縄文時代

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日本列島に住む旧石器人によって築かれた「縄文時代」は、日本における最初の時代区分です。時代名称は、当時の人々が使用していた「縄文土器」から命名されました。縄文時代は、土器を使った食料の保存や、表面を砥石などで磨いた「磨製石器」による狩猟、そして定住のために建てられた「竪穴式住居」の出現など、人々の生活のなかに社会や文化が見て取れるようになった時代とも言えます。縄文時代の大きな流れと共に、当時の文化や生活の様子について解説。縄文人の暮らしぶりを軸に、時代背景を見ていきましょう。

縄文時代とは

縄文時代の大きな流れ

縄文時代の始まりと終わりの時期については諸説ありますが、おおむね16,000年前~2,300年前とされています。世界史では「中石器時代」や「新石器時代」に該当しますが、この時期を縄文時代と呼んでいるのは日本のみ。

その理由は、縄文土器の使用をはじめとする、日本特有の文化が根付いていたためです。他の国には、縄文土器のように、表面に縄目模様を付けた土器は存在しません。

したがって日本の固有性を表現する名称として、土器名がそのまま時代名に採用されました。縄文時代の起源を約16,000年前としているのは、日本で出土した最古の縄文土器の推定制作年代に合わせているため。

青森県外ヶ浜町にある「大平山元遺跡」(おおだいやまもといせき)で出土した、最古の縄文土器に付着した物質から年代が測定されました。つまり、今後新たに発掘された土器がこれより古ければ、縄文時代の起源年代も自ずと変動するのです。

また、縄文時代の起源は、縄文土器が使用されはじめた時期ではなく、普及しはじめた時期と考える説も存在。その場合、起源は約14,500年前。縄文土器の代表格であり、全国各地で見つかっている「隆起線文系土器」(りゅうきせんもんけいどき)が制作された年代を指します。

なお、終期は約3,000~2,300年前と考えられていますが、起源と同様に終期も諸説あり、水稲の普及や金属器の使用時期によって説が分かれているのです。縄文時代は大きく6つの時期に分けることができます。「草創期」・「早期」・「前期」・「中期」・「後期」・「晩期」です。

まず草創期は約16,000年前〜10,000年前を指し、最後の氷河期である「更新世」が終わりを迎えて、現在に近い気温になった「完新世」の初期にあたります。小麦や大麦、稲、粟などの穀物が繁茂するようになり、アジア地域では栽培や農耕による食料確保もはじまりましたが、日本ではまだ狩猟・採集のみが行われていました。

この頃ユーラシア大陸と日本列島は辛うじてつながっていましたが、更新世が終わりを迎えたことで氷河が溶けて海が陸地に浸食する「海進」(かいしん)が起こります。すると肥沃な大地が海面に沈んだことや、複雑な入り江を持つ海岸線が形成されたことで、魚介類が繁殖。

陸では鹿やイノシシなどがあふれ、日本は狩猟天国とも言える環境になったのです。これにより、縄文人は動物を仕留めるための槍や弓矢を頻繁に使うようになります。また、狩猟した肉を煮炊きするために、隆起線文土器をはじめとする縄文土器が作られるようになりました。

約10,000年前〜6,000年前の早期に入ると、日本列島は完全にユーラシア大陸から分離。道具がやや進化し、煮炊きに使用する「撚糸文系土器」(よりいともんけいどき)が登場し、ドングリやクルミなどの木の実を栽培する初歩的な農耕もはじまりました。

また、石器の加工技術が高まり、木の実を叩いたり潰したりするための石皿、弓矢や銛(もり)の先端に取り付ける磨製石器などが普及。狩猟効率が飛躍的に上昇しました。縄文文化が一気に花開いたのが、約6,000年前~5,000年前の「前期」です。

この頃から土器の製造量が増え、粘土質の土に植物の繊維を織り交ぜて強度を高めた「繊維土器」(せんいどき)が普及します。また、土器や木器に漆を塗るようになって実用性が格段に高まりました。一方、竪穴式住居が建てられるようになったのもこの時期。

もともと季節ごとに移住しながら暮らしていた人々が定住するようになり、集落での生活が浸透したことで、集落に上下関係が形成されるようになりました。知識や経験を持った長老的人物が集落を取り仕切ったり、呪術(自然災害を避けるための祈りなど)に長けた人物が一目置かれたりするなど、首長制社会の原型が生まれたのです。

そうした特権階級の人々は「勾玉」や首飾りなどの装飾具を身に付けるようになります。さらに約5,000年前〜4,000年前の中期に入ると集落の規模が拡大し、栗などを森に植える「植林農法」が開始。集落も共同生活の色合いが強くなります。

「土偶」や「石棒」などの祭祀具や呪物が作られ、土器も一度に大量の調理をするために大型化。土器の模様が立体的になったのも特徴のひとつです。約4,000年前〜3,000年前の後期には、海から離れた内陸部にも集落が形成されるようになりました。

各地で多様な文化が生まれるようになり、製塩を生業とする集団や、漁をして交易を行う人々なども出現。地域色が集落に反映されるようになったのです。この時期の遺跡は東北地方に集中しており、当時、東日本が縄文時代の中心地だったことがうかがえます。

そのあと、約3,000年前~2,300年前にあたる晩期になると、弥生時代へと至るきざしが現れはじめます。「刻目突帯文土器」(きざみめとったいもんどき)と言う非常に弥生土器に近い形状の土器が広く使われるようになり、九州北部や近畿地方では「縄文水田」(じょうもんすいでん)と呼ばれる日本最初期の水田が誕生。

また、晩期には気温が2℃程度低下したと言われており、特に漁労民(魚介類や海藻の捕獲や収穫を生業とする人々)に大きな打撃を与えました。こうした気候変動による苦難を経験した縄文人の多くは、安定的に食べ物を確保できる農耕に活路を見出すようになり、やがて水稲などが広まっていくことになるのです。

縄文人とはどんな人?

縄文人とは、縄文時代に日本列島に住んでいた人々のことです。

人口の推移を見てみると、草創期から早期にかけては約20,000人に過ぎませんでしたが、前期から中期にかけて約260,000人に増加。

しかし、後期からは食料確保に苦しむようになったことから約160,000人に減少し、晩期には約80,000人にまで落ち込みました。

大幅な人口減少は、縄文人に狩猟生活の限界を悟らせ、やがて日本に農耕文化が発展するきっかけになったのです。実際、水稲が普及した弥生時代には、人口が約600,000人にまで増加しています。縄文人の身体における最大の特徴は、頭部の大きさです。

頭蓋骨の幅が広く、頬骨や顎のえらも張り出していました。形状で言うと全体として四角顔で、顔は二重まぶたで彫りが深く、唇は厚め。顎は発達しており、歯のかみ合わせが良かったため、堅い食べ物を噛むことに適していました。

ただし、北海道に住んでいた縄文人は虫歯がほとんどなかったものの、本州に居住していた縄文人は、比較的虫歯が多かったと言われています。虫歯率は平均すると8%ほど。これは北海道より本州の人々の方が、デンプン質の食べ物を多く摂取していたことを示唆しています。

頭部以外の特徴は、身長が現代人よりも低いこと。男性の平均は約157cm、女性の平均は約147cmだとされますが、筋力は現代人よりも強く、腕力と脚力に優れていたとされています。

しかし、発掘調査で出土した縄文人の遺骨の多くは足首の関節が変形していたことから、蹲踞(そんきょ:つま先立ちの状態でしゃがむ体制)などの姿勢を取ることが多かったと考えられています。また、鞭虫(べんちゅう)と言う寄生虫の卵も大量に見つかっており、縄文人の多くは腹痛持ちでした。

一方、寿命は現代人よりも格段に短く、これまで出土した縄文人骨から推定すると、男女とも約31歳。しかし、この数字は子供の遺骨を含んでいません。そもそも子供の骨はもろいため、ほぼ発掘できないのです。

当時の衛生状態や栄養の摂取の難しさを鑑みると、幼少期に亡くなる事例は多かったと推測されており、全人口の平均寿命は15歳を下回っていたと考えられています。ただし、あくまで平均値のため、まれに長寿の縄文人も存在しました。

集落において長老が重宝されていたのは、一説によれば、長生きすること自体がある種の才能であり、霊験の表れと捉えられていたためとも言われています。

縄文時代の文化

文化圏は9つに分かれていた

文時縄代の草創期や早期は、人口が少なかったこともあり活動は限定的でしたが、前期に入ると日本列島各地に様々な文化が芽生えるようになりました。

この文化は地域ごとに大別して9つあり、いずれも食料確保のために生じた生活形態です。広い意味では「食文化」とも言い換えられます。

北海道石狩低地以東
回転式離頭銛

回転式離頭銛

北海道の一部地域では、漁労(魚介類や海藻を捕獲すること)を中心とする文化が発展します。

トドやアザラシ、オットセイなどを仕留めるため、「回転式離頭銛」(かいてんしきりとうせん:獲物の体内で銛が回転することで抜けにくくなる銛)が使われていました。

エゾマツなどの針葉樹林が多く、栗などの木の実がなかったため、食べ物はほぼ海獣捕獲などの漁に依存していた地域です。

東北地方北部・北海道西南部

東北地方北部から北海道の西南部にかけては、回転式離頭銛による海獣の捕獲だけでなく、カモシカやイノシシなどの狩猟も盛んに行われていました。一帯に落葉樹林が多かったため、栗やクルミ、トチノキなどの木の実も食料として採集。

多岐にわたる食料源を有していたことで、縄文時代前期から中期にかけて集落が巨大化しました。日本の縄文時代における中心地だったと言われています。

東北地方南部

東北地方南部は、比較的食べ物に恵まれた地域で、食べ物は主に陸上での狩猟と海での漁労によって確保。ただし、一帯に生息する魚類はサメ、イルカ、カツオ、マグロなど、当時の漁具では比較的獲りにくい魚介が中心でした。

一方、陸上での捕獲対象は東北地方北部で獲れていたものと類似。鹿やイノシシの狩猟や、木の実採集などが行われていました。

関東地方

関東地方は、内湾で獲れる魚介類を主食としていたのが最大の特徴です。漁獲は、魚類ではクロダイやスズキ、貝類ではハマグリやアサリなど。土器を「錘」(おもり)にした「漁網錘」(ぎょもうすい:漁獲用の網に錘を付けた道具)などが使われていたのも特徴です。

国内における貝塚のうち約6割は関東地方で発見されており、とりわけ貝類がよく食べられていたことが分かっています。なお、陸上でも鹿やイノシシの狩猟は行われていました。

東海・甲信地方

東海・甲信越地方は内陸部に位置しているため、鹿やイノシシの狩猟が中心。植林農法も行われ、山芋やゆり根なども食べられていました。

石器が発展し、石を打ち欠いたのち荒く削った「打製石斧」(だせいせきふ)が使用されていたことでも知られています。

北陸地方

北陸地方では、漁労よりも狩猟が中心でした。ツキノワグマやイノシシ、鹿などを狩り、一方でトチノキやナラなどの木の実も採集。冬は豪雪に見舞われやすかったため、強度のある住居を構える必要があり、自ずと竪穴式住居が大型化していきました。

近畿・中国・四国地方

近畿・中国・四国地方の主な生計は狩猟です。イノシシや鹿が獲られていましたが、漁労や木の実の採集なども広く取り入れられていました。特に漁労活動では「切目石錘」(きりめせきすい:漁獲用の網に使う錘)が使われていたのが特徴。

一説では、関東地方で発明された漁網錘が伝播し、土器の代わりに石器を使うかたちに進化したと言われています。

九州地方

九州地方は、漁労活動が特に盛んだった地域です。九州と朝鮮半島の間に点在していた島々を活動拠点として、1本の大木をくり抜いて作った丸木舟で漁を行い、「結合式釣針」(複数の部材を組み合わせて作る釣り針)や「石鋸」(いしのこ:鋸歯状の刃をもった小型打製石器)などが漁具に使われました。

しかし、縄文時代早期の終わりに起こった鬼界カルデラ(大隅海峡にあるカルデラ)の大噴火によって壊滅的な被害を受け、前期以降は、ほぼ住民がいなくなった地域です。

トカラ列島以南地方

九州地方よりも南に位置する、トカラ列島以南の諸列島は、主に漁労によって食べ物を確保。珊瑚礁に生息する魚類の他、ジュゴンやウミガメも食していました。

貝殻などを錘にした漁具を使用していたのが特徴です。丸木舟を利用し、九州地方との交流も行われていました。

これら9つの文化圏は、時代を追うごとに集約されていき、縄文時代の後期や晩期には、「北海道」(石狩低地以東)・「東日本」(東北地方から東海・甲信地方まで)・「西日本」(近畿・北陸から九州地方まで)・「トカラ列島以南」の4つの文化圏に統合されます。この分類は次の弥生時代のみならず、古代や中世に至るまで根強く残り続けました。

現代に残る主な縄文遺跡

縄文時代を知る手がかりは、遺跡からの出土品以外にありません。1877年(明治10年)に来日したアメリカの動物学者「エドワード・モース」によって「大森貝塚」(東京都品川区大田区)の発掘調査が行われて以降、縄文遺跡の発掘ラッシュが起こりました。

これにより縄文時代こそが日本の文明の起点であると言う認識が定着。2021年(令和3年)には「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に登録され、ますます注目度が高まっています。

ここでは、全国各地に残る縄文遺跡のうち、特に重要度の高い場所を選出。出土品などと共に紹介していきます。

「三内丸山遺跡」(さんないまるやまいせき)
三内丸山遺跡

三内丸山遺跡

三内丸山遺跡」は、青森県青森市にある縄文遺跡です。

時代区分は中期に該当し、世界遺産である「北海道・北東北の縄文遺跡群」の代表的施設でもあります。

地元では江戸時代から遺跡の存在が知られていましたが、1992年(平成4年)から本格調査がはじまり、縄文ブームに火を付けました。

八甲田山系の連峰から続くなだらかな丘陵地にあり、遺跡の中心には、高さ約20mに及ぶ「掘立柱建物」(ほったてばしらたてもの)を復元。その周りに、住居用の「竪穴建物」や「土坑墓」(どこうぼ:土葬用の墓)、貯蔵穴(食べ物を保管する穴)などが再現されています。

遺跡としての規模の大きさもさることながら、特筆すべきは出土品の多さ。国内最多とされる約2,000点の土偶をはじめ、木製品や骨角器、漆製品などが発掘されているのです。出土品の膨大さから、居住人数は約500人に上ったと考えられています。

また、青森では採れないヒスイや黒曜石なども発見されていることから、他の地域との交易が行われていたことも判明。出土品は敷地内に建つ「縄文時遊館」で見学できるのも、三内丸山遺跡の魅力です。

「大湯環状列石」(おおゆかんじょうれっせき)
大湯環状列石

大湯環状列石

「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)は、縄文時代後期の大規模配石遺跡で、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成遺産のひとつ。最大径約44mの「野中堂環状列石」(のなかどうかんじょうれっせき)と、最大径約52mの「万座環状列石」(まんざかんじょうれっせき)からなり、いずれも当時の集団墓だったと考えられています。

各環状列石の周りには掘立柱建物や貯蔵穴などが点在していたことが分かっていますが、その数は祭祀用である環状列石に対してかなり少なく、実態は各集落が祭祀の際に集まった儀礼用の場だったと考えられています。

隣接する「大湯ストーンサークル館」では、出土した土器の展示や当時の文化背景が学べるパネル展示などが行われている他、土器などの手作り体験なども実施。縄文時代の生活を気軽に体験できることから、家族連れをはじめとする多くの人に人気の施設です。

大森貝塚

大森貝塚は、縄文時代後期から末期の、東京都品川区と大田区にまたがる広大な貝塚跡。エドワード・モース博士が、列車の窓からたまたま貝殻の堆積を見付けたことで日本初の本格的な発掘調査が行われたため、「日本考古学発祥の地」としても知られています。

現在の大森貝塚は、エドワード・モース博士像や、大森貝塚跡を示す石碑が建つ「大森貝塚遺跡庭園」と、「大森貝墟の碑」が残るのみ。しかし、発掘調査での出土品は、大量の貝殻や土器をはじめ、魚・動物の骨、装身具など多岐に及び、6軒の住居跡も確認されました。

関東地方の縄文人が貝類を主食としていたことなどが明らかになったのは、大森貝塚の発掘調査によるところが大きかったのです。現在、出土品のほとんどは国の史跡に指定され東京大学に保管されていますが、複製品が近隣の「品川歴史館」(東京都品川区)に展示されており、発掘調査の全貌を知ることができます。

「馬高・三十稲場遺跡」(うまたか・さんじゅういなばいせき)

「馬高・三十稲場遺跡」は、新潟県長岡市にある日本海側の遺跡のひとつです。馬高遺跡は縄文時代中期、三十稲場遺跡は縄文時代後期に発展した大規模集落跡で、明治時代から発掘調査が開始。

ともに土偶や耳飾り、石棒、ヒスイで作られた勾玉など、高い祭祀文化をうかがわせる品々が多数発掘されました。なかでも世間を驚かせたのは、馬高遺跡から出土した「火焔型土器」です。

火焔型土器は、その名の通り炎の輪郭を思わせる立体的な形状が特徴。当初は祭祀に使われた土器と考えられていましたが、土器内部に煮炊きをした跡が発見されたことから、現在も用途は謎に包まれているのです。

多岐にわたる出土品や火焔型土器の複製品などは、隣接する「馬高縄文館」(新潟県長岡市)に展示されています。

「長者ヶ原遺跡」(ちょうじゃがはらいせき)
長者ヶ原遺跡

長者ヶ原遺跡

「長者ヶ原遺跡」は、新潟県糸魚川市で発見された縄文時代中期の遺跡です。

全国でも希少なヒスイの生産地で、遺跡からはヒスイを用いた装身具の製作工場跡である、「硬玉製作跡」が発掘されました。

ヒスイの切り出しから研磨までを一貫して行い、さらには北陸や中部、関東地方に至るまで、広域の集落との交易も実施していたとされています。言わば、日本における専門集団の先駆け的集落でした。

現在、敷地内には竪穴式住居が復元されている他、ヒスイをはじめとする貴重な出土品が見られる「長者ヶ原考古館」(新潟県糸魚川市)も隣接。一帯は国の史跡にも指定されています。

「金生遺跡」(きんせいいせき)

金生遺跡」は、山梨県北杜市に位置する縄文時代後期・晩期の巨大遺跡です。金生遺跡は、縄文遺跡が数多く発掘されている山梨県のなかでも特に規模が大きく、38棟もの集落跡と5基の配石遺構(石を一定の形に並べた遺構)などが併合された遺跡。とりわけ祭祀施設としての出土品が多く、配石遺構には立石(りっせき:長大な自然石を直立状に埋めた遺構)や石棒などが配置されていた他、石棺には焼けた人骨や、土製耳飾りなどの装身具が発掘されました。

このことから、集落を挙げて祭祀としての葬儀が執り行われていたと考えられています。その他、土偶や石剣など、出土品は約200点。当時の食べ物と考えられるツキノワグマやイノシシ、カモシカなどの骨も多数見つかっています。

現在は、一帯に縄文時代晩期の住居などを再現。出土品は、金生遺跡から徒歩20分のところにある「北杜市考古資料館」(山梨県北杜市)で鑑賞することができます。

「上黒岩岩陰遺跡」(かみくろいわいわかげいせき)

「上黒岩岩陰遺跡」は、愛媛県久万高原町にある縄文時代草創期から後期にかけての遺跡です。張り出した岩盤を屋根代わりに使っていた「岩陰遺跡」で、地層調査によれば約10,000年にわたり縄文人が居住していたとされ、希少性が極めて高いことでも知られています。

数々の出土品のうち、特に注目を集めたのは、石に女神が刻まれた「石偶」です。緑泥片岩(りょくでいへんがん:暗緑色の結晶片石)に乳房や長い髪、腰蓑などが描かれており、草創期における石偶としては、日本唯一で、日本最古の女性像としても知られています。

何のために制作されたのかは諸説ありますが、何らかの信仰対象と言う説が有力。つまり、草創期から祭祀文化が存在したことを示唆する貴重な事例になりました。

この他、人の腰骨を貫いた鹿の角の投槍、約14,500年前の世界最古級の土器なども発見。発掘された品々の貴重さが認められ、1971年(昭和46年)に国の史跡にも指定されました。なお、出土品の一部は、上黒岩岩陰遺跡に隣接する「上黒岩岩陰遺跡考古館」(愛媛県久万高原町)で見学することができます。

「上野原遺跡」(うえのはらいせき)
上野原遺跡

上野原遺跡

上野原遺跡」は、鹿児島県霧島市に位置し、縄文時代早期から古墳時代にかけての地層が堆積している複合型遺跡です。

特に重要な発掘になったのが、縄文時代早期の定住集落跡。

52軒の竪穴式住居の他、調理施設である39基の集石(蒸し焼き石焼きの跡)と16基の連穴土坑(地面に掘られた連続した穴)も見つかり、早い段階で大規模集落が形成されていたことが判明しました。

この発掘が行われるまで、縄文時代の文化水準は、東日本が高く西日本が低いと考えられてきましたが、認識が一変。人口の多寡はあったものの、文化水準は日本全土でさほど差がなかったことが明らかになったのです。

この他、同じく縄文時代早期の地層には、弥生土器に類似した壺形土器や、並べて置かれた状態の石器類、数本まとめて埋められた石斧なども発掘され、当時の祭祀を知る重要な手がかりとなりました。

また、縄文時代後期の地層からは、全長約400mにわたって掘られた深さ2~3mの落とし穴を発掘。当時、集団で動物の追い込み猟なども行っていたことが明らかになったのです。

現在、上野原遺跡一帯は「鹿児島県上野原縄文の森」(鹿児島県霧島市)として保護され、出土品の多くは敷地内の「縄文の森展示館」(鹿児島県霧島市)で見学することができます。

呪具や装飾品に見る縄文文化

遮光器土偶

遮光器土偶

縄文時代に発展した文化のうち、特に謎めいているのが祭祀や呪具(超自然的な力で願いを叶えようとする際の道具)の存在です。

おおむね縄文時代前期から「祈りの文化」が発展していきますが、その理由は自然に対する恐れがあったためでした。

縄文人は、現代よりも格段に死と隣り合わせの日常を過ごしており、例えば、台風や大雪に見舞われることが死活問題。

しかも、なぜそれらの自然現象が起こるのかも分かりません。さらに言えば、病と言う概念もほとんどなく、病死も自然災害のひとつでした。

つまり、自分達に降りかかる災いは、すべて「全知全能の何か」に操られていると認識していたのです。こうして生まれたのが祭祀や呪具。特に有名な呪具が土偶です。

縄文時代中期頃から作りが緻密になり、後期から晩期にもっとも発達しました。いずれも乳房の膨らみや臀部の大きさなどが表現されていることから、女性を象った像だと言われています。

しかし、土偶が何のために作られたのかは、呪具であること以外は分かっていません。有力な説として挙げられるのは、病気や傷を負った身体の部位の回復を願って作られたと言う説です。これは、出土している土偶の多くが、身体の一部を故意に欠損させている形跡があるため。

また、妊娠を表している土偶も多々存在していることから、安産祈願のために作られ、壊すことで祈りを捧げていたと言う説もあります。いずれにしろ、土製の人形に何らかの願いを込めていることは確か。使われ方としては、祭祀の際に破壊することで厄災を払うと言うかたちが多かったと推測されています。

縄文時代前期頃から広まった装飾具も、呪具と同様に、魔除けとしての役割を担っていました。もっとも一般的だったのが、やわらかい石や粘土などで作られた耳飾り。その他、腕飾りや胸飾り、腰飾り、かんざしなども作られ、やがて木器に漆で光沢を出すといった工夫も加えられるようになりました。

なお、これまで発掘調査が行われた縄文遺跡のほとんどで多数の装飾品が見つかっており、日本列島全土で男女とも日常的に装飾品を身に付ける風習があったと考えられています。当時の世界各地を見渡しても、縄文人ほど装飾品を身に付けていた民族はいませんでした。

縄文時代の生活

縄文人の社会と集落の関係

縄文時代の社会とは、日本列島各地に点在した集落の集合体を指します。まず家族があり、それらの集合体が集落です。集落の大きさは時代や地域によって様々ですが、縄文時代前期や中期には大きな集落が多々現れるようになり、その多くは「環状集落」と言う形態が取られました。

中央に祭祀などで使われる広場があり、その周りに各々の住まいである竪穴式住居などを配置。広場の構造は集落ごとに異なりますが、掘立柱建物を中心に据えて、その近くに貯蔵施設や調理施設、埋葬施設などを設けるかたちが一般的でした。つまり、広場内の各施設は集落の人々で共同使用していたのです。

三内丸山遺跡に代表されるような巨大遺跡では、最大で500人程度が生活していましたが、実はこれだけの規模を誇った集落は希少。縄文時代全体を通して見ると、もっとも一般的だったのは3軒程度の小規模集落だと言われています。

1軒の竪穴式住居のなかに親子ないし祖父母を含む3世代が居住し、それらの親族が3軒程度集まった形式です。1軒のみの集落も決して珍しくなく、その場合は祭祀のときだけ共同の祭祀施設へと集まりました。現在の町内会に近いかたちとも言えます。

なお、大きな集落や小規模集落の共同体などは、集落の上位組織として村落(ムラ)が設けられる場合が多く、集落としての方針などは村落によって決定されていました。例えば、他の巨大集落との折衝や情報交換などをするときです。

実際、石器などの出土品を見ると、村落同士の交渉が行われていたことが分かります。石器には用途ごとに異なる原料が使われており、例えば植物や木の実を叩いて割るための石皿にはザラついた安山岩・砂岩・石核などが使われ、弓矢や石槍などには鋭利に加工しやすい黒曜石や頁岩、木の伐採などに用いる石斧には硬質な凝灰岩や蛇紋岩、粘板岩などが適していました。

しかし、これらの石や岩は特定の土地でしか採れません。そこで村落同士が交渉して、石材の入手や交換などを行っていたのです。こうした交流は、主に縄文時代前期以降に頻繁に行われ、実際に現在発掘されている縄文遺跡の多くでは、遠隔地でしか採取できない石材を用いた石器が、多数出土しています。集落と言う集合体同士が、村落を介して緩やかにつながっていたのが、縄文時代の社会の全貌なのです。

縄文人の住まい

縄文人の住まい

縄文人の住まい

旧石器時代は各地を移動しながら狩猟生活を営んでいました。しかし、縄文時代の早期頃からは、狩猟や漁労における道具の発達や、建築技術の向上などの理由から、一定の土地に定住する生活様式が浸透。

特に漁労は、地域によって捕獲できる魚の種類が異なるため、定住した方が成果を出しやすいと言う側面がありました。定住場所の選定は、基本的に半径5km以内に狩猟や漁労に適した猟場・漁場があるか否かで決めていたと言われています。

住まいは竪穴式住居が一般的。竪穴式住居は、まず地面を円形もしくは方形に掘って周りに土留材をめぐらせて固定し、そこに複数の柱を立ててから棟木や梁、垂木などを結び付けて骨組みを作製。

次に、屋根材として葦や木皮を葺くと言うのが一般的な造り方でした。床面積はおおむね20㎡ほどの大きさで、入口はひとつ。中央部に設けた炉で土器を使って料理の煮炊きを行い、夜は灯りや暖を取るため火をくべ続け、寝るときに消火していました。

そのそばには飲料用の水を入れた深鉢状の土器や、調理器具としての石皿、木の実を入れた籠などを設置。壁には狩猟や漁労に使う道具を立てかけた居住空間で、縄文人は生活していました。

なお、地面は基本的には剥き出しで、そこへ植物で編んだ筵(むしろ)などを敷いていました。甲信地方などでは地面を石敷にした住居も発掘されていますが、全体の造りとしては日本のどの地方もどの時期も、似たような形状の竪穴式住居が建てられたと推測されています。

縄文土器をはじめとする生活道具

縄文時代に使われた道具の代表格は、時代名にも採用された縄文土器です。縄で模様が付けられていることから命名された万能道具ですが、縄文時代草創期は模様のない土器も作られていました。

例えば、大平山元遺跡から出土した日本最古の土器は無紋。同じく草創期の土器とされる「泉福寺洞窟遺跡」(長崎県佐世保市)で発掘された「豆粒文土器」(とうりゅうもんどき)は模様こそあったものの豆粒状の模様でした。つまり縄文土器とは、あくまで縄文時代に作られた土器全般を指す名称なのです。

縄文土器の用途は大きく分けて2つありました。ひとつは煮炊きをするための調理用、もうひとつは食べ物を保管するための貯蔵用です。いずれも縄文時代早期は深鉢形が基本でしたが、前期に入ると浅鉢型や台付型が作られるようになり、中期には壺型や皿型、香炉型などが登場。用途に合わせて様々な形状が生まれました。

また、模様も時代を追うごとに多様化し、中期には立体模様が施された火焔型土器や王冠型土器など、個性的な土器が次々と現れます。祭祀文化が発展したことが模様の変化にかかわっていると言われていますが、これらの出土品の多くには煮炊きの跡が残っているのです。

日常的に使用されていた可能性が大きいことから、奇抜な形状に発展した理由は、いまだ分かっていません。なお、縄文土器の作成方法は、全時代を通じてほぼ変わっておらず、粘土を加工して模様を付けたのち、窯などは使わずに約600〜800℃での酸化焼成(充分な酸素がある状態で焼く方法)が行われていました。

色彩的な意匠はなく、ほとんどの場合、赤褐色をしています。縄文土器の他、定番の道具として挙げられるのが、狩猟具や漁労具です。縄文時代を通じて狩猟の主役は弓矢と槍で、動物の大きさなどに合わせて使い分けていました。

一方、漁労に使われていたのは動物の骨や角で作った釣り針や銛、そして漁網錘です。いずれも獲物に合わせて微妙に作りが異なり、地域によって形状は様々でした。この他、土を掘るときに棒状の柄などに取り付けて使う打製石斧や、堅い木の実や根茎類を製粉する際に用いる石皿なども、縄文人にとっての必需品と言える道具でした。

木工品や編み物の進化

縄文時代に使われた生活道具の多くは、弥生時代に入るとほとんどが姿を消しました。しかし、そのうちのいくつかの工芸品は、ほぼ同じ制作工程で作り続けられ、現代にまで受け継がれています。その代表格が木工品と編み物です。とりわけ木工品は、日本の伝統工芸技術の発展に大きく寄与しました。

実は漆が木工品などのつや出しとして使われるようになったのは、縄文時代なのです。制作工程は現在とほとんど変わらず、まず漆の木に傷を付ける「漆掻き」(うるしかき)を行い、粘着質の樹液を採取。「なやし」と言う方法で樹液をゆっくりとかき混ぜたのち、余分な水分を漉す「くろめ」を経て、透明感のある漆液に仕上げていきます。

そのあと、ベンガラなどの赤色染料を混ぜれば、漆塗料の完成。縄文時代は赤色の他黒色も作られており、その場合は土器の底などに付着している煤を入れて黒の発色を作り出していました。なお、鮮やかな漆に仕上げるためにはなやしとくろめ以外にもコツがあり、適度なエゴマ油を加えると光沢が格段に増します。

こうした細かな意匠も、すべて縄文時代に考案されているのです。また、木工品の核になる木材加工技術も高い水準を誇りました。当時の加工具は石器しか存在しなかったにもかかわらず、火で焦がして炭化部分を削り取る方法や、石器で毛羽立たせてから削ることでなめらかな表面を作り出す方法などが編み出され、緻密な加工を実現。

こうした木工加工技術に、現在の伝統工芸品に肉迫する漆技術が合わさったことで、縄文時代の木工品の美感は飛躍的に高まるのです。実際、青森県青森市の三内丸山遺跡や新潟県新潟市の「御井戸遺跡」から出土した漆塗りの櫛や器などは、当初、発掘関係者の間で縄文人の制作が疑われたほどでした。

縄文時代は、日本の伝統工芸の起源となった時代とも言えます。なお、縄文時代の道具のなかで、もうひとつ高い技術が活かされた生活用具が存在。籠などに代表される編み物です。当時の原料は、葦や蔓などのイネ科の植物から繊維を抜き出した素材と、木や竹を薄く加工して繊維状にした素材の2種類。

縄文人は、それらを「網代編み」(あじろあみ:紐を縦横交互に編んでいく方法)などで仕上げ、大小の籠や袋などを制作していました。この手法は、現在の籠やバッグなどの工芸品作りでも一般的に用いられている技法です。

つまり、日本の編み籠技術が形成されたのも縄文時代。1990年(平成2年)、佐賀県佐賀市の「東名遺跡」(ひがしみょういせき)から発掘された約700点の編み物は、背負う形の大型籠からポシェットのような小型籠まで多岐にわたっており、その技術の確かさが改めて証明されました。

縄文人にとっての四季と食料調達法

縄文人が食べ物を調達する方法は、大きく分けて3つありました。狩猟と漁労、植物採集です。しかし、いずれも通年で行っていたわけではありません。それぞれの旬の時期に合わせて、3つの食料調達法を巧みに使い分けていたのです。

まず、春の主食は山菜。野山に入ってワラビやゼンマイ、フキ、タラの芽などを採集し、日々の食料としていました。実際、縄文遺跡からはこれまで計40種類以上の山菜が発見されています。食べられる山菜が多かった理由は、あく抜きの技術がすでに確立されていたため。縄文人はドングリもあく抜きをして食べていました。

また、春は海水がやや温かくなるため、貝類を採取する絶好の季節。ハマグリやアサリをはじめ、汽水湖や川の河口などではヤマトシジミなども獲って食べていました。夏は漁労の最盛期です。特に縄文人が好んで食べたのは、マダイやクロダイ、スズキなど。いずれも縄文遺跡から大量の魚骨が出土されています。

マダイとクロダイは産卵期に入るため岸辺を回遊するようになり、スズキは夏場になるとエサを求めて浅瀬に接近。夏は、非常に漁がしやすい環境が揃っていたのです。また、川でも夏場は絶好の漁期。初夏になるとマスの遡上がはじまります。つまり縄文人は、魚の習性に合わせて漁労に励んでいたのです。

秋になると木の実採集がはじまります。落葉樹林ではトチやナラの実、照葉樹林では椎や樫の実を採集。縄文時代に広域で自生していた栗やクルミなども採集対象でした。木の実は、当時数少ない保存が利く食料のため、縄文人にとっては冬を越すために、木の実採集の成果は死活問題でもあったのです。この他、東北地方や北海道では川での漁労も最盛期。産卵のために遡上する鮭は、とっておきのごちそうでした。

冬は主に狩猟が行われた時期です。野山の下草が枯れるため視界が利き、非常に狩りに適していました。狙い目は鹿やイノシシなどの冬眠しない哺乳類。特に冬場は、動物の脂の乗りが良い時期でもありました。

また、寒いため比較的肉の保存が利くことも冬場に狩猟が盛んに行われた理由のひとつです。このように縄文人は、季節ごとの動物の習性を把握した上で、食料を確保していました。しかし、それでも縄文時代晩期には狩猟・漁労生活での限界が訪れます。

縄文時代中期に人口が増えたことや、中期から後期にかけて世界中で気温が下がるなどの気候変動が起こったことから、日本列島における食糧資源が枯渇。餓死する縄文人が急増したのです。日本に水稲が伝来したのは縄文時代晩期。ここから急速に農耕が浸透していきました。

様々な猟法と漁法

旧石器時代から続いていた狩猟は、縄文時代に入り大きな進化を遂げました。単に弓矢や槍を用いて獲物を仕留めるだけでなく、大がかりな罠を仕掛ける方法が広く活用されるようになったのです。

特に画期的だったのは、落とし穴を利用した狩猟。鹿児島県霧島市の上野原遺跡に残る広大な落とし穴の他、東京の多摩丘陵でも約10,000基に及ぶ落とし穴が作られていたことが発掘調査により判明しています。

穴への誘導は、動物の習性をふまえて行われる方法や、縄文時代に家畜として飼われはじめた犬による追い込み猟などを採用。特に犬との連携は高い水準で行われていたと考えられています。その理由は、縄文人の犬に対する丁重な扱いぶり。

多くの縄文遺跡から、犬が人間同様の墓域(墓地として仕切られた区画)で埋葬されているのが見つかっており、狩猟の相棒と言うだけでなく、ほとんど家族同然の扱いを受けていたと考えられるためです。

狩猟の成果面において重要な役割を担っていた証と言えるでしょう。なお、家族同然に扱われていた動物は犬のみですが、縄文時代前期以降は家畜を飼育する風習が生まれ、食用としてイノシシや豚を飼う集落も存在したと言われています。

一方、漁労は縄文時代に浸透した食料獲得方法です。旧石器時代までは氷河期が続いていたことや、これまでの発掘調査において、旧石器時代の漁具が見つかっていないことなどから、日本における漁労の進化はひとえに縄文人によるものと考えられています。漁労は縄文時代草創期にはじまり、地域ごとに進化を遂げながら早期頃に発展。

北海道や東北地方では、寒流に乗って南下してきたトドやアザラシなどを捕獲する回転式離頭銛などの漁労具が開発され、関東地方では産卵期を狙った漁や入江での貝類の採取、漁網錘の使用などで内湾式の漁労を確立させました。

いずれも地域の特性をもとに漁法や漁労具の開発が行われている点が特徴です。なお、縄文時代前期以降は、様々な仕掛け漁も考案。筌(うけ:一度魚が入ると出られない仕組みになっている籠状の漁具)や魞(えり:竹で作ったすのこを袋状に配し、魚を誘い込む仕掛け)など、近世まで活用された漁労具も、この頃に生まれたのです。