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信貴山縁起絵巻とは
信貴山縁起絵巻の歴史と概要
「信貴山縁起絵巻」は、1150年(久安6年)頃、平安時代後期に制作された日本最古の絵画資料です。平安時代中期に活躍した高僧「命蓮」(みょうれん)にまつわる、摩訶不思議な説話が描かれています。
命蓮とは、「信貴山朝護孫子寺」(しぎさんちょうごそんしじ:別名は信貴山寺)にこもり、寺を再興した高僧のこと。命蓮が居を構え修行を重ねるうちに人が集まり、延喜年間(901~923年)には本堂を改築。その後も僧房、中房などを整備していくことができたと言われています。
その信貴山朝護孫子寺の寺宝が、国宝「信貴山縁起絵巻」全3巻です。
上巻が「飛倉の巻」(とびくらのまき)、中巻が「延喜加持の巻」(えんぎかじのまき)、下巻は「尼公の巻」(あまぎみのまき)。
物語自体は、12世紀の「古本説話集」や13世紀の「宇治拾遺物語」(うじしゅういものがたり)、「今昔物語集」(こんじゃくものがたりしゅう)に収められている説話と同じもの。絵は「鳥羽僧正覚猷」(とばそうじょうかくゆう)による作画という説がありますが、定かではありません。また、金・銀・群青といった当時の高価な顔料が用いられていることから「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の宮廷絵師が制作したのではないかという説もあります。
柔軟な描線で、人物には躍動感があり、表情もいきいきとして豊か。彩色もやわらかで、平安時代のやまと絵を代表する、説話絵巻の最高傑作のひとつです。「信貴山縁起絵巻」は、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)、「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)、「鳥獣人物戯画」(ちょうじゅうじんぶつぎが)とともに、「4大絵巻」と呼ばれています。
信貴山縁起絵巻の見どころ
1巻「飛倉ノ巻」
「飛倉ノ巻」は、別名「山崎長者の巻」とも言われます。詞書はなく、絵のみ。「宇治拾遺物語」に同様の話があり、合わせて読むのがおすすめです。
物語のあらすじは、命蓮の鉄鉢が米倉を運ぶというもの。朝護孫子寺を再興した命蓮が、信貴山で修行をして、山の麓にいる長者に向けて托鉢(たくはつ:僧が念仏を唱えて米や金銭といった施しを鉄鉢に入れてもらうこと)を行っていました。
しかし、長者は何度も行われる托鉢を嫌がり、鉄鉢を米倉にしまい込んでしまったのです。ところが、その鉄鉢が米倉を乗せたまま浮き上がり、命蓮のいる山へと飛んでいってしまいました。倉を追いかけて命蓮のもとへやってきた長者は、米倉を返してほしいと頼みます。「米倉は返せないが俵は返す」と命蓮が言うと、俵を乗せた鉢が長者の家へと戻っていくという、何とも不思議なお話です。
幾つもの俵が空を舞い、次々と運ばれていく描写が、まるで現代のアニメーションのようで見事。人々がびっくり驚いている表情もとても豊かでユニークです。長者の屋敷も丁寧に描かれ、当時の長者と庶民の生活ぶりがよく分かる資料としても貴重です。
2巻「延喜加持の巻」
「延喜加持の巻」は絵と詞書による構成です。物語のあらすじは、命蓮が「剣の護法」を飛ばして帝「醍醐天皇」(だいごてんのう)の病を癒すという話。信貴山にいる命蓮のもとに勅使がやってきて、「醍醐天皇の病気を治しに京都に来て欲しい」と依頼されるのですが、命蓮は「ここ[信貴山]で祈禱をする」と返答。命蓮は、災厄から人間を守るとされる護法「剱鎧童子」(けんがいどうじ)を天皇のもとへと遣わし、見事、帝の病気を全快させました。
剱鎧童子が乗った雲尾にスピード感があり、法力の威力を感じられます。また街を小さく描き、剱鎧童子が天高く飛んでいることを分からせるなど、随所に遠近表現がなされ、秀逸です。
3巻「尼公ノ巻」
3巻「尼公ノ巻」は絵と詞書による構成。ひとつの画面に時空が異なる同じ人物が描かれており、漫画と同じ形式。これが、日本の漫画文化のルーツになったとされています。
この物語のあらすじは、命蓮の姉「尼公」(あまぎみ)が、20年間会っていない弟・命蓮に会うために、故郷である信濃(現在の長野県)から訪ねてきて、命蓮と信貴山で再会する話です。しかし、弟・命蓮がどこにいるのか分からず、東大寺の前で祈り、そのうちに寝入ってしまいます。すると、夢で命蓮の所在を告示されたため、その通りに信貴山へと向かうことで、再会を果たすことができたのです。
尼公が祈ったり仮眠したりする絵には「異時同図法」(いじどうずほう)が使われています。異時同図法とは、ひとつの構図に異なる時間を描くことで連続した動作を表現できる手法。例えば、同じ場面に大仏に祈ったり夢想したりする、たくさんの尼公が描かれており、異なる時空であることが表現されています。
なお、東大寺大仏堂は、1567年(永禄10年)に「東大寺大仏殿の戦い」にて焼失。この信貴山縁起絵巻には、創建当時の大仏堂が写実的に描かれており、当時の様子が分かる資料としても評価されています。
信貴山の宝物とは
信貴山朝護孫子寺と信貴山城
「信貴山」とは、奈良県生駒郡にある、標高437mの山のことです。582年、「聖徳太子」が「毘沙門天王」(びしゃもんてんのう)を感得し、「信ずべし、貴ぶべし」と言ったのが、「信貴山」の名前の由来となっています。
それが、寅の年、寅の日、寅の刻だったことから、大寅「世界一福寅」が祀られ、「寅の神社」とも呼ばれているのです。信貴山は、南峰と北峰があり、南峰山腹には信貴山朝護孫子寺が建ち、山頂には「信貴山城」がありました。
信貴山朝護孫子寺は、「信貴山真言宗」(しぎさんしんごんしゅう)の総本山です。この山で修業をしていた命蓮に、醍醐天皇の病を治すよう勅命がくだり、命蓮が毘沙門天王に病気平癒の祈願したところ全快したため、「朝護孫子寺」の勅号を賜り、「信貴山朝護孫子寺」という名称になったのです。
信貴山朝護孫子寺の宝物
信貴山朝護孫子寺には「霊宝館」があり、国宝の「信貴山縁起絵巻」の他にも、重要文化財「兜 菊水紋付(伝・楠木正成公 所用) 金銅鉢」など、信貴山の寺宝が展示されています。
一方、山頂にあった「信貴山城」は、1536年(天文5年)に「木沢長政」(きざわながまさ)が築城し、1560年(永禄3年)に戦国武将「松永久秀」(まつながひさひで)が入城した城。
松永久秀は、当初「織田信長」に従っていましたが、1571年(元亀2年)に「武田信玄」に通じて離反。1573年(元亀4年)に降伏したものの、1577年(天正5年)に再び織田信長に兵を挙げて失敗。松永久秀は、信貴山城の天主に火を付けて自害し、信貴山城は廃城となりました。
信貴山城の宝物
【国立国会図書館ウェブサイトより転載している作品】
- 志貴山縁起(信貴山縁起絵巻)1巻「飛倉ノ巻」
- 志貴山縁起(信貴山縁起絵巻)2巻「延喜加持の巻」
- 志貴山縁起(信貴山縁起絵巻)3巻「尼公ノ巻」