貨幣の歴史

古代の貨幣 - ホームメイト

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現代を生きる私達にとって、貨幣は日常生活を送るうえで必要不可欠な存在です。では、世界各国で日常的に使用されている貨幣は、一体いつの時代にどのようにして作られたのでしょうか。古代に世界各地で誕生した様々な貨幣と、古代日本における貨幣の歴史をさかのぼりながら、貨幣の変遷を辿っていきましょう。

古代中国の貨幣

物品貨幣から貝貨(ばいか、かいか)へ

古代中国の貨幣「貝貨」

古代中国の貨幣「貝貨」

経済文化が構築される遥か昔、貨幣制度のない時代において、人々は生活を送るうえで必要な物を物々交換によって手に入れていました。人々は海で採れた魚と山で獲った動物の肉を交換したり農作物同士を交換したりして、お互いのニーズを満たしてきたのです。

しかし、物々交換は、相手の物との価値に大きな差がある場合や、相手が必要としていない場合などがあると、いくら相手の持つ物が欲しくても手に入れることができません。

そこで、長く利用できる物として家畜や米、布などが「物品貨幣」として取引に用いられ、お金の役割を果たすようになりました。今から3000年以上前にあたる古代中国の殷王朝(いんおうちょう:紀元前17世紀頃~紀元前1046年)時代では、物品貨幣の一種として貝殻が用いられるようになります。

貝殻のなかでも、特に南の亜熱帯地域の海に生息する「タカラガイ」が貨幣として使用され、「貝貨」(ばいか・かいか)として珍重されるようになったのです。希少なタカラガイは古くから首輪や腕輪などの装飾品に用いられており、呪物にも使用されていたため、貨幣としての役割を満たすには十分な物品として重宝されました。

タカラガイを5個つないだ物は「朋」(ほう)という貝貨の単位となり、贈与品や埋葬品として用いられるようになります。こうして、数えやすく、腐食しにくい素材である貝貨は貴重な貨幣となり、殷王朝末期から周王朝(しゅうおうちょう:紀元前1046年~紀元前256年)にかけて貝貨による貨幣制度が広まっていったのです。

古代中国で貝貨が使われていたことにより、古代中国の文書では貨幣や経済にかかわる文字として「貝」が使われていました。同様に、現代日本における、「貨」、「買」、「財」、「貿」、「貯」など、お金に関係する多くの漢字に貝という文字が含まれる由来となったのです。

金属加工技術の発展で貨幣に変化

周王朝の時代には、貝貨の他に亀の甲羅を用いた貨幣が作られています。周王朝後期にあたる春秋時代になると、加工技術の発展により、金属製の生活用具や農具、武器が作られるようになりました。

このような流れは貨幣にも影響を及ぼし、これまで用いられてきた貝貨や亀甲の貨幣に代わって、金属製の「青銅貨」が誕生したのです。青銅貨は農具や刀剣を象ったもので、農具の「鍬」(くわ)や「鍬」(すき)などの形をした青銅貨は「布貨」(ふか)と呼ばれ、古代文字で国名や地名が刻まれています。

また、小刀を象った青銅貨は「刀貨」(とうか)と呼ばれ、黄河下流域で流通しました。流通した地域によって種類が分けられ、刃の先端が尖った「尖首刀」(せんしゅとう)や、刃の先端が平坦な「方首刀」(ほうしゅとう)が作られています。

そのあと、秦王朝(しんおうちょう:紀元前211年~紀元前206年)の時代に度量衡が統一され、貯蔵運搬しやすい円形角穴の「半両銭」(はんりょうせん)が貨幣の基準として設けられることとなりました。こうして、古代中国で現代の小銭に近い形状である貨幣が誕生したのです。

古代ギリシアと古代ローマの貨幣

世界最古の貨幣

世界最古と言われる銀貨として、紀元前4300年頃から紀元前1530年頃まで古代メソポタミアにおいて使われた「ハル」と呼ばれる物があります。

ハルは輪やらせんの形をしており、貴重品の対価として必要な分だけ支払われたという記録が存在。古代メソポタミアの王達が公定価格を定めたという記録も残っており、貨幣制度が古くから確立していたと考えられます。

紀元前30世紀頃には「シェケル」と呼ばれる貨幣単位が登場し、シュメール語では「ギン」と呼ばれるようになりました。

当時の貨幣は現代の10円や100円のように一定の価値が付けられたものではなく、取引を行う際につど重さを量り、価値を決めていたとされます。

紀元前14世紀頃に描かれた古代エジプトの壁画においても、貨幣や金銀の重量を量る天秤が描かれているのです。

古代ギリシアにおける西洋最古の金属貨幣

西洋最古の金属貨幣「エレクトロン貨」

西洋最古の金属貨幣「エレクトロン貨」

ヨーロッパにおける貨幣の歴史は、紀元前7世紀に小アジア(現在のトルコ西部)の「リュディア」という小さな国家からはじまります。

この国に流れるパクトロスという小さな川で多くの金や銀が採取できたことから、それらを原材料に使った鋳造技術が育まれ、世界最古の金貨が作られていました。

リュディアで誕生した金銀合金の硬貨は「エレクトロン貨」と呼ばれ、現存する世界最古の鋳造貨幣だと言われています。

「エレクトロン」とはギリシア語で琥珀を意味する言葉で、金銀合金が琥珀のように輝くことからこの名が付けられました。硬貨の表面には、リュディア王の紋章であるライオンの頭部が刻印されています。

このデザインは、金銀合金の小片を台座にのせて、図案が彫られた鉄の刻印をハンマーで打ちながら浮き彫りにする手法で製造されていました。

このようにして誕生した貨幣は、リュディアからアテネ・コリント・スパルタといった古代ギリシアの都市国家に伝わり、急速に普及。エレクトロン貨をもとにギリシア初の銀貨「スタテル」や金貨などが作られました。

紀元前6世紀頃になると、ギリシア式の貨幣はエーゲ海一帯の地域にも広まり、各都市でそれぞれ異なる貨幣が発行されていたと言われています。

各国に硬貨が広まると、古代ギリシアの神々や動物、王様の顔が浮き彫りにされるなど、西洋の気品を感じさせるような意匠の美しい硬貨の数々が誕生しました。

ギリシア式貨幣を導入した古代ローマ

リュディアで発祥したギリシア式貨幣は、イタリア半島中部から世界帝国へと発展した古代ローマにも伝わっています。

古代ローマで最初に作られたギリシア式貨幣は、紀元前3世紀頃の青銅貨「アス」という硬貨で、ローマが地中海全域に領土拡大を進めていた共和政期に誕生しました。

アス貨は、神々の刻印が刻まれているなど、見た目はギリシア各都市国家の貨幣と似ています。しかし、ギリシアの都市国家のように都市ごとに違う貨幣を製造するのではなく、政府機構に則って貨幣制度をアス貨に統一していました。

ローマは地中海付近の各都市を征服していく過程で、ローマで鋳造されたアス貨を貨幣の基準として定めていったのです。ローマ帝国誕生後の帝政期になると、初代皇帝「アウグストゥス」によって造幣制度改革が行われ、アス貨は青銅貨から銅貨へと変化。

また、アス貨に刻まれる図案も、神々の肖像に代わり皇帝や権力者の肖像が用られるようになりました。ローマ帝国の歴代皇帝は、権力の象徴として自分の肖像を刻んだ硬貨を作らせていたのです。

なかでも、共和政期から作られていたアス貨の2.5倍の価値がある「セステルティウス」という硬貨は、貨幣改革で黄銅貨となり、ローマ帝国で最大の黄銅貨として鋳造されました。

この他にも、古代ローマでは共和政期から帝国期にかけて多くの種類の硬貨が造幣されています。古代ローマにおける造幣は、共和政期から政治機関である元老院の造幣委員によって行われていました。

造幣委員の定員は各年3人が選出され、元老院において最も下の序列にあたる公職だったと言われています。

古代日本の貨幣

日本最古の貨幣とは?

古代日本においても、貨幣が製造されるようになるまでは米や絹、布などが物品貨幣として用いられていました。日本に金属製の貨幣がはじめて現われたのは、大和国(現在の奈良県)から近江国(現在の滋賀県)に遷都された7世紀の近江朝時代のこと。

私的に鋳造された「無文銀銭」(むもんぎんせん)と言う貨幣が、日本最古の貨幣だと考えられています。無文銀銭は直径約3㎝、厚さ約2㎜の銀貨で、これまでに大和国や近江国などの遺跡から約120枚出土しています。7世紀末の飛鳥時代には「富本銭」(ふほんせん)と言う日本最古の銅銭が作られるようになりました。

富本銭は中央に正方形の穴が開けられている「円形方孔銭」(えんけいほうこうせん)と言う形状の円銭で、この穴の上下には「富本」と言う文字が刻まれており、中国の古典から引用された「国を富まし、民を富ませる本」と言う意味が込められたもの。

また、穴の左右には、陰陽と木・火・土・金・水の五行を表す「七曜」(しちよう)が刻まれており、貨幣が天地の象徴であることを示していると考えられています。

そのあと、708年(和銅元年)に国内で産出された自然銅が朝廷に献上され、和銅と言う元号に改元されると、これを記念して「和同開珎」(わどうかいほう・わどうかいちん)と言う銅銭が製造されました。

和同開珎は、唐で流通していた貨幣「開元通宝」(かいげんつうほう)を模して作られた円形方孔銭です。日本で最初に広範囲に流通した貨幣と考えられており、奈良時代では和同開珎1文(1枚)が1日分の賃金に値していたと言われています。

760年(天平宝字4年)には日本最古の金銭である「開基勝宝」(かいきしょうほう)が鋳造されましたが、鋳造数が極端に少なく、国内で広く流通することはありませんでした。

「皇朝十二銭」と呼ばれた12種類の銅銭

皇朝十二銭の一部

皇朝十二銭の一部

708年(和銅元年)に和同開珎が鋳造された当時、庶民の間ではまだまだ物品貨幣が主流であったため、銅銭は一部の上流階級の間でしか流通していませんでした。

そこで、朝廷は和同開珎発行から3年後の711年(和銅4年)に、銅銭の流通を促すために貨幣を蓄えた者に位階を与える「蓄銭叙位令」(ちくせんじょいれい)を発布します。

朝廷は銅銭の使用を推奨し、銅銭で納税すること、旅人は銅銭を携帯すること、俸給を銅銭で支給することなど、多くの施策を実施しました。しかし、当時の鋳造技術は精度が低かったため、銅銭を偽造する者が出現。

この事態を収束させるため、朝廷は銭文を変えて改鋳(かいちゅう: 鋳造し直して、デザインや成分の含有率を変えて偽造防止を図る)を繰り返していくこととなりました。

こうして、和同開珎が発行された708年(和銅元年)から958年(天徳2年)の「乾元大宝」(けんげんたいほう)発行まで、250年間で12種類の銅銭が鋳造されました。この12種類の銅銭を「皇朝十二銭」(こうちょうじゅうにせん)と呼びます。皇朝十二銭に該当する12種類の銅銭は以下の通りです。

皇朝十二銭一覧
708年(和銅元年) 「和同開珎」(わどうかいほう・わどうかいちん)
760年(天平宝字4年) 「万年通宝」(まんねんつうほう)
765年(天平神護元年) 「神功開宝」
(じんぐうかいほう・じんこうかいほう)
796年(延暦15年) 「隆平永宝」(りゅうへいえいほう)
818年(弘仁9年) 「富寿神宝」(ふじゅしんぽう)
835年(承和2年) 「承和昌宝」(じょうわしょうほう)
848年(嘉祥元年) 「長年大宝」(ちょうねんたいほう)
859年(貞観元年) 「饒益神宝」
(じょうえきしんぽう・にょうやくしんぽう)
870年(貞観12年) 「貞観永宝」(じょうがんえいほう)
890年(寛平2年) 「寛平大宝」(かんぴょうたいほう)
907年(延喜7年) 「延喜通宝」(えんぎつうほう)
958年(天徳2年) 「乾元大宝」(けんげんたいほう)

皇朝十二銭は直径の大きさは多少前後するものの、いずれも円形方孔銭の形式で鋳造されました。朝廷は銅銭を発行することによって、国内の貨幣制度を整えていこうと考えていたのです。

貨幣の品質低下で国産貨幣が発行停止

朝廷は長年にわたって貨幣の一般流通を目指しましたが、当時の日本における技術では、安定した銅銭の製造が難しく、改鋳を重ねるごとに銅銭の品質低下を引き起こしていたことから銅銭の普及を順調に進めることはできませんでした。

皇朝十二銭は、新たに発行されるたびに形は小さく軽くなり、また、各地で銅の生産量が低下したことから時代の流れとともに材質も劣化の一途を辿ることになったのです。

皇朝十二銭の1番目にあたる和同開珎発行時は1文で米2㎏の価値がありましたが、835年(承和2年)に発行された承和昌宝以降は、1文の価値が当初の100分の1から200分の1にまで低下していたと言われています。

また、10世紀以降の延喜通宝、乾元大宝に至っては、鉛の含有量が高いことから「鉛銭」と呼ばれるほど品質が低下した物が多く製造されました。このような貨幣の品質低下が人々の不安を著しく煽り、貨幣離れを加速させて、銅銭は一般流通から遠ざかっていくこととなったのです。

こうして、朝廷は958年(天徳2年)の乾元大宝の発行を最後に、貨幣の鋳造を中止しました。平安時代になると日本経済は、再び米や絹などの物品貨幣へと逆戻りしてしまい、そのあと日本においては江戸時代がはじまるまでの約600年以上、公的な銅銭の鋳造は行われませんでした。