氏と山名氏の分国を増やしました。その結果、大内氏は6国、山名氏は12分国を支配する一大勢力となりました。

守護大名の力を弱め将軍専制の政治を進める

しかし、足利義満は成長するにつれて斯波義将のもとで権力を奮う守護の存在を疎ましく思い、粛清を模索するようになります。1381年(永徳元年)には、細川頼之の実弟で猶子(ゆうし:親子関係を結ぶこと)となっていた細川頼元を摂津守護として、失脚した細川家を幕府の要職に復帰させました。

その後、遊覧と称して、天の橋立、富士山、厳島神社と諸国に赴きます。これは幕府将軍の軍事力を誇示し、諸国の守護に圧力をかけるためのものでした。また、厳島神社の参拝では讃岐へ逃れていた細川頼之と会見し、細川頼元の管領就任を決定しています。

そして、足利義満は有力な守護家に介入を始めます。最初の標的となったのは美濃・尾張・伊勢を支配する土岐氏でした。足利義満は当主の土岐頼康(ときよりやす)が没した際に、後継の土岐康行(ときやすゆき)に美濃と伊勢だけを継承させ、弟の土岐光貞(ときみつさだ)に尾張を与えました。そして、土岐康行と土岐光貞の間で領地を巡って紛争が起こると、足利義満は土岐康行を幕府に対する反逆者として美濃を攻め、分国を削りました。

次いで、山名氏の一族に内紛を起こさせ、嫡流家の没落を図ります。この一連の騒動を受けて、斯波義将は管領を辞し、細川頼元の管領就任が実現します。

さらに、足利義満は山名の庶子家、山名満幸(やまなみつゆき)に押領の汚名を着せ、没落させた嫡流家の復活を認める姿勢を見せます。それに反発した山名満幸は、1391年(明徳2年/元中8年)和泉国堺で挙兵し、これを幕府は内野で鎮圧しました。その結果、山名氏の分国は3国に削減されました。これを「明徳の乱」(みょうとくのらん)と言います。

南北朝の合一と応永の乱

このあと足利義満は、紀伊の守護であった大内義弘(おおうちよしひろ)に、衰退した南朝との和平工作を命じ、1392年(明徳3年/元中9年)に和議が成立し南北朝時代が終わります。こうして、ついに室町幕府は南北朝の合一を成し遂げました。

足利義満の期待に応えた大内義弘でしたが、朝鮮貿易や瀬戸内海の制海権拡大などで、将軍一門や細川氏を超える力を付け、次第に警戒されるようになりました。疑心暗鬼になった大内義弘は少弐氏討伐のため九州に下向すると、その後は京へ戻ることを拒んでいます。

1399年(応永6年)に大内義弘は幕府から上洛を命じられました。その際に、大内義弘は和泉の堺に留まり、今川・土岐・山名などの諸氏、将軍職を狙っていた鎌倉公方(かまくらくぼう:鎌倉府の長官)の足利満兼(あしかがみつかね)、南朝の残党らに呼びかけ、反幕府の兵を挙げます。これが「応永の乱」(おうえいのらん)の始まりです。

約2ヵ月にわたる戦闘の末、幕府は大内義弘を倒しました。降伏した弟の大内弘茂(おおうちひろしげ)に周防・長門を安堵して、戦乱は終わりました。

こうして、足利義満は各地の守護勢力の抑え込みに成功し、将軍専制への道を進めていくのです。

朝廷権力の掌握と収奪

足利義満は守護大名の力を弱めるのと同時に、幕府を朝廷の権威を超える存在にするという野望を実現させていきます。摂政の二条良基(にじょうよしもと)から宮中の作法を教わり、朝廷での存在感を徐々に高めていきました。

1383年(永徳3年/弘和3年)、足利義満は武士として初めて、准三后(じゅんさんごう:太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた称号)となります。この頃から、朝廷の叙任権(じょにんけん:僧官の任命権)や祭祀権を奪取。さらに天皇の専権とされる祈禱(きとう)も独自に行うようになりました。

反発する者には圧力を加えたため、朝廷に仕えていた公家らも足利義満の臣下のように振る舞いました。のちに金閣寺が建立される北山殿は、反発する西園寺氏から奪ったものです。朝廷権力を掌握した足利義満は財政や裁判など、朝廷が持っていた権限を次々と幕府のものにしていったのです。

まず、一国平均役(国家的事業の経費調達のために一国単位で課される租税)の徴税権を掌握しました。また、京都市内の債務に関する裁判権も手にします。さらに、現在の質屋にあたる酒屋・土倉といった市中の金融業社に対する課税の権利も持ちました。

そして、京の検断権(けんだんけん:刑事事件についての犯人の捜索や断罪をする権利)も手にし、京都の市政を市中の侍所(さむらいどころ:御家人を統制する機関)に統括させ、商業の統制は政所(まんどころ:幕府の財務や訴訟を扱う機関)が担いました。

こうして、次々と朝廷の権力を手に入れた足利義満は、院や天皇との対立を深めていきます。そして、1382年(永徳2年)に足利義満は対立する後円融天皇(ごえんゆうてんのう)に幹仁親王(もとひとしんのう)へ譲位するように迫ります。当然、後円融天皇は拒否しようとしますが、足利義満は摂政の二条良基と結託し、即位式を断行しました。幹仁親王(もとひとしんのう)は後小松天皇(ごこまつてんのう)として即位します。

その後、後円融天皇は傷害事件や自殺未遂を起こすほど、足利義満から精神的に追い詰められてしまうのでした。