今回からスタートする「編集長インタビュー」。ライフハッカー[日本版]編集長のわたくし、米田智彦がさまざまなジャンルで活躍される方にビジネス術や人生哲学をお聞きする企画です。記念すべき第一回は、どなたか人生の大先輩、今風に言うと「パイセン」にお逢いできたら...と考えていたら、本当に自分の通っていた福岡の高校の先輩になってしまいました。

登場していただくのは音楽プロデューサーの松尾潔さん。R&Bファンにはニックネーム「KC」でも知られています。宇多田ヒカルのデビュー時のブレーンであり、平井堅ブレイクの仕掛け人、CHEMISTRYの生みの親であり、EXILEの「Ti Amo」では第50回日本レコード大賞を受賞した、日本の音楽シーンを代表する作詞家/作曲家/プロデューサーです。

松尾さんが音楽制作の道に入る以前は、ブラックミュージック専門誌『bmr』などに寄稿するライターでした。早稲田大学在学中から執筆活動をはじめ、次々と海外の大物ミュージシャンの独占インタビューに成功します。その中でも破格だったのが「ファンクの帝王」ジェイムズ・ブラウンと、マイケル・ジャクソンのアルバムを手がけ、世界一の音楽プロデューサーであったクインシー・ジョーンズ。この2人との邂逅が松尾さんのその後の音楽制作人生に大きな示唆を与えることになります。

そんな松尾さんにとって、意外にも初の音楽評論集となる『松尾潔のメロウな日々』(SPACE SHOWER BOOKS)が6月に発売されました。世界のR&Bシーンを代表する錚々たるミュージシャンたちとのエピソードだけでなく、数々のCDに収められた松尾潔のペンによるライナーノーツも一挙に収録されており、音楽不況の時代の中にあって、評論本としては異例の大ヒットを記録しています。「初めての音楽書籍を仕上げるのに25年かかってしまった(笑)」とご自身がおっしゃるだけあって、毎ページ、線を引きたくなる珠玉の名文がつまった1冊です。

そこで今回は、ブラックミュージックに没頭していった原点から始まり、音楽とビジネスを両立させる秘訣に加えて、音楽ジャーナリスト、文筆家としての松尾さんの一面もお聞きしました。それでは前中後編のスペシャル・ロングインタビュー、スタート!

松尾潔/Kiyoshi "KC" Matsuo

1968年、福岡県生まれ。音楽プロデューサー/作詞家/作曲家。「Never Too Much Productions」代表。早稲田大学在学中にR&B/ヒップホップを主な対象として執筆を開始。アメリカやイギリスでの豊富な現地取材をベースとした評論活動、多数のラジオ・TV出演を重ね、若くしてその存在を認められる。久保田利伸との交流をきっかけに90年代半ばから音楽制作に携わり、SPEED、MISIA、宇多田ヒカルのデビューにブレーンとして参加。その後プロデュースした平井堅、CHEMISTRYにミリオンセラーをもたらして彼らをスターダムに押し上げた。また東方神起、Kといった韓国人アーティストの日本デビューに関わり、K-POP市場拡大の原動力となる。その他、プロデューサー、ソングライターとしてEXILE、JUJU、由紀さおり、三代目J Soul Brothersなど数多くのアーティストの楽曲制作に携わる。シングルおよび収録アルバムの累計セールス枚数は3000万枚を超す。

ポップ・ウィルスに感染し、経費感覚でレコードを買っていた少年時代

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米田:今回、松尾さんが出版された『松尾潔のメロウな日々』の英語タイトル『Rhythm & Business』に掛けまして、音楽という創作・表現と、音楽というビジネスの関係を中心にお聞きしたいと思っています。僕は90年代から松尾さんの原稿を読んだり、ラジオ番組を拝聴したりしていて、ずっとお会いしたかったんです。先日、松尾さんに初めてごあいさつした際、名刺をお渡ししたら、「もしかしたら定住なさってない方?(米田が2011年の1年間、家と家財を捨て、東京を旅しながら暮らした生活実験「ノマド・トーキョー」のこと)」って言ってくださってビックリしたんです。

松尾:そうそう、僕、米田さんに「誰かから米田さんの話を聞いたんですよ」って言ったでしょ。結局、誰だったか思い出せないんですけど、とにかく、その方は僕と米田さんが面識があると思っていたみたいで、「松尾さんと会いたがってましたよ」って言っていて。最近会ってないだけだと誤解されていたようです。

米田:いやあ、あのときは、日本一の音楽プロデューサーの情報網の凄みを感じたんですが(笑)、どなたかとそんなやり取りがあったんですね。ところで、僕は、松尾さんの高校(福岡県立修猷館高校)の後輩なんですよ。

松尾:そうなんですね。僕は1986年の卒業です。

米田:僕は1991年の卒業ですから5つ下です。僕は洋楽少年で、小学校のときに MTVと出会い、マイケルやマドンナで入った口なんですが、高校に入るとバンドブームがやってきて、レベッカとかBOOWYとかJUN SKY WALKER(S)とか、学校中で邦楽のコピーバンドをやるようなバンドブーム全盛の時代だったんです。ですので、部活動の仲間はいても音楽友達が周りに全然いなくて、1人で福岡市内の中古レコード屋さんに行っては洋楽のCDを漁る毎日でした。それで、松尾さんのラジオを聴いたり文章を読んだりしていると、たまに高校時代の話や、福岡のマニアックなレコード屋さんの話とかが出てきて、当時を思い出すことがたくさんあったんです。ただ、著作を読ませていただいても、誰からの影響で中高時代にそこまでブラックミュージックにのめり込んだのか不思議だったんです。どちらかという質実剛健な校風で、そんなに芸術方面に強い学校でもなかったので。

松尾:逆にお聞きしたいんですけど、米田さんはそういう音楽はどなたからの影響ですか。

米田:えっと...そう言えば、誰の影響でもないですねえ。父は音楽マニアでもなく、うちにはレコードプレーヤーすらなかったもので。ただ強烈なラジオっ子だったので、AM、FM問わずラジオはよく聴いていたという。

松尾:ラジオを聴いてもそういう音楽に反応する人としない人がいますよね。極端な話、同じ環境で双子が育っても何かに反応する方としない方に分かれることがあります。そういうのは先天的なものじゃないかと僕は思うんですよね。子どもの頃、ポータブルラジオを手にしたときにすごいことだと思いませんでした?

米田:思いました。一生懸命、いろんなところに周波数を合わせようとして、いろんなラジオ局の放送を聴いていました。福岡だとハングルが聴こえてきたりしたんですよね。

松尾:そう、何かをキャッチしているような感じがしませんでした? 空中を飛び交う電波を探り当ててそこにうまく耳を近づけると、ラジオなしでも何か聴こえるんじゃないかと。そんな夢想を本気で信じ込んでいる人たちのことを俗に電波系って言いますけど(笑)。

でも実際、世の中にはいろんな文化的ウィルスが飛び交っているものです。僕らの高校の先輩で一昨年亡くなった川勝正幸(ライター、編集者。著作に『ポップ中毒者の手記 約10年分』など)さん風に言えば、「ポップ・ウィルス」が飛んでいて、それがいろんな人たちに付着しているはずなんです。ただ反応を起こす人と起こさない人がいて、僕や米田さんは強く反応したんでしょう。僕は黒人音楽が好きだけど、子どものときにアフリカン・アメリカンに囲まれて生活したわけでもない。普通の子どもよりちょっと長い時間ラジオを聴いたりしていただけです。パンク人気が盛んな博多という地域的な影響、あるいは世代的な風潮もあって友達の多くは洋楽といえばセックス・ピストルズとかに強く反応していましたけど、僕はそっち方面ではなく、アース・ウィンド&ファイヤーとかクインシー・ジョーンズに反応したんです。

でも、成長していくと、だんだん自分が好きなものっていうのが分かってくるでしょ。そしたら精度を高めていきますよね。外れが少ないような能動的な聴き方をしていく。加えて、僕は自分が好きなものを見極めるというのが他の人よりちょっと早かったのかなとは思います。父がジャズ好きだったので、そこは米田さんのケースとは違うかもしれませんが。幼い頃はオルガン、小学校に入学してからはピアノを習わされていましたし。贅沢を許されていたわけでもないんですけど、レコードやレコード針に関しては、子どもにも制約を設けずに買わせてくれたんです。小遣いとは別枠で音楽にかかる経費は申告制でした。

米田:小学生の頃からレコードを買うお金は経費精算できたと(笑)。

松尾:母は質素な生活を好む専業主婦で「お腹が減ったら家に帰ってきなさい」という人でしたから、そもそも駄菓子屋で頻繁に買い食いできるほどの小遣いはもらってないのだけど、「レコードを聴きたい」と言えばわりと買ってくれたんです。一応「誰の?」って訊かれましたけどね。あとは中古レコードを掘る楽しみに中学の頃から目覚めたんです。学校帰りにレコード屋に入り浸っていたんですが、どのお店に行っても最年少だから可愛がられるんですよ。高校生になると、アルバムの売買とか、全国のいくつかのレコード屋さんとオークションもやっていました。

米田:ネットのない時代にすごいですね。

松尾:(お金の代わりに)切手で買ったりしていました。郵便だから1カ月ぐらいかかるんですが、それで安く競り落としたアルバムもありましたね。

米田:そういえば、松尾さんって高校では水泳部でいらっしゃいましたよね。部活動しながら音楽もやられていたんですか?

松尾:父親が同じ高校の水泳部のOBだったんです。それもあって入部したんですが、僕は水泳の才能もセンスもなくて。都合よく身体検査で不整脈が出たから、泳ぎは休んでウエイトトレーニングばかり。帰り道にはせっせとレコ屋通い。結局、水泳部は辞めちゃいましたけど、同期の部員とはずっと仲良くて一緒にバンドの真似事をやったりしましたよ。僕はベースとボーカルでした。

普段あんまりこういうことは話さないんですけど...プロのミュージシャンを目指すようなレベルではなかったけど、ピアノとベースの他に、ギターやトランペットも一応やってはいました。ストリングスとかドラムはやってないんですけどね。プロデュースする上ではいろんな楽器に触っていた経験は役に立っていますよ。ただ「楽器をやってました」ってアピールするには、今、周囲にあまりにも凄腕の人たちがたくさんいるので、まあ、触っていたとつぶやくぐらいで(笑)。別に謙遜するわけでもなく本当にそれぐらいなので。プロデューサーになってから実際に演奏したことは本当に片手ぐらいしかないんじゃないかな。

米田:あ、レコーディングで松尾さんが演奏をされたりもするんですね。

松尾:はい。でも恥ずかしいから、演奏してもクレジットしないですよ。「Produced by」っていうクレジットがあれば、コーラスとかやったりしても基本、名前は載せてきませんでしたね。

芸術に触れた上で、エンターテインメントの要素があるものが好き

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米田:それから、大学生でライターになる前段階として文学への傾倒があったんじゃないかと思って、そこもお聞きしたかったんです。僕、松尾さんの『学食巡礼―未来を担う若者が集うユルい空間』(扶桑社、2002年刊。松尾さんが80校あまりの大学の学食を巡りレポートした本)という本を発売当初に読んでいたのですが、あとがきに開高健さんとか関川夏央さんとか作家の名前が出てくるじゃないですか。

松尾:なんですか、それ? そんなこと書いてましたっけ。

米田:『学食巡礼』は関川夏央を念頭にして書いた、と書いてありますよ(笑)。その影響で僕、一時期関川夏央さんを読むようになったんですから。

松尾:なるほど、それは失礼しました(笑)。文学の話といえば、この間、高橋源一郎(作家)さんのラジオ番組に呼んでいただきましたよ。

学生時代、文学部学生のたしなみとして高橋さんの代表作と言われるものは読んでましたけど、僕が好むものとはちょっと肌合いが違うところがあって。でも、彼が翻訳した『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(ジェイ・マキナニー著)はすごく好きでした。番組が終わった後に、持参したその本へのサインを求めました。「たくさんの小説をお出しになってる高橋さんに失礼かもしれませんが、僕の思い出の1冊なんで、この訳書にサインしていただけますか?」って言ったら、高橋さんは「意外とこれが好きな人多いんだよな...」なんて笑いながらサインしてくださって。そのあと、「僕も松尾さんにサインお願いしちゃおっかな」って茶目っ気たっぷりに『学食巡礼』をお出しになったんです。そもそも僕は『松尾潔のメロウな日々』のプロモーションで番組に出させていただいたんですけど。ほんとお洒落な方ですよね。

先日もBRAHMANのTOSHI-LOWさんに「『学食巡礼』読んでました!」って言われて嬉しかったんだけど、当時『学食巡礼』は本当に売れなかったんですよ。その前に書いた『TOKYO LONELY WALKER―自称・東京通たちに贈る「真のトレンディ」ガイド』(扶桑社、2000年刊)に続いて初版で終わってしまいました。まさか、一番マニアックな『松尾潔のメロウな日々』が重版かかるとは(笑)。

米田:『学食巡礼』があまりに売れなかったことで執筆への興味が薄れて、活動の軸足を音楽制作に移されたと、『en-taxi』のコラムで書かれていましたね。世間一般的には、松尾さんはR&Bを日本の音楽シーンに定着させたヒットメーカーとして認識されているけど、音楽ファンの中では、博覧強記な凄腕のライター/ジャーナリストとして名が轟いているし、「松尾さんの音楽に関する本がなぜ出ないんだろうか」って僕の中でも高まりが一番高まったときでしたから、僕と同じように、松尾さんの本格的な音楽評論本を待っていた人が多かったんじゃないでしょうか。

松尾:そうだとしたらありがたいですね。30代前半の勢いでサブカル本を出していた頃とは違い、ライター仕事から離れて久しく、ましてや40代も後半に入った現在となっては、音楽の本を出すと決めてからも理想の形に近づけるまでがひと苦労でした。僕が一番好きな音楽ジャーナリスト、ネルソン・ジョージの『Where Did Our Love Go?』(邦題『モータウン・ミュージック』。モータウンレコードの歴史を綴った本)という本の序文はクインシー・ジョーンズが書いてるんです。自分も音楽の本を出すときは序文が欲しい、それもやっぱりマエストロ的な人に書いてほしい、そう思って、達郎さんにお願いしましたし。

米田:それで山下達郎さんが執筆されたのですね。でも、松尾さんが文学について語られているのって、実は皆さん、あまり読んだり聞いたりしたことはないと思うんです。

松尾:パブリックなところとしては高橋源一郎さんのラジオ番組で初めて語ったのかもしれません。僕は大学のときは文芸専修にいて、授業で小説を書いたりするようなところだったんです。でも当時からプロのライターだと強く自覚していましたから、周りの作家志望学生が小説の真似事みたいな甘ったるいものを書いてる姿を小馬鹿にしてたんですよ。「俺はギャラをもらわなきゃ原稿は書かないよ」的な上から目線。そんな自分こそ幼かったんですけど(笑)。

大学っていわゆる純文学を教えるところになっちゃうんですね。僕は純文学も好きだけど、大衆文学も好きだし、今あんまり使わない言葉だと中間小説とかも読んでいた。先日も高橋さんとそういう話になりましたけど。芸術というものに触れたうえで、エンターテインメントの要素があるものがやっぱり好きなんですね。クインシーなんてまさにそういう人だと思うんですけど。ただ売るためだけの音楽をやるつもりもないし、ただ売るだけのための小説っていうのが仮にあったとして興味はないんです。

米田:松尾さんの文体、特に文語と口語のバランスが絶妙な点にも惹かれるんですが、どこでそういう文章術を覚えたんだろう?と単純に興味があります。

松尾:僕の考える文章の美しさっていうのがあって、そこに関しては、人の書いた文章以上に自分が書いた文章にはこだわりが強いんです。そういえば、この間こういう話がありましたよ。ドナルド・キーン(アメリカ出身の日本文学研究の第一人者)さんが、ずいぶんお若いときに書いた小説が57年ぶりに発見されたんですって。ご本人も書いたことを忘れていたそうです。当時、自分でボツにしていたとか。彼は非常にウィットに富んだ言い方で「私は厳しい批評家だったのでしょう」とおっしゃっていて。要は小説家としてのスキルは、自分の批評眼にかなわなかったと。

生意気な言い方をすれば、僕にもキーンさんに近い客観性がありました。それゆえに、自分の好きな文体で本を書くとなると、もう本当にカロリーを使ってしまうことがあらかじめ自分で分かっちゃうので、ずっと後回しにしていたという事情もあります。

米田:なるほど。だから、音楽評論の本はなかなか出さなかったんですね。

松尾:音楽でも楽曲制作となるとまだ「これはこれでアリだよなあ」ってカジュアルに判断できるんです。それは決してクオリティのことじゃなくて、方向性とか美しさとか、自分の中のビューティーっていうものの基準がもうちょっとフレキシブルというか。もしくは「こんな美しさもあっていいだろう」っていう風に柔軟に考えられるというか。でも、文章に関しては、どうしてもストリクト(厳格)になってしまうんですね。

音楽評論の影響を受けないまま、音楽ライターとして活動を開始

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米田:ところで、最初に原稿料をもらった文章って覚えてらっしゃいます?

松尾:はい、覚えています。1988年の夏です。『bmr』なんですよ。『ブラック・ミュージック・リヴュー』が正式名称で、当時はまだ小さな判型の雑誌だったんですけど。

毎年8月15日に全国戦没者追悼式がありますよね。その年、1988年の式典にも例年通り昭和天皇がご臨席されたのですが、それが公の場にお出になった最後の機会でした。翌年崩御されて、大喪の礼があって。そういう時代です。最後のお出ましの5日前、僕にとって初めての「ギャラが出る原稿」が活字になりました。

つまり、松尾潔は昭和最後の夏にデビューしたライターなんです。ただ、僕が書き出した頃はもうCDの時代に入っていたから、新譜LPのライナーノーツを書いたことが一度もないというのがレコード世代としては残念な話ですけど。ところで米田さん、僕はそれまでいわゆる音楽専門誌って全然読んだことがなかったんですよ。

米田:え!? そうなんですか?

松尾:全く読んでなかった。音楽についての文章なんて必要だと考えたことなかったんです。音楽評論っていうものも意識したことがなかったですね。国内盤のライナーや男性誌の音楽ページに目を通す程度。書き始めるにあたって誰からも影響を受けてないなんていうつもりはないですが、高校生のときに自分で音楽専門誌を買ったことはないですね。そんな時間があったら小説を読んでいましたから。

だから、音楽評論と呼ばれるものを書いてきたけど、僕の文体に影響を与えてくれたのは、小説とコラムです。そのせいでしょうけど、エッセイ的だとよく言われます。ただ、もちろん仕事をするようになってからは、同業の先輩の文章を意識して読むようになりましたけどね。

プロのライターになった時点で、アメリカの黒人音楽と日本の歌謡曲の二本柱で好きなものが決まっていたんですね。まあ黒人音楽と呼ばれるものは幅広いわけですが。ブルースみたいな伝統的な音楽から、ジェフ・ミルズ(デトロイトテクノを代表するDJ、ミュージシャン)といったテクノだって黒人音楽ですよね。だけど、僕が好きなのは、黒人音楽の中でもR&B、要は黒人の歌謡曲。それと日本人の歌謡曲なわけです。

米田:それはまさに、ポピュラーミュージック、ポップスと言ってもいいですよね。

松尾:そうですね。歌ものが好きなんです。それからアメリカの音楽評論に関して言うと、80年代終わりに『bmr』に出入りするようになってからすぐに『Billboard』等の洋雑誌から記事を選んで翻訳して、毎月情報を載せるコーナーをやらせていただきました。当時の編集長の高地明さんが、暇な学生だった僕が英語の読み書きがある程度できることを見込んでくださったんですね。それで22歳ぐらいのときから急に洋雑誌が自宅に毎月何十冊も届くようになりました。今だとネットで記事を集めて、それをもとに自分の記事を書いてる方がいらっしゃいますけど、その活字版みたいな仕事でしたね。英語力を高めるバイトとしてはすごく楽しかったです。おかげで英語で書かれた音楽評論はすごく読んでいました。だからこそ、ジェイ・マキナニーを平易な日本語に訳した高橋源一郎さんはいわば翻訳の先生でした。

ヤナセは左ハンドルを右ハンドルに付け替えて販売する技術に長けていたから日本における輸入車ビジネスの王になったわけですが、その種のいわゆるローカライズ、カスタマイズという作業は文化を輸入するにあたっての肝ですよね。僕もそこは当時からすごく意識してましたね。

自分で自分の仕事に枷を設けること

米田:では、インタビュアーとしての腕はどこで磨かれたんですか? たぶん、取材っていうのも、どこかの編集部に入って先輩の現場に付いていった...とかそういうことではないんですよね、松尾さんの場合は。

松尾:最初はもう突撃ですよ。ニューヨークと東京にベースを置いて活動されている日野皓正さんが、ニューヨークのセッション系のミュージシャンをたくさん引き連れて来日公演をおやりになったときですね。バックのミュージシャン目当てで僕は行って、ライブが終わった後も関係者の体で残って、昔からずっとそこにいるような顔をしてましたね。

米田:松尾さんって当時二十歳そこそこですよね。どこの現場でも最年少だったんじゃないですか?

松尾:僕って本当にね、10代後半のときから28歳ぐらいに見える顔をしてたんですよ。で、35歳ぐらいまで28歳のような顔をしていた(笑)。内心ドキドキもしてたのかなとも思うけど、自分にはちょっと厚かましいとこがあって、別に盗みとか悪いことをやってるわけじゃないし、「出てけ」って言われたら出ていきゃいいだろうみたいな感じで、平然とした顔で残ってました。それが最初の取材ですね。

米田:松尾さんのお話を聞くと度胸の良さにいつも驚かされます。それから、日本でポップ・ミュージックを制作するにあたっては、 日本語との格闘ということにほとんどのエネルギーを使うんだということもおっしゃっていて。『メロウな日々』の中にとても印象的なくだりがあるんですが、音楽の歌詞における「リアル」というのは、直裁的な描写や写実的な表現じゃなくて、絵画的な表現なんだ、というようなことが書かれていて、なるほどな、と思ったんです。

松尾:普段から思っていることを自分なりに書いたまでですが、そのことについてインタビューで訊かれたのは今回が初めてですね。だけど、そこに反応されたっていうのは、米田さんがかつてご自分で音楽を制作されたり、あと、今も音楽的な何かをすごく意識されているからじゃないですか。

米田:確かに、インタビューを行うというのは、僕にとっては若い頃やっていたジャムセッションのような感覚やイメージは確実にあります。

松尾:あそこの箇所は、音楽制作者として結構正しく書けたって僕自身思っているし、若いミュージシャンにこそ反応してほしかったんだけど...スルーされるんだよな(笑)。

米田:絵画的表現っていうのは、要するに、いとしいとか恋しいとかって気持ちを、いとしい、恋しいとそのままを書くのではなくて、その言葉を使わずに違った表現、風景の描写などで気持ちを伝えるっていうことですよね。嬉しかったときに「嬉しい」とは書かずに、そのとき目に映った物や光をどう描けるかとか。

松尾さんはそこに一番心がけられていたということがわかって、音楽プロデューサーや作詞家の方はこういうことを考えられるのか、いや、松尾さんはこんなことを考えて制作されているのか、とハッとしたんです。それは音楽に限ったことじゃなくて、今、言葉を使った表現に関わる人なら誰もが考えた方がいいことだとすら僕は思うんですよ。要は、情報を伝えるんじゃなくて、情感を伝えるためにはどうしたらいいかということです。

松尾:特に決まったお題があるわけではないとき、言うなれば自由作文だとしても、自分で勝手にお題を掲げて課題作文にしているんです。こんなテーマでいこうと毎回自分に課してるんです。僕が音楽プロデュースという実作に入る前から親しくしていた友人に、佐々木士郎っていう人がいて...。

米田:宇多丸さんのことですね(笑)学生の頃からライムスターとは親しかったんですよね。

松尾:ええ。先日、彼のパートナーのMummy-Dこと坂間大介とNHKでバッタリ会ったんです。僕は自分のラジオ番組(FM『松尾潔のメロウな夜』)の収録をしてきたんですけど、彼もあそこでナレーションの仕事をやっていて(Eテレ『人生デザインU-29』』)。むかし『bmr』でディスクガイドを書いていた学生ライター2人が、なんで今NHKでしゃべり手同士として会ってるんだっていう(笑)。

米田:(笑)。

松尾:久しぶりに会って話すうちに思い出したことが結構ありました。僕がDOUBLEという姉妹デュオの「BED」というシングルをプロデュースしたときのことです。ヒップホップ・リミックスをMummy-Dにお願いしたんです。彼と彼の弟のKOHEI JAPANがラップもしてくれました。当時は兄弟2人ともまだ20代でしたが、お兄ちゃんのMummy-Dはイースト・エンドの「DA.YO.NE.」を書いた実績もあり、すでに名リリシストと言われはじめていました。で、その2人が「BED」のラップ詞を書く過程で言い争いを始めたんですね。セックスがどうしたこうしたというリリック(歌詞)を書いた弟のKOHEIに対して、お兄ちゃんが「なんだ!おまえ、このリリックは? セックスをセックスって言うな」って。

米田:だはは。

松尾:セックスをセックスって言うな。僕の中でそれって名言なんです。KOHEIはMummy-Dから書き直しを命じられて。どうやらKOHEIくんは「情事のあと」の様子を書きたかったようなんですね。結局、KOHEIくんは「使用済みの帽子」という名フレーズを編みだすのですが。

米田:うーむ...メタファーですねぇ。

松尾:僕はプロデューサーとしてリミックスを発注したけど、そこに載せるラップの方向性までは限定していませんでした。でも、彼らは勝手にテーマを掲げて、「今回のNGワードは~」と決めてやっていたわけです。そういうことを考えながら創作をする人たちはそりゃあ伸びますよねえ。

人のことを見ているとそう思うし、僕もいつもあえて自分で枷を作って、その中でどうできるかということを心がけています。その枷を意識すれば、はみ出したときもすぐまた戻れるから。だからこそ、はみ出すほどの冒険もしやすくなりますし。これってちょっと創作のヒントになるかなって。他の仕事にも使えるコツだと思うんですよね。

小さいころから大人びたい、大人たりたいと思ってきた

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米田:ところで、松尾さんが以前、菊池成孔さんのラジオ『粋な夜電波』に出られたとき、冗談めかしてご自身のことを「R&B畑出身で唯一大人社会と口が聞けたプロデューサー、松尾潔でございます。」って自己紹介されてたのがすごくおかしかったんです。でも、20代のうちにそうやって、趣味の世界に生きながらビジネスマンともやり合えたというか、コミュニケーションを取れたのはなぜなんですかね。

松尾:R&Bやジャズという僕が好む音楽はずっとマチュア(成熟した)な文化なんですね。二十歳ぐらいの男の子でも夜の情景が似合う楽曲を当然のように歌う。昔の話をすれば、オーティス・レディングなんて26歳で亡くなってるけど、生前のどの写真を見ても、もうオッサンみたいだったじゃないですか。

マイケル・ジャクソンのネバーランド願望みたいに永遠の子どもでいたいという人もいます。彼の人生を見ていると、アフリカン・アメリカンのコミュニティの中にいて、早く大人になれというプレッシャーに耐えられない人たちも少なからずいるんだなとは思いますが、基本、アフリカン・アメリカンは早く大人になりたい、大人びたいという文化だと思うんですよ。

米田:映画『マルコムX』なんか観ると、子どもなのにみんなスーツを着たり、ギャング団みたいなことをして、すぐ大人びていきますよね。

松尾:そうなんですよね。僕がやってきたインタビューでも「まだ14、5歳の頃にそんな悪いことやってたの?」とツッコミを入れたくなるような告白に出くわすことがよくありました。「LL・クール・Jってマジで俺と同じ歳?どんだけ大人びてんだよ」みたいな。さっきも話したように自分も中学生、高校生ぐらいのときから音楽という共通言語を通してしか行けない場所、中古レコード店とか音楽スタジオに出入りしていたせいで、かなり年長の人々に囲まれてきました。悪いことはしてないけど(笑)。彼らは過度に子ども扱いせずに接してくれましたから、僕も同級生より早く大人になれたような快感がありました。その頃って、背伸びすれば背が伸びちゃう年齢ですからね。

もちろん、年相応に未熟なところもたくさんあって、社会性は100点だけど社会常識になると20点とか、そういうことは当時も今もあるかもしれない(笑)。ただ、大人たりたい、大人でありたいという気持ちは少年時代から人一倍強かったですね。

※8/24(日)公開の中編に続きます。

(聞き手・文/米田智彦、写真/有高唯之)